武術空手研究帳・増補(13)- これが本物の山嵐だ(前編)
[ 「山嵐」と言えば、小説や映画等でお馴染みの姿三四郎の必殺技だが、これは、講道館黎明期に実際に活躍した(姿三四郎のモデルと言われる)西郷四郎の得意技なのであった。
しかし、現在、柔道の教本等で紹介されている「山嵐」という技は、実際に掛けてみれば分かるのだが、とてもではないがマトモな投げ技とは言えない。
そこで、本稿と次稿の二回を使って、「本物の山嵐」を解明・紹介することにした次第である。]
現在流布している山嵐
昔、柔道を稽古していたとき、西郷四郎の「山嵐」に興味を持ったので調べてみた。
最初に読んだ古い柔道教本には「山嵐」は載っておらず、代わりに、「この技は、姿三四郎のモデルと言われた西郷四郎の得意技であったが、西郷独自の技であり、西郷以外の者には使いこなせなかったことから、現在では失伝している」というような事が記述してあった。(何でも、西郷の足は「蛸足」とかいう独特の足だったそうで、その蛸足が吸盤のように相手の足にくっ付いたために、「山嵐」という技が出来たのだそうだ。)
しかし、その後、最新の柔道教本を入手してみると、そこには「山嵐」が載っていた。
ここで、その柔道教本に書いてあった「山嵐」を簡単に再現しておこう。
1.右手で相手の右襟、左手で相手の右袖を、それぞれ掴む。
2.相手の懐に入り込み、右脚で相手の右脚を後方に刈り上げて、相手を投げる。
早速、乱取りの中でこの技を使ってみたのだが、とにかくこれが、掛かりにくい事この上なかった。
これなら、むしろ普通の「背負い投げ」の方がよっぽど掛けやすい、と思ったものだ。
何か変だな、と思った私は、今度は、富田常雄の小説「姿三四郎」の中に出てくる「山嵐」に関する描写を検討してみた。
しかし、描写通りに「山嵐」を再現しても、何か変な技(?)になってしまったり、描写が簡潔すぎて、とても再現出来なかったりと、ほとんど何の進歩も無かったことを覚えている。
それから二十年ほど経ったある日のこと、私は種々の「投げ技」の研究をしていたのだが、ある技を自分一人で試みたときに、その技自体は両足は使わないで投げる手技だったのだが、思わず右足を後ろに刈り上げて投げていた。柔道の経験から、そうした方がより効果的に投げることが出来る、と体が判断したようだ。
そして、その投げ技を行った次の瞬間、「これこそが本物の山嵐だ!」と気付いたのだ。
さて、その時から再び約二十年が経過した。
改めて「山嵐」について検討してみようと思い、昔読んだ資料を再度収集し読んでみた。
すると、資料をしっかりと検討するだけで、本物の「山嵐」を発見することは可能であったことに気付いた。
やはり、昔は子供だったために、資料の読み込み方も甘かったようだ。
そこで、本稿では、資料を読み解く形で、本物の「山嵐」を解明してみたい。
では早速、始めることにしよう。
「柔道発達の側面観」より
まず、最初に確認しておきたいのは、現在指導されている「山嵐」は「カモフラージュ的な山嵐」だ、ということだ。
とてもマトモな投げ技とは言えず、実際、その「山嵐」を使って試合に勝ったなどという話は全く聞いたことがない。
そこで、本稿では、その「山嵐」を「偽装山嵐」と呼ぶことにしよう。
では、最初の資料として、「姿三四郎」の著者である富田常雄が執筆した『柔道創世記』の中に、「柔道発達の側面観」(『柔道』大正12年・富田常次郎)からの引用があり、そこで西郷四郎の「山嵐」が紹介されているので、まずはそれから見てみることにしよう。
『其の実際の掛け方を云ふと、互いに右に組んだと仮定すれば(筆者注・西郷四郎は左利き)、右手で相手の右襟を深く取り、左手で相手の奥袖を握り、同時にかなり極度の右半身となって、相手を引き出す手段として、先ず自分の体を浮かしたり、沈めたり、又ある時は腕先で、ある時は全身を以て、巧みに押すと見せないで、相手を後方に制するのである。そこで自然に相手が押し出る途端を、即ち嶺から嵐の吹き下ろす如く、全速力を以て充分に被って肩にかけると同時に、払腰と同様に相手の右足首を掬ふ様に払ひ飛ばすのである。であるから、此の技を払腰と背負投のコンビネーションと見ても差しつかえあるまいと思ふ。(この時、襟を取る手は拇指を内に入れてもよし、又、その反對に外に出して取ってもよい。実際、西郷は両方用ひた様に記憶する。)
これだけの技ならば誰にでも出来さうであるが、実行はなかなか容易ではない。西郷がこの技を得意としたのは、彼の身體上の特徴が二つあった事に依る。その一つは彼の身體が矮小であったから(筆者注・西郷四郎の体格は、身長、約五尺一寸(約153センチ)、体重、十四貫(約53キロ)と伝えられている)、殊更に腰を下げなくても、押し返す相手をそのまゝ引込めば、彼の體は丁度理想的な支點となるからである。故に時間を省き、又、潰される憂ひがないのである。もうひとつの特徴は、彼の足ゆびが普通の人と違って、熊手の様に皆んな下を向いてゐた。だから払腰の様に足をのばして相手の足首にかけると、それが豫定の位置をはずれて、上の方に流れると云ふ様な事がない。
即ち、相手の踝を目的とすれば、そこにぴたりと喰いついてゐるのであった。その上、彼は前にも言った様に大膽に思ひ切って、乾坤一擲に技をかけるのであるから、殆ど百発百中相手を投げ飛ばしたのである。
要するにこの技は、小さい人が、より大きい人に試みる方が有利であると思ふ。』
いかかであろうか?
