武術空手研究帳

* 以下に掲載するのは、「月刊 空手道」(福昌堂) 2009年1月号~2010年2月号に連載された「武術空手研究帳」(但し、一部表現を追加・変更)である。

武術空手研究帳 - 第3回

 [ 今まで「発力法」という言葉を使って説明してきたが、これは私が便宜上付けた名称にすぎない。

 では実際のところ、古伝空手の時代には、この技法をどう呼んでいたのであろうか?]

古伝の空手とは発力法

 古伝の空手においては、「発力法」というのが極めて重要な地位を占めている。

 そうであれば、この「発力法」には、何かそれを指す「用語」があったはずなのである。

 聞くところによれば、古伝時代の空手の世界には、あまり多くの用語などは無かったとのことであるが、さすがに「発力法」については、何かそれを示す用語があったに違いない。

 私は本土の空手家なので、沖縄に残るこうした古伝時代からの用語というのも詳しくはないのだが、それでもいくつかは知っている。

 ガマク、チンクチ、ムチミ、アティファ・・・

「うん? アティファ・・・、まてよ、これじゃないのか?」

 確かに、この「アティファ」という用語は、漢字にすると「当破」とか「当法」とかになるそうだが、特に「当法」なら「発力法」の意味でもおかしくはない。

 実は、この「アティファ」こそが、まさに「発力法」を意味する言葉だったのである!

 というのは、そう解することで、この「アティファ」に関して現在にまで残っている意味が矛盾無く説明できるからなのである。

 つまり、こういうことだ。

 古伝の首里手が失伝した後、首里手の世界には「アティファ」という言葉は残ったが、その意味はもう誰にも分からなかったわけである。

 しかし、那覇手では少し事情が違っていたのだ。

 古伝の那覇手が失伝した経緯等については、後に詳しく述べることにするが、とにかく首里手が近代化するのに少し遅れて、那覇手もまた近代化への道を歩み始めたのである。

 古伝の首里手においては、「アティファ」というのは「発力法」という意味しか持っていなかったが、前述したところからも分かるとおり、那覇手ではこれとは違って、まず「発力法」という意味以外にも、「手型や当て方を工夫して打撃の威力を高める」という意味も持っていたし、また、以上の二つの意味があることから、さらに、以上の二つを合せた「(打撃の)威力一般」という第三の意味もまた持っていたのである。

 那覇手も、その近代化の過程で、「発力法」としての「アティファ」は失伝させたのであるが、それ以外の二つの「アティファ」の意味は残ったのである

 現在では、「アティファ」という言葉の解釈については、「手型や当て方を工夫して打撃の威力を高める」ことを意味するとの説と、「(打撃の)威力一般」を意味するとの説が対立しているようだが、それは、今見てきた経緯の結果にすぎないのであり、本来の「アティファ」の意味は、(特に首里手および泊手では)「発力法」のことだったのである

 つまり、古伝の空手とは、まさに「アティファ(発力法)」の空手だったわけだ。

 なお、本稿では以後、「アティファ」は「当破」と表記することにする。

 本来の意味から言えば「当法」の方が良いのかもしれないが、「当破」の方が、この技術の豪快さをより一層うまく表現している感じがするので、こちらを採用することにしたい。

 さて、「当破」の意味が分かると、今度は「ガマク、チンクチ、ムチミ」という言葉の意味も自然と理解できるようになった。

 もちろん、沖縄独特の言葉なので、まず色々と本などを読んで大体のニュアンスなどをつかんだ上で、それをもとに、私がそれまでに理解・習得していた技術に対応させたわけであるが。

 いずれにせよ、それまでは、こうした沖縄空手独特の用語というのは、自分でも使ったことがなかったのであるが、それ以後は、自然と使うようになったわけなのである。

 なお、現在では、古伝の空手は失伝してしまっており、そもそも「当破」というのが「発力法」であったなどということすら、分らない時代になってしまっている。

 従って「ガマク、チンクチ、ムチミ」などという用語も、古伝時代の技術とはかなり異なる理解のされ方をしているようだ。

 時代の故であり、仕方のないことではある。

平安の型の分解

 古伝の那覇手の「当破」が分かった後に私が取り組んだのは、「平安(ピンアン・へいあん)」の型の分解なのであるが、実は、これがかなりの難物だったのである。

 「平安」という型は、古伝空手に代わる空手として糸洲安恒によって生み出された「近代空手」の代表型なのであるが、「近代空手」は「当破」を捨てた大衆向けの空手なのであるからして、古伝の空手が一応理解できた以上は、簡単に分解できると思ったわけだ。

 しかし、実際はそんなに簡単なことではなかったのである。

 実は、古伝空手の型というのは、例えば「誰々のパッサイ」とか「誰々のクーシャンクー」などのように色々な種類があるとはいえ、やはりパッサイならパッサイとしての共通性があるわけで、その部分に関して言えば、数多くの昔の空手家達の手を経ていることから、言わば最大公約数的な、すなわち、一定水準に達した武術家ならば誰でも分かるはずだ、というような一面を持っているのである。

