武術空手研究帳

* 以下に掲載するのは、「月刊 空手道」(福昌堂) 2009年1月号~2010年2月号に連載された「武術空手研究帳」(但し、一部表現を追加・変更)である。

武術空手研究帳 - 第2回

 [ 主に首里手系の空手の研究・修行をしてきた私だが、最初に出会ったのが剛柔流ということもあり、那覇手についても、特にその根本的な技法に関しては、強い関心を持っている。

 古伝首里手の発力法が分かった私が次に研究したのは、那覇手の発力法であった。]

那覇手の発力法とは?

 古伝の首里手と泊手の代表型の再生と分解を(荒削りではあったが)とにかく一通り終えたとき、私はふと「那覇手の発力法とは、一体どのようなものだったのだろうか?」という疑問を持った。

 そこで早速、剛柔流の型の本を開いてみたのだが、驚いたことに、どこをどう見ても「発力法」を使えるところが全く見当たらないのである。

「古伝の那覇手には、発力法が無かったのだろうか?だからこそ、那覇手では鍛錬が重視されていたのだろうか?」

 最初はそう考えた。しかし、那覇手もまた古伝の時代には武術だったわけで、武術としての那覇手に「発力法」が無かったとはとても思えなかったのである。

 そこで、腕組みをして考えた。私は主に首里手系の空手を練習してきたのだが、最初に習った空手は剛柔流なのであり、昔は随分と剛柔流の本なども買って読んでいたから、一応の知識はある。

 とにかく、あれこれ思い出しては考えていたのだが、以外とあっさりと答えが出た。

 先ほど、剛柔流の型の本を見ても全然分からなかったのは、実は、首里手の観点から剛柔流の型を見ていたからなのだ。

 というわけで、早速、実験開始である。

 何しろ那覇手は、姿勢からして首里手とは違う。久しぶりに行なう那覇手のポーズなので、かなり意識的に注意して姿勢をとった。そして、「発力法」で突いてみたのだが…

「あれっ?」確かにエネルギーは発生しているのだが、突きの動作の半分くらいで、そのエネルギーがシュンと消えてしまうのだ。

 もう一度やってみた。だが、また同じだ。

 三度目にチャレンジしようとした時である。自分の姿が戸ガラスに映っているのを見て「あっ」と気がついた。

 私は首里手の引き手、即ち、腰の高さに引き手を取っていたのである。

「何だ、これが原因か」

 というわけで、今度は、剛柔流を習ったときの引き手である、胸の高さに引き手を取って「発力法」を試したのである。

 しかし・・・、今度もダメだったのである。

 確かにエネルギーは発生している。これは間違いがない。しかし、先ほどとは違って突きの動作の半分以上はエネルギーが持つのであるが、最後の、突きが伸びきる直前で、今度もまたシュンとエネルギーが消えてしまうのである

「うーん。これは一体どうしたことか?」

 また、腕組みをして考えた。

 しかし、今度もまた、以外とあっさり答えが出た。

「そうか、那覇手の引き手には、確かもう一種類あったな・・・」

 昔、本か何かで見た、別の引き手のやり方を思い出したのである。那覇手には、肘を下に向けて、腕を折りたたむようにして、拳を胸のあたりに構える方式の引き手があったのだ。

「よーし、今度は大丈夫だろう」

 そう思いつつ、那覇手の「発力法」で突きをやってみると・・・、今度は完全にうまくいったのだ!

 このことから、また、古伝の那覇手の引き手は、肘を下に向けて腕を折りたたむ方式だったことも確認できたわけなのである。

 ここで、首里手の「発力法」と那覇手の「発力法」との違いを、主観的な表現ではあるが、参考までに述べておこう。

 まず、首里手の「発力法」は、前述したように、体内で大きなエネルギーが発生したような感じがして、拳がすっ飛んで行くのであり、言わば、胴体が弓、腕が矢のような、豪快な「発力法」と言える。

 これに対して、那覇手の「発力法」というのは、体内というよりも、その折りたたんだ腕自体にエネルギーが発生したような感じがして、バッと腕が開いていき、やはり肘が伸びきって止まるのである。

 ところで、よく「那覇手の突きは肘を伸ばさない」というような意見を目にすることがあるが、「発力法」を使う以上は、肘は必ず伸びきって止まるのであり、そのような意見は、少なくとも古伝の那覇手には当てはまらないのである。

 私が空手を始めたのは、昭和四十年代の終わり頃に起きた「空手ブーム」の前なのだが、剛柔流の突きは肘をちゃんと伸ばす方式だった。

 また、私の知る限りではあるが、肘を伸ばさない突きというのは、極真空手系統以外には見たことがない。

 結局、この「那覇手の突きは肘を伸ばさない」という意見は、おそらく「空手ブーム」の後に、誰かが、極真空手の突きを那覇手の突きと思って、言い出したことなのではなかろうかと思うのである。

「貫手」の空手だった

 さて、話を戻そう。

 古伝の那覇手の「発力法」が分かった私としては、すぐに次のような疑問が沸いた。

 古伝の那覇手も武術である。そして、武術である以上は、技の「威力」というのはとても大事なはずだ。しかるに、古伝の那覇手では、明らかに古伝の首里手より威力の弱い「発力法」の技術を採用している。これは一体どうしたことか?と。

 そこで、また腕組みをして考えた。そして、今度もまた、以外とあっさり答えが出た。

(どうも、「発力法」が分かって以来、答えが出るのが以前よりずっと早くなってきたのだ。もちろん、今までの蓄積という点もあるだろうが、やはり、この「発力法」というのが、特に古伝の空手には極めて重要な要素になっているからだ、と思われる。)

