武術空手研究帳・増補(17)- 宮本武蔵の戦い方(武蔵は何故、木刀で戦ったのか?)- 後編: 決闘、巌流島(岩流島)
[ 宮本武蔵ほど有名な剣術家は、他にはいないであろう。彼に関する著述は数え切れないほどあり、また、彼に関係する様々なことにも諸説が入り乱れている現状である。
ただ、私が興味を持っているのは、彼の剣術の「戦い方」の本質的な部分なのであり、その点に関して、今までに考察してきたことを、一度しっかりとまとめておきたいと思うのである。
本稿では「後編」として、佐々木小次郎との決闘を取り上げることにする。(なお、「増補(16)」の「前編」をお読みでない方は、是非そちらを先に読んでから本稿に進んでもらいたい。)]
岩流島の決闘
では、今度は有名な岩流島の決闘を見てみよう。
まずは「小倉碑文」からの引用である。
“爰に兵術の達人、岩流と名のる有り。彼と雌雄を決せんことを求む。岩流云く、真剣を以て雌雄を決せんことを請ふ。武蔵対へて云く、汝は白刃を揮ひて其の妙を尽くせ。吾は木戟を提げて此の秘を顕はさんと。堅く漆約を結ぶ。長門と豊前との際、海中に嶋有り。舟嶋と謂ふ。両雄、同時に相会す。岩流、三尺の白刃を手にして来たり、命を顧みずして術を尽くす。武蔵、木刃の一撃を以て之を殺す。電光も猶遅し。故に俗、舟嶋を改めて岩流嶋と謂ふ。”
ザックリと現代語に訳すと、“ここに剣術の達人で、岩流と名乗るものがいた。武蔵は彼と雌雄を決することを望んだ。岩流は言った「真剣で雌雄を決しよう」と。武蔵はそれに答えて言った「あなたは真剣を使って存分にその優れた技を発揮すればよい。私は木刀を使って秘術をお見せしよう」と。両人は堅く約束を交わした。長門と豊前の境の海に島があった。舟嶋といった。両雄は、(この舟島で)同時に相いまみえた。岩流は、三尺の真剣を手にしてやって来て、命を顧みずに術を尽くした。武蔵は、木刀の一撃で岩流を殺した。電光でさえも遅いくらいであった。ゆえに世間では、舟嶋という呼称を改めて岩流嶋と呼ぶようになった。”
さて、ここで武蔵と対決するのは「岩流」であって、あの有名な佐々木小次郎とは書かれていない。
どうも佐々木小次郎というのは、もっと時代が後になって語られ出した名前らしい。
しかし、剣術の技術とは直接の関係は無い話しなので、本稿では、岩流=佐々木小次郎とさせていただく。
また、現在では「巌流」の字が一般的だが、本稿では、上記を尊重し「岩流」を採用しておく。
櫂の木刀
さて、「小倉碑文」を読むと、例によって、岩流・佐々木小次郎は三尺という長い真剣を武器にしたのに対し、武蔵は木刀でしかも一撃でこれを倒した、という話しになっており、素人が読めば、武蔵は圧倒的に不利な状況下で岩流を倒したと思うであろう。
先の吉岡兄弟との決闘の書き方と基本的に同じなのだ。
つまり、真実を知る人達から抗議をされないようにウソは書いてはいないものの、一般大衆が武蔵を殊更に偉大であると思うような記述の仕方になっているわけだ。
しかし、実際は異なるのであって、武蔵は小次郎の刀よりも「長い木刀」を使って勝ったのである。
ところで、武蔵はこの時「櫂の木刀」を使ったとするのが、現在における通説であろう。
本稿では、武蔵がどのような戦い方をしたのか、ということを解き明かすのが第一の趣旨なのであり、それが「長木刀戦法」であったことが分かればそれで良いのであるから、その「長い木刀」が何を材料にして作られたかとか、舟嶋に向かう途中の船中で作成したとかのように、どこで作られたかなどは、はっきり言ってどうでも良い話題なのである。
実際、「櫂の木刀」という説は、かなり後になってから作られた話しのようである。
よって、「櫂の木刀」説が真実であったか否かについては、これ以上詮索はしない。
ただ、次のエピソード(と証拠となる木刀)についてはとても重要な事なので、ここで取り上げておかねばなるまい。
武蔵は晩年、細川藩の客分として肥後にいたのだが、その頃、細川藩の家老であった長岡(佐渡の息子の)寄之から岩流島で使った木刀について尋ねられた時、それでは同じものをもう一度作ってみましょう、と言って武蔵が実際に作って長岡に呈上したそうである。その木刀が現在でも熊本の松井(旧長岡)家に伝わっており、それは、白樫製で、反りのある四尺二寸余(約127センチメートル)の長い木刀とのことである(また、櫂から削り出したものではないそうだ)。