正直なところ、以上の記述が示す技は、「偽装山嵐」と基本的に同じ技に読めるのである。
別言すれば、「偽装山嵐」は、こうした記述から再現された技ではないのか、とすら思えるのだ。
ただ、厳密に言うと、次の太字にした箇所が少し気にかかる。
『そこで自然に相手が押し出る途端を、即ち嶺から嵐の吹き下ろす如く、全速力を以て充分に被って肩にかけると同時に、払腰と同様に相手の右足首を掬ふ様に払ひ飛ばすのである。であるから、此の技を払腰と背負投のコンビネーションと見ても差しつかえあるまいと思ふ。』
まず、「払腰と背負投のコンビネーション」とあるが、「肩にかける」とある以上、その「背負投」というのは「一本背負投」のことであろう。
いずれにせよ、「偽装山嵐」では、「一本背負投」のように相手の腕を「肩にかける」ことはないので、上記の太字部分の記述には、いささか違和感を覚えるのである。
しかし、とりあえずは、そのことを記憶に留めて、次に進むことにしよう。
* 最近の柔道の技解説によれば、「偽装山嵐」の別法として、相手の懐に入り込む際に、我の右肘を相手の右脇の下に差し込む方式も紹介されているようだ。
この方式ならば、「払腰と背負投(襟背負投)のコンビネーション」という表現もうなずける。
ただ、その場合でも、やはり「肩にかける」という表現にはいささか違和感を覚えることに変わりはない。
「山嵐と西郷」より
では、今度は、「山嵐と西郷」(富田常次郎・『柔道』昭和六年)にある、警視庁武術大会における西郷四郎の「山嵐」に関する記述を検討してみよう。
『茲に西郷の一生中、最も花々しかった山嵐を活用しての他流試合に於ける火の出る様な激戦の一場面を、私の記憶のままに書いて見よう。其れが即ち活きた山嵐の説明にもなるから・・・
時は明治十八年の五月、場所は丸の内の警視庁であった。
さうして對手は其の頃千葉で有名な楊心流の師範、戸塚彦九郎の高弟、照島太郎であった。照島は、既に斯界に名高い闘士である。然るに西郷は、嘉納道場に於ける未だ無名の若武者である。否、嘉納道場其のものも、未だ充分斯界に認められては居らなかった時代である。西郷は多くの場合、左自然体半身構えを用ひた。さうして此の時の試合も、やはり左構えであった。・・・先ず互いに一礼して立ち上がった。敵は西郷の小兵なるを侮って、一掴みにもせんず剣幕で、両腕を怪しき角度に上げて進み寄る。併し西郷は、自分に唯一の注文があるから、容易に敵に先手を取られる様なへまをしなかった。茲に謂ふ先手とは、角力の仕切りと同じ意味である。
(中略)
ここに於て、敵(照島太郎氏)は愈ゝあせりて、猛進又突進、遂に西郷の左袖を取らんとして一歩踏出す刹那・・・西郷は、此処ぞとばかり、サット敵の左側に廻ると見る間に、右手を以て、敵の左中袖を取って強く引いた。それと同時に、彼の左手は早瀬に砕くる月影の如く、素早く敵の左襟を高く深く握った。(親指を襟内に入れて)此の組方こそ、実に彼が今まで幾秒間、心眼を躍動しつヽ狙い定めていた注文通りの組方である。斯くて、敵を釣りつヽ一進一退、巧妙に其の両脚を捌きつヽ、場内狭しと敵を引き廻さんとせしが、・・・併し敵も名だたる技士である。西郷に釣らるヽ機会に、ヌット彼の後ろに廻り、半ば彼の体に抱きつき、将に裏投を試みんとせしが、破れて直に大腰に移りしも、・・・亦成らず、・・・此の時西郷、早くも体を立直して、敵の左襟を握りたるまヽ、左腕を以て強く敵を押切った。そうして、敵の押し返す途端に、彼は早くも飛込んで、敵の全身を深く被った。其時、彼の尻は、水雷的に敵の下腹に打込んで、密着した。
