* 以下に掲載するのは、「月刊 空手道」(福昌堂) 2009年1月号~2010年2月号に連載された「武術空手研究帳」(但し、一部表現を追加・変更)である。
武術空手研究帳 - 第9回
[ 今回は、前に予告しておいた那覇手の近代化について述べることにしよう。
通説では、那覇手を近代化したのは、宮城長順ということになっているようだ。
しかし、結論から言うと、那覇手の近代化を行なったのは東恩納寛量なのである。
私がこのことに気付いたのは、「当破」を習得し、古伝の那覇手の引き手が分かってからのことなのだ。]
許田重発が謎を解く鍵
ある日、私は、宮城長順の若いときの写真を見ていた。
宮城の相手役が前蹴りを出し、宮城がそれを開手で受けて引っ掛け、逆に金的蹴りを返している、というポーズの写真なのだ。
私は、そのとき、その相手役の人物の引き手と蹴り技に注目したのである。
まず、引き手は、古伝的には間違いなく泊手なのだ。
つまり、首里手の腰の位置より、拳一個分高い位置なのだ。間違っても古伝那覇手の引き手ではない。
また、その人物のやっている蹴り技は、これも間違いなく、糸洲安恒が創った近代空手の前蹴りなのである。
しかも、その前蹴りの姿勢に、「倒木法(倒地法)」を使った「前傾姿勢」すら見られるのである。
ということは、その宮城長順の相手役というのは、例えば、宮城の親戚や友人とかで、糸洲安恒から近代空手を習っていた人なのか、と思ったのである。
確かに、引き手の位置が首里手より少し高いが、まぁ、許容範囲であり、近代空手ではそうやかましく言われなかったのかもしれない、と考えたのである。
しかし、後日分かったのは、その宮城の相手役の人物が、東恩納寛量門下で宮城長順のライバルと言われた許田重発だったのである。
とすると、これは一体どういうことになるのだろうか?
一番素直な解釈は、東恩納寛量が那覇手の近代化をすでに行なっていた、と考えるのが正しいことになろう。
もちろん、許田重発はそのとき、わざと近代首里手のポーズをとり、首里手対那覇手の写真を撮らせた、と考えることも出来よう。
しかし、その後、許田重発が伝えた東恩流の記事が月刊「空手道」に掲載されたことで、問題は一気に解決を見たのである。
東恩流では、まさに、先ほどの写真で許田重発がとっていた引き手等がそのまま継承されており、しかも、許田は、東恩納から教わったとおりの技や型を東恩流に残したのである。
まさに、東恩流とは、東恩納寛量が那覇手の近代化を行なったときの様子をそのまま現代に伝えるという、貴重な流派なのであるが、いずれにせよ、これで東恩納寛量が那覇手の近代化を行なったことがはっきりとしたのである。
さらに、那覇手の近代化の中身についても、かなり明瞭に分かってくるのである。
結論から言うと、こういうことだ。
東恩納は、まず当然だが、古伝那覇手の発力法としての「当破」を消した。
古伝那覇手の「当破(発力法)」を消すとは、すなわち、古伝のサンチン(三戦)の型をなくせばよいのである。
何故なら、古伝のサンチンとは、ほぼ純粋に古伝那覇手の「当破(発力法)」を鍛錬するための型だったからである。
しかし、サンチンそれ自体をなくしてしまうと、困ったことになる。
つまり、那覇手の型というのは、多くは型の冒頭部にサンチンと同様の動きが入っており、サンチンをなくすと、その部分に代わりの動作を創作して挿入しなければならなくなるからだ。
そこで、東恩納は、古伝サンチンの型を変質させることを考え付いたのである。
すなわち、古伝サンチンは「当破(発力法)」を鍛錬する型だったわけだが、それを、体を締め・固める型に変質させたのである。