 さらに、古伝の型は武術の型なのであるから、分解に現れてくる技というのも、合理的に敵を戦闘不能状態にする(つまり、殺す、あるいは、片端にする等の)技なのであり、その点をしっかりと考慮していけば、まぁ、割と分かりやすいとは言えるのである。

 これに対し、糸洲安恒が創った「平安」という型を分解するに際しては、糸洲安恒自身がどう考えたのか、という点が分からなければ、「これが正解だ」というような分解を、自信を持って見つけることが出来ないのである。

 特に、技の危険度などについては、当然、古伝空手のような超危険な技はないことは分かるにしても、では一体どのくらいの危険度を設定していたのか、などは糸洲に聞いてみるより他に方法がないようなものなのである。

 ただ、この時点での「平安」分解の試みも、全く無駄だったわけではない。

 このとき分かったことの一つは、糸洲安恒は相当に凝って「平安」という型を創ったということだ。つまり、古伝の要素を、たとえ少しでも「平安」の型の中に残そうと努力した跡がはっきりと確認できたのである。

 もちろん、「平安」をその代表型とする近代空手というのは大衆向けの空手である。

 これが古伝の首里手の時代であれば、入門が許されてからの最初の三~四年は、ナイファンチと鍛錬ばかりをひたすらやらされたのであるが、こうして初伝段階においてみっちりと武術的な身体作りをしておかなければ、とても中伝段階の技法などは出来ないのであり、ましてや奥伝段階で習う高級技法とも言うべき「当破」などは習得不可能だったわけである。

 しかし、大衆向けの空手として創られた近代空手においては、そのような修行を課すことは到底無理だったわけで、有り体に言えば、近代空手というのは「誰でもすぐに技が習える空手」だったわけである(このことは、近代空手から生まれた現代空手にも、同様に当てはまることである)。

 よって、「平安」には、当然のことだが、「当破」はない(その代わりに、糸洲安恒は別の発力原理を導入したのだが、それは後ほど述べることにする)。

 また、大衆向けの空手なのであるから、古伝の空手の型に含まれていた色々な「殺人技」などの危険な技も、糸洲安恒は捨てたのである。

 しかし、これ以外の要素に関しては、糸洲安恒は出来るだけ「平安」の中に残そうとしたのであり、例えて言えば、古伝の空手を父親とすれば、その息子のような空手を創ろうとしたのだ。

 その際、例えば父親の耳の下にホクロがあったとすれば、その息子の耳の下にも小さなホクロを残そうとしたわけであり、言わば、古伝空手のDNAを少しでも「平安」という型の中に保存継承させたかったのである。

 となれば、古伝の型の研究を、さらに一段と進めなければ、「平安」の分解は出来ないと悟るに至ったわけである。

 つまり、糸洲安恒の考えを読める程度に、私自身も古伝の型を熟知していなければならない、ということなのであり、これを別のアングルから言うならば、「平安」の分解がしっかりと出来れば、その時は、私の古伝型の理解も一定の水準に達したことが確認できる、ということでもあるわけだ。

 もともと、私が追求していたのは武術的な古伝の空手なのであるからして、その時点から、私はさらなる一層の古伝型の研究を再開したわけである。

 こうして、今度は徹底的に細部にもこだわった、詳細な型の再現と、精緻な分解の解明に挑戦したのである。

 古伝の型というのは武術の型なのであり、武術というのは実に芸が細かい、ということもこのときに良く分かった。

 ほんの僅かな角度の違いでも、技の掛かり具合などが格段に違ってくるのであり、そうした細かいところも、今回は徹底して研究したわけなのである。

 このような作業を約六ヶ月以上続けた結果、古伝の首里手および泊手の代表的な型の、正確な再現と精緻な分解とをほぼ終えることが出来たのである。

 この作業の後、再度「平安」の分解に挑んでみたのだが、今度は、前回とは違って、はっきりと糸洲安恒の考えが読めるようになっていた。

「ここは表面上、古伝のA型の動きを採用しているように見えるが、分解によって出てくる技は、古伝のB型の中にある技の原理を活用しているな」などということが、はっきりと見えてきたのである。

 もちろん、「平安」の型も、今ではかなり変形してしまっているのだが、この点では古伝の型よりは分かりやすかったので、さしたる問題は無かった。

 ただ、糸洲は、晩年になって「平安」の型を一部変更しており、その点で最初に完成したときの型と少し違いがあるのだが、実はこの点に関しても、糸洲の考えがはっきりと読めたので、この変更の問題も比較的すんなりとクリヤーできた次第である。

 (ちなみに、「平安」の型には複数の種類がある、との説もあるが、分解が分かれば納得できることなのだが、糸洲安恒は「極めて緻密」に「平安」を創っているのであり、そうした「緻密」な型が何種類も存在するはずがないのである。

 これは、後述するように、糸洲は、学校で教えるときと、自宅の道場で教えるときとでは、目的が異なるために、「平安」の動き方等を変えさせていたことから、「平安」自体が何種類もあるかのような話が残ってしまったと思われる。)

 こうして「平安」の分解は、予想以上に早く終了することができた。

 そして、「平安」の分解を終えてはっきりと分かったことは、糸洲安恒は相当に苦心してこの「平安」という型を創った、ということだ。

 実に細かいところまで、考えに考え抜いて創っているのである!