彼が飛込んで、敵を深く被った時は、西郷の左脚は、既に敵の左脚を折れよとばかり払い上げていた時である。・・・敵の左脚を払い上げし時は、敵の体は己に西郷の頭を越えて、其の足下に名誉の屍を横へて居た時である。熱嗚呼かくして山嵐は、猛烈に場内を吹き去った。』
さて、今度もまた、「偽装山嵐」と同じような技の描写であった。
結局、以上の二つの資料から分かることは、富田常次郎がウソを書いているのでなければ、本物の「山嵐」という技は、「偽装山嵐」と良く似ている技であったことだけは間違いない、と言えよう。
そして、もう一つ確認出来ることは、敵の右腕を攻める「山嵐」(これを今後は「右山嵐」と呼ぼう)では、我の右手は敵の右襟を掴み、我の左手は敵の右袖を掴むのであり、我の右脚で敵の右脚を後方へ刈り上げて投げる(敵の左腕を攻める「左山嵐」は、以上の左右を反対にした技になる)、ということだ。
「姿三四郎」より
では、今度は、富田常雄の「姿三四郎」の中にある「山嵐」の描写について、逐次検討してみることにしよう。
全部で八箇所あるのだが、説明の便宜上、物語の順序ではなく、当方が選んだ順番で見ていく事にしたい。
(1)『・・・三四郎は宙に身をくねらせる猫を彷彿させて音もなく地上に立つと、息を入れず譲介の懐に向かって飛び込んだ。
無言の山嵐であった。
彼の体は常に業を掛けても相手の体に接したと見えぬ軽妙なものであった。相手の襟を逆手に掴み、袖を巻き込んで、小兵な身を沈めての壮絶な山嵐である。これは、刀の一閃を思わせる冴えた業であった。』(東京文藝社版(下)P.259)
この描写では簡潔すぎて、「山嵐」がどのような技だったのか、全くと言って良いほど分からない。
ただ、『袖を巻き込んで、小兵な身を沈めて』の部分には、やはり違和感を覚える。
「偽装山嵐」では、「袖」は(背負投の時のように)ただ掴んでいるだけで「巻き込む」ようなことはしないし、殊更に「身を沈める」わけでもないからだ。
よって、以上の事だけは記憶に留めておくこととし、次に進むことにしよう。
今度は、二つの描写を続けて読んでもらいたい。
(2)『追いすがった鉄心の右の貫手が三四郎の眉間に閃いた。
一刹那であった。その手を右腕で受けた三四郎の指は鉄心の襟に食い込み、左手は稽古着の腕を握って、雪を蹴って右足が閃く。
「とうっ」
初めて、三四郎の唇を鋭い気合がもれた。
鉄心は弧を描いて大きく飛んだ。
山嵐だった。』(東京文藝社版(上)P.250)
(3)『地を蹴った、黒装束の右の貫手が三四郎の眉間に閃いた。
刹那――
その手を右腕に受けて、繰りあげた三四郎の手は相手の襟を掴み、左手は腕を握って身を沈めたが、右足が風を捲き、地を払って敵の横股に飛んだ。
山嵐である。
黒装束は大きく弧を描いて闇を飛んだ。』(東京文藝社版(下)P.48)
細かい描写ではないが、上記二つは共に、貫手を放ってきた敵の右腕を攻めているわけで、「右山嵐」であったことが分かる。
しかし、相変わらず「偽装山嵐」のような記述にすぎないわけで、これらの描写から本物の「山嵐」を探るのは不可能である。
ただ、(3)の『左手は腕を握って身を沈めた』の部分には注目しておきたい。
まず、「偽装山嵐」では相手の「袖」を掴むが、上記では「腕」を握っている点。
次に、今回もまた「身を沈めて」いる点。
以上の二点は、記憶に留めておこう。
では、次の描写である。
(4)『彼の投げを予想して思いきり腰を落とした源之助の両の腕が十字形に三四郎の襟に食い込んだ。逆十字の立絞めである。
(中略)
わずかに力の抜けた敵の十字に組んだ腕のまたの真中に三四郎の右腕が入った。
源之助が我にかえった時、三四郎の左の手が源之助の袖裏にかかっていた。
と、三四郎の体はそこになくなったかに見えた――
思いきり身を沈めて、半身になって、源之助の足を払った瞬間の身のこなしだった。