これにともない、呼吸法も変化したわけだ。
もちろん、当時、東恩納が教えた息吹の呼吸法は、現在のような大きな音を出す方式ではなく、音も静かな古伝の息吹であったと思うが。
次に、東恩納は、他の型の中の危険な技の部分などを、分解解釈が困難になるように変形させたはずである。
また、近代化として、体育的効果なども考えて、少し動きを大きくしたりもしたはずである。
基本的には以上のような変形・変質を行なったわけだが、あとは、かなり素直に近代首里手の技を借用しているのである。
これは私の推測だが、東恩納寛量は、糸洲安恒を訪ねて、那覇手の近代化について相談などをしていたのではなかろうか、と思うのである。
糸洲も那覇手を習得しており、その意味でも相談しやすかったのではないかと思う。
それに、糸洲にしても、空手の近代化の理解者が増えることはうれしかったに違いないはずだ。
余談であるが、糸洲安恒は古伝那覇手も習得しており、その後から古伝首里手に本格的に取り組んだ人なのである。
従って、まず、腕等は相当に太かったと思うわけであるが、その那覇手で鍛えた腕で首里手の「当破」の突きをやったのだから、さぞや豪快な突きであったろうと思うのである。
糸洲の突きの凄さは沖縄では伝説になっているようだが、「当破」を知る私としては、糸洲安恒の「当破」の突きは、本当に凄い突きであったろうと固く信じている。
さて、東恩納寛量も優秀な武術家であったわけだが、ただに優秀な武術家であるというだけで、空手の近代化が行なえるわけではない。
こうした一大事業とでも言うべき作業には、また別の才能・能力等が要求されるのである。
おそらく、糸洲安恒に相談したとき、糸洲のあまりに緻密な近代化プランに、東恩納も驚いたと思うのである。
これは、「平安」の「真の分解」を知る私としては、当然そうであったと考えるのである。
何故なら、糸洲は相当に深い考慮のもとで「平安」という型を創っているからだ。
東恩納からすれば、糸洲は二十歳くらい年上の大先輩である。
そこで結局、糸洲のアドバイスに従い、上記のような最小限の変形・変質を行い、後は素直に近代首里手を借用する形で、那覇手の近代化を済ませたのではなかろうか。
東恩納が糸洲に相談したか否かは別としても、いずれにせよ、近代那覇手の引き手や蹴り技は、近代首里手から直接採用していることは事実なのである。
引き手が首里手より拳一個分高い位置になっているのは、少しは首里手との差異を付けておきたかったためで、後は、ほとんど近代首里手そのままの突きであった、と言ってよいであろう。
大体、古伝の那覇手の引き手のとり方のままで、「当破(発力法)」の無くなった、すなわち現代空手のような突きをしても、あまり威力が出せないのであるから、引き手を首里手風にしなければならなかったのも、むしろ当然のことだったと言えよう。
さて、こうして、那覇手の近代化は東恩納寛量によってなされた、ということが分かると、糸東流開祖の摩文仁賢和が、首里手と那覇手の両方を習得し、かつ、その二つを合せて糸東流を創始した、ということにも納得がいくのである。
まず、これが、両方とも古伝だったとしたら、絶対にありえないことである。
何故なら、古伝首里手と古伝那覇手では、技術の中に全く正反対の要求が色々と登場してくるのであって、いくら摩文仁が天才であっても、これら両者の技術を、ほとんど同時期に、しかもかなりの短期間で習得できるはずがないし、ましてや、この両者を合せて一つの流儀を作るなど、およそ不可能なことだからである。
では、一方が近代空手、他方が古伝空手であったとしたら、どうか?