岩流・佐々木小次郎の刀は、「小倉碑文」によれば「三尺の白刃」とのことであり、これは「刃渡り(刃長)」を意味するはずなので、柄(通常は約八寸)の長さを加えれば、全体の長さは約四尺(弱)といったところであったろうか。
とすると、武蔵が使った木刀は、岩流の刀より、全長が約三寸程長かったことになるわけで、やはり武蔵は岩流島でも「長木刀戦法」で戦ったことが分かるのである。(もっとも、「長木刀」とは言っても、小次郎の刀より「僅かに長い木刀」に過ぎなかったわけだが、この点については後に詳述する。)
いずれにせよ、岩流は己の武器の長さを世間に堂々と示していたのに対して、武蔵は己の「長木刀戦法」は絶対の秘密にしていたわけである。
だから、岩流との対決で使う予定の長木刀にしても、人々の目から徹底して隠したはずだ。
さらに、舟嶋に着いた時も、(これは映画のシーンにもあったが)武蔵は浜近くよりももっと沖合いの所で船から降り、その時、長木刀は切っ先を先頭に深く海中に隠したはずである。もちろん、その長木刀の長さを小次郎に読み取らせないためだ。
それから、ゆっくりと浜に向かって歩いていったはずだが、長木刀については、柄頭のみを小次郎に向けるようにして運んで行ったことであろう。
その後、両者がにらみ合った時、武蔵がどのような構えを取ったのか、車の構えか、それとも切っ先を極端に寝かせたような八双の構えだったのか、小次郎の技が具体的に判然としない以上は不明とせざるを得ないが、とにかく最後の最後の瞬間まで、柄頭の一点のみを小次郎に向けていたことはまず間違いのない所であろう。
燕返し
今度は、岩流・佐々木小次郎の得意技の「燕返し」についてだが、「小倉碑文」を読んでも、この技についての記載は特に見当たらない。
しかし、ここでは、小次郎はこの「燕返し」という得意技で武蔵に襲い掛かって行ったものと仮定して考察してみることにしよう。
何故なら、そうすることで、実に興味深い事実が浮かび上がってくるからだ。
さて、では岩流・佐々木小次郎の得意技と伝えられている「燕返し」とは、一体どのような技であったのだろうか?
この点で、先日テレビを見ていたら、古伝剣術の師範らしき人が、次のように解説しているのを聞いた。
曰く、“小次郎の刀は大きいが故に重かったので、反動をつけなければ振れなかった。だから、まず反動をつけるために、刀を斜めに振り上げ、この時に敵が打ち込んでくる刀を払い、それから、返す刀で敵を切る、これが燕返しだったのです。”
これが古伝剣術の師範と称する人の見解であることに、いささか以上に驚いたのだが、まず、反動をつけなければ振れない刀などで真剣勝負に挑むなど、どう見ても自殺行為であろう。
そのような刀の振り方では、全ての打ち込みが「テレフォン・パンチ」になってしまうからで、敵に全ての攻撃を事前に読まれてしまうからだ。
よって、反動をつけなければ振れないような大きい刀であったのならば、取るべき道は次の二つより他には無い。
一つは、反動をつけなくとも振れるようなもっと軽くて短い刀に代えるか、あるいは、鍛錬によって膂力をつけて、そうした重い刀でも反動無しで振れるようにするか、のいずれかしか無いのである。
次に、上記の燕返しと称する技、即ち、己の刀を下から斜め上に振り上げて、その時に敵が打ってくる刀を払い、今度は返す刀で敵を切る、というのは、一般的な名称としては(燕返しではなく)「竜尾(りゅうび)」であろう。
そして、この「竜尾」というのは典型的な「後の先」の技なのである。
つまり、敵に技を出させて、それに反応する戦い方なのであって、この場合には、敵と同じ位かやや短目の長さの刀を使うのが丁度良いのであって、敵より明らかに長い刀では極めてやりにくい技なのだ。
岩流・小次郎は刃渡り三尺の長刀を使っていたのだから、この「竜尾」を得意技にしたはずがないのである。
では、改めて「燕返し」とはどのような技だったのだろうか?