・・・壮絶な山嵐に、源之助は虚空を掴むような手つきで頭を下に、水に飛び込むと同じ線を、その長身で描くと、草の上に跳んでいた。
(中略)
がくりと首の骨が折れたかに見えた。が、それは肩の骨であったかも知れぬ。』(東京文藝社版(上)P.131~133)
最初に確認しておくが、『三四郎の左の手が源之助の袖裏にかかっていた』とある以上、これが「右山嵐」であったことは間違いない。
では、順次、三四郎の動作を分析してみよう。
源之助が三四郎に逆十字の立絞めをしていたわけだから、両名は向かい合って立っており、源之助の両前腕は交差して、右手は三四郎の右襟、左手は三四郎の左襟を、それぞれ掴んでいたことになる。
そして、三四郎は、源之助の両前腕が交差している手前の隙間に、右腕を下から差し入れて、そのまま右手で源之助の右襟を掴み、左手は源之助の右袖を掴んだことになる。
さて、この状態から「山嵐」に入るわけだが、これでは、源之助の腕が邪魔になって、「偽装山嵐」は掛けることが出来ない。
源之助の、右腕も邪魔だが、これは、源之助の懐に飛び込む際に、左手で掴んでいる源之助の右袖を払うように動かせば、何とか外れるかも知れない。しかし、左腕はどうしようもない。源之助の左腕は三四郎の左襟をしっかりと掴んでいる以上、三四郎としては、源之助の懐に入っていけないのである。
では、三四郎はどうしたのか?
描写には、
『と、三四郎の体はそこになくなったかに見えた――
思いきり身を沈めて・・・』
とある。
『三四郎の体はそこになくなったかに見えた』というのは、別に三四郎の体が本当に消えたわけではなく、源之助の視界から三四郎の顔が消えたことを意味する。
次の『思いきり身を沈めて』と合わせて考えれば、三四郎はこの時「しゃがんだ」わけだ。
ただ、注意したいのは、源之助の両手が三四郎の両襟を掴んだままの状態で三四郎が「しゃがんで」しまったら、源之助の両手も下に下がるわけで、これでは源之助にとって『三四郎の体はそこになくなったかに見えた』という現象は発生しない。
源之助の眼に『三四郎の体はそこになくなった』ように見えるためには、源之助の腕が空間のその位置にほぼ固定されている状態で、三四郎の顔が一瞬で源之助の腕より下へ下がらなければならない。
しかも、その直後には、三四郎は源之助の内懐にいて、右足で源之助の右足を後方へ刈り上げなければならないのである。
もう、お分かりであろう。
三四郎は、源之助の右腕の下側をくぐったのである。
「偽装山嵐」では、敵の内側に素直に入身したのだが、本物の「山嵐」は、敵の外側から(攻めている敵の腕の下側をくぐって)入身する技だったのだ。
三四郎が、源之助の右袖をしっかりと空間のその場に固定しておけば、源之助の右腕の下をくぐったときに、源之助の右手は自ずと三四郎の右襟から外れる。
他方、源之助の左手だが、左腕が上側の逆十字であれば、三四郎が源之助の右腕の下をくぐったときに、源之助の左手もまた三四郎の左襟から外れる。反対に、右腕が上側の逆十字ならば、源之助の左手は三四郎の左襟を掴んだままだが、その場合は、その事を一切気にせずに「山嵐」を掛ければ良いだけのことだ。
さて、では何故、三四郎は、源之助の右腕の下側をくぐって入身したのであろうか?
それは、投げる前に敵の右腕の周りを外側からグルリと回り込むと、敵の右腕は自ずと内転するのであり、結局、投げる時点では、敵の右手掌は上向きになっており、敵の右肘は逆に極められてしまうからである。
つまり、本物の「山嵐」とは「逆手技」だったのだ!
(以下、増補(14)の「後編」に続く・・・)
武術空手研究帳・増補(13) - 完 (記:平成二十六年六月)