 結論から言おう。

 古伝の那覇手というのは、「貫手」の空手だったのである。

 どういう事かと言うと、古伝の首里手では「発力法」が強力すぎて、間違っても「貫手」は使えないのである。たとえどんなに鍛えようとも、「貫手」などをしたら、まず必ず指が折れてしまう。それほど首里手(および泊手)の「発力法」というのは強烈無比なのだ。

 実際、古伝の首里手および泊手の代表的な型の分解には、「貫手」はたった二回しか登場してこない(首里手に一回、泊手に一回である)。それも、非常に「特殊」な使い方なのである。

(ちなみに、型の表面上「貫手」と称されているところは、分解すれば、もちろん「貫手」にはならないのであって、そういうところを本当に「貫手」だと思ってしまったら、言わば、型にダマされたことになってしまうのである。念のために記しておく。)

 以上に対し、古伝の那覇手の「発力法」の威力であれば、もちろん、それでもかなりの程度、指を鍛える必要はあるものの、鍛え方次第では「貫手」が使える「発力法」なのである。

 ちなみに、私も若いときに「貫手」の鍛錬をしたことがある。

 指立てはよくやった。次に、砂に指を突っ込むくらいまでは何とかなったのだが、小さい砂利に指を突っ込む段階になって、あっさり挫折した。とにかくもう、指が痛くてどうしようもなかったのである。

「貫手以外にも、武器は色々あるさ・・・」

 とまぁ、言い訳めいたことを言ってやめてしまったのだが、昔の那覇手の空手家達はこうした修行を続けたのだ。

(今でも、一部の那覇手系の流派では、同様な修行を続けていると聞いている。大したものだ。)

 おそらくは、小指の太さが、修行を開始したころの親指の太さくらいになるまで、特訓が続けられたと思われる。そのくらいの太さにならなければ、那覇手の「発力法」に十分に耐えられないからである。

 そして、そのくらいにまで指が太くなるには、大体、十年から十五年、あるいは、それ以上時間がかかったのかもしれない。

 そうだとすると、那覇手には現在でも色々な「手型(しゅけい)」が残っているが、その理由も分かってくる。

 つまり、指が太くなるまでかなりの時間がかかるので、その間でも実戦に使えるようにと、正拳と貫手との中間の強度を持った各種の手型が、対象とする急所に合せて、色々と開発されたわけなのだ。

 ここまで分かると、今度は、那覇手では鍛錬、特に「腕」の鍛錬が目立つ理由も分かってくる。

 これには、主な理由が二つある。

 一つは、人間の体というのは、特に末端部だけを異常に発達させることは、極めて困難だということだ。つまり、指を太くしたければ、手も大きくしなければならず、また、手を大きくするためには、腕全体をも太くするようにしなければならない、ということなのである。

 もう一つの理由は、先に述べた那覇手の「発力法」の特徴に関係してくる。那覇手の「発力法」というのは、閉じていた腕がバッと開いて前腕がすっ飛んでいくような技術なのであるから、腕が太くて重ければ、それ自体が、威力を増加させる要因となるからだ。

 以上が、古伝の那覇手の鍛錬の意義なのであるが、では古伝の首里手はどうだったのかというと、首里手では、もちろん、貫手等は鍛えない。では、どこを鍛えたのかというと、まずもって「発力法」のエネルギーそのものを強くするような修行をしていたのである。

 もちろん、首里手でも、例えばカメを指で持つ鍛錬などはしていた。これは、特に手首などは十分に強くなければならなかったからだ。

 しかし、間違っても、古伝の首里手では各種の手型などは鍛えていなかったのである。何故なら、「発力法」が強力すぎるため、そんな手型を使ったり、また、手首のスナップを使うような動きをしてしまったら、確実に自分の手や手首を破壊してしまうからだ。

 これが、首里手系(首里手および泊手)の空手において、手型が(那覇手系に比べて)単純な理由なのである。

 よって、各種の手型を使ったり、手首をこねるなどして当てる方法などは、少なくとも、古伝首里手(および泊手)の奥伝段階の技術ではないことは明らかなのだ。

 古伝の首里手(および泊手)で「発力法」を使う際には、正拳は、引き手に取った段階からしっかりと握っていなければならず、また、対象に当てるときにも、手首はがっちりと固めておかなければならないのであって、一切の小手先の技術は通用しないのである。

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*** プロフィール ***

プロフィール

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 長谷川光政

 昭和33年(1958年)、東京生まれ。

 中学生(12歳)の時に剛柔流の空手を習ったのが、空手との最初の出会い。

 それ以来、首里手系の空手や、フルコン系、防具系の各流派等でも空手を学ぶ。

 しかし、いくら修行をしても、どうしても既存の空手に納得がいかず、最終的には自分一人での研究・修行を続けることとなった。

 それから十五年以上が経過した四十歳台後半に至って、遂に、失伝していた古伝空手の核心的技術である「当破(アティファ)」を発見することに成功。

 それ以降は、その発見をきっかけに、古伝空手の型に関する様々な謎も解明出来るようになった。

 また同時に、糸洲安恒の創始した近代空手の代表型である平安(やナイファンチ初段~三段)についても、その謎を解き明かすことに成功した。

 現在では、琉球の古伝棒術等の研究も一通り終了しており、新たな発見等については、漸次、この「武術空手研究帳」の「増補」等を通じて公開発表していく予定である。

 東京大学教育学部体育学健康教育学科卒。