これも無理である。
近代空手と古伝空手とでは、要求される技術水準がまるで違うため、まずは、近代空手の方が早く習得されていくことになり、残る古伝空手の方は、まず、中途半端な修行で終わるのがせいぜいのところだ。
そして、これら両者を合せて一つの流儀を創るということも、やはり不可能といえよう。
しかし、これが、両者が共に近代空手である、ということなら十分に納得できるのである。
しかも、近代那覇手の方は、近代首里手の技術をかなり導入しているとあれば、なおさらのことである。
摩文仁の写真を見ると、彼の引き手は許田重発のそれと全く同じなのであり、現在の糸東流の引き手もそうである。これでつじつまが合うのだ。
このように、真実というものは、それが分かれば実に素直に納得がいくものなのである。
年齢的にいっても、東恩納寛量は、糸洲安恒と船越義珍の中間の世代の人なのであり、那覇手の近代化となれば、やはり時代的に言っても、宮城長順ではなく、東恩納寛量がそれを行なったとする結論の方がずっと自然なのである。
古伝系への愛着
今度は宮城長順について見てみよう。
彼は、師の東恩納寛量から教わった空手を変えた、と言われている。
そして、従来は、これこそが、宮城が那覇手の近代化を行なった根拠とされていたようだ。
つまり、宮城は、東恩納寛量から古伝那覇手を学んだが、それを近代那覇手に改変したのだ、と思われてきたのである。
しかし、いままで見てきたように、事態は全く逆だったのであり、宮城は近代那覇手を東恩納から習ったのである。
では、宮城長順は一体何を変えたのであろうか?
まず、古伝を習うことが出来なかった宮城は、実は、相当に古伝那覇手に対する憧れが強かったのだと思われる。
彼は、東恩納寛量亡き後、相当な回数、中国に渡っているが、これなどは、古伝那覇手への憧れと解さなければ納得がいかない行動とも思える。
結局、彼は、後に剛柔流を創始して、近代化・現代化された那覇手を教えたが、自分自身としては古伝の那覇手を追求していたようだ。
宮城に関して残されているエピソードを読んでも、古伝系への愛着を感じるし、何よりも、彼が創始した剛柔流の中に、古伝を偲ばせる要素が色々と入っているからだ。
もちろん、彼は、弟子達には近代・現代の那覇手を指導している。
そして、近代化・現代化の方法についても、師の東恩納寛量のやり方を踏襲して、基本的には、素直に首里手系統のやり方を導入している。
剛柔流の基本体系を見ても、もちろん、松涛館流と全く同じというわけではないが、基本的には同様の方法で体系を作っている。
蹴り技などは、ほとんど同じと言っても過言ではない。
しかし、剛柔流を仔細に見ると、結構、色々なところで、古伝の要素を発見できるのである。
例えば、近代化・現代化した以上、古伝那覇手のような引き手は、動作が小さすぎて満足な威力が出せないため、肘は後方へ引く形はとっているものの、引き手の高さについては、東恩納寛量が定めた位置ではなく、古伝の那覇手と同じ胸の高さに変えている。
また、戦後、那覇手の「平安」とでも称すべき「撃砕」という型を創っているが、他方で、「転掌」という型も創っているのである。
この「転掌」という型は、私も好きで随分とやったが、古伝時代に発表されたとしても、十分に評価されるほどの傑作と言える型である。
まだある。宮城は、剛柔流の型の修行体系の中に、実に貴重な古伝那覇手の情報を残しておいてくれたのだ。
どういう事かというと、古伝那覇手の型の修行体系は「初伝・中伝・奥伝」の三段階になっていた、ということが分かるのである。
まず、初伝の型とは、サンチン、サイファ、セイエンチンのことだ。
これらが何故、初伝の型なのかというと、サイファとセイエンチンの冒頭部にはサンチンと同様の動きが挿入されておらず、これは、これら二つの型はサンチンと同時期に修行させられる型であったことを意味するからだ。(他にも理由があるが、ここでは省略する。)
また、中伝の型とは、型の冒頭部にサンチンと同じ動きが含まれているが、初伝のサンチンと同様に呼吸法を用いてゆっくりとそれを行なう型のことである。
そして、奥伝の型とは、冒頭部にサンチンと同種の動きが入っているが、それを普通のスピードで行なうのであり、また、開手で行なったりもする一群の型のことなのである。
要するに、古伝の那覇手というのは、上達の段階ごとに新しい型を習っていく、という修行体系を持っていた空手だったのである。
(ちなみに、古伝の首里手(および泊手)にも、やはりこの「初伝・中伝・奥伝」の三段階の修行体系があったことが確認できている。)