 その一端は、後ほど述べることにしよう。

首里手のサンチン

 私が「当破」を発見し、それが私の空手研究・修行の重要なターニング・ポイントになったことを述べてきたが、読者の中には「にわかには信じ難い」と思っている方もいらっしゃることと思う。

 そうした人の中には、私が発見した「当破」という技術も、子供騙しのようなテクニックなのではないか、と誤解している人もいるかもしれない。

 そこで、もう少し「当破」について補足しておくことにしよう。

 ところで、熱心な空手雑誌等の読者なら、古伝空手の時代には、首里手にも「サンチン(三戦)」の型があったことはご存知と思う。

 この「首里手のサンチン」は、現在では完全に失伝してしまっているが、私はこれを復元し、日々練習している。

 今回は、この「首里手のサンチン」を紹介してみたい。

 なお、ここでは、運足を省略した方法、すなわち、その場突きのやり方で行なってみよう。

 また、本来の「首里手のサンチン」とは少し異なるのだが、ごまかし等が出来ないように、突く前に少しの間完全に静止した状態を保ってから、突然に突きを出す方式で説明しよう。

 ① まず、三戦立ちではなく、自然体(八字立ち)で立つ(姿勢は真っ直ぐ)。

 ② 次に、那覇手のサンチンと同様に、左右の正拳で同時に内受けを行なう。なお、内受けが終わった時の腕の形だが、正面から見て、両拳は肩より外側に出てはならない。また、横から見て、前腕は水平面から六十度くらいに立てる。よって、正拳はアゴの高さくらいになる

 ③ 拳はしっかりと握る。このように言うと、「上腕二頭筋(力こぶの筋肉)が緊張して、突きがやりにくい」という人がいると思うが、それは正拳の握り方の工夫が足りないからそうなるのである。工夫次第で、しっかり握っても、上記の筋肉反射を避けることが出来る。

 ④ さて、上記の内受けを終えた状態から、左右どちらの正拳でも良いから、正面にいる仮想敵の上段(目の高さ)に向けて、しっかりと肘にこたえるくらいの威力とスピードのある正拳突きを行なう。

 なお、この正拳突きは、内受けを終了した状態から最短距離で突くのであって、一度引き手をとってから突くのではない。

 また、突かない方の腕は、引き手にはとらずに、内受けを終えた状態のままにしておくこと。

 ただし、ここで重要なのが、「気配を一切表に出さずに突く」ということなのである。

 つまり、突く直前に腰を振ったり身体をうねらしたりなどはせず、また、正拳を少し後ろへ引いてから突いてもいけないのだ。

 別言すれば、上記の①~③の準備が出来たら、その内受けが終了した状態で完全に静止し、つまり、体のどの部分も一切動かさない状態をしばらく保ちながら、いきなり突然に正拳が最高速度で飛び出していかねばならないのである。

 いかがであろうか?

 これが「首里手のサンチン」の突きなのであり、「当破」という技術を使わなければ絶対に出来ない突きなのだ。

 だから、「当破」の失伝と共に、この「首里手のサンチン」という型も消えてしまったのである。

 なお、もし読者がこの突きが出来ると言うのならば、よく自分自身の動作を観察していただきたい。

 必ず、突く前に、体のどこかに「これから突くよ」という動作、すなわち、「気配」が出てしまっているはずだ。

 そういう「気配」を見逃しておいて「出来た」などと言っても、全くのナンセンスなのである。

 なお、この「首里手のサンチン」の突きは、古伝首里手の「当破」の突きの中では、かなりエネルギーの小さい突きなのであるが、種々ある「当破」の技術の中では、比較的高度な部類に属するものである。

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*** プロフィール ***

プロフィール

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 長谷川光政

 昭和33年(1958年)、東京生まれ。

 中学生(12歳)の時に剛柔流の空手を習ったのが、空手との最初の出会い。

 それ以来、首里手系の空手や、フルコン系、防具系の各流派等でも空手を学ぶ。

 しかし、いくら修行をしても、どうしても既存の空手に納得がいかず、最終的には自分一人での研究・修行を続けることとなった。

 それから十五年以上が経過した四十歳台後半に至って、遂に、失伝していた古伝空手の核心的技術である「当破(アティファ)」を発見することに成功。

 それ以降は、その発見をきっかけに、古伝空手の型に関する様々な謎も解明出来るようになった。

 また同時に、糸洲安恒の創始した近代空手の代表型である平安(やナイファンチ初段~三段)についても、その謎を解き明かすことに成功した。

 現在では、琉球の古伝棒術等の研究も一通り終了しており、新たな発見等については、漸次、この「武術空手研究帳」の「増補」等を通じて公開発表していく予定である。

 東京大学教育学部体育学健康教育学科卒。