三尺の長刀を使った以上、敵より先に攻撃間合に入れる利点を生かせる技だったであろうことは容易に分かる。
つまり、両者の体が近づいて行くとき、敵は未だ攻撃は出来ないが、岩流は先に攻撃可能になる、という利点を生かせる技だったはずだ。
とすると、巷間言われているように、「虎切刀(こせつとう)」という技こそが「燕返し」だった、とする意見が基本的に妥当であろうと思われるのである。
「虎切刀」とは、刀を上段(頭上)に構え、まず、刀が敵の体に届かないことを承知の上で僅かに遠い間合から、敵に対して真っ向唐竹割りに斬り付けてあえて刀を空振りし、敵がその空振り(つまり、打ち込みの失敗)に反応し踏み込んで来る所に、一瞬で手の内の中で柄を180度回転させ刀の刃を上向きに持ち替えるや、そのまま垂直に切り上げて敵を斬る、という技なのである。
しかし、当時は未だ戦国時代終了ごろの時期であり、刀を上段(頭上)に構えることがそれ程一般的であったとは考え難い。
それに、剣術で実際に使う技というものは、決して硬直的に捉えるべきではないことからも、ここでは、「燕返し」をやや抽象的に捉えておくほうが宜しいかと思う。
そこで、次のように理解しておくほうがより妥当と思われる。
つまり、「燕返し」とは、まず「捨て太刀(仮打)」として、敵にあえてギリギリで当たらない一刀を放ち、それに対して敵が反応してくる所を、すかさず返す刀で「本当の太刀(本打)」で斬る、という技、という理解である。
補足しておけば、もちろん、敵が弱すぎれば一刀目で斬ってしまったであろうし、また、「捨て太刀(仮打)」で敵がビビッて体を固めてしまったら、「本当の太刀(本打)」は単なる陶物斬りみたいになったであろう。
いずれにせよ、「燕返し」とは、長刀の利を生かして、まず「捨て太刀(仮打)」を放ち、それからすかさず「本当の太刀(本打)」で斬る、という技であったと思われるのである。
長木刀戦法
では、その「燕返し」に対して、武蔵はどのように戦ったのであろうか?
その前に、ここで、そもそもG方式の剣術の戦いにおいて、「有利な(即ち長い)木刀」を採用した場合の具体的な戦い方というのはどのようなものなのか、一度振り返って考察しておくことにしよう。
「増補(2)」で既述のとおり、G方式の戦いにおいて、一人稽古でも強くなれる可能性があるのは、「敵よりも有利な(即ち長い)武器」を採用した場合、と述べたわけだが、このことは、ただ単に「敵よりも長い武器」を持ってさえいれば、それだけで良い、というような単純な話ではない。
そもそも、G方式の戦いにおいては、敵は常に自由に動き回ることが出来るために、そうした敵を倒す技術を身に付けるには、実際に敵役の人間を相手に立てての二人組んでの稽古が不可欠なのであり、そうした稽古を数多くこなすことを通して様々な「駆け引き」等の技術を習得する必要があるわけだ。
しかし、「敵よりも長い武器」を持つことが出来れば、そうした「駆け引き」が本来開始される間合よりも一段遠い間合で、その「長い武器」を使って一気に勝負を決めることが可能になるわけで、そうであれば、本来二人組んでの稽古を通してしか習得不可能な種々の「駆け引き」等の技術などは、一切習得不要になるのである。
結局のところ、G方式の剣術の戦いにおいて、「有利な(即ち長い)木刀」を採用した場合の具体的な戦い方というのは、敵の刀は我に届かず、我の木刀のみが敵に届くという間合において、一気呵成に素早く勝負を決めることを意味するのだ。(しかも、「増補(16)- 前編」で述べたように、木刀は真剣よりも軽いので、より一層素早く打ち込むのに適しているわけである。)
もし、その間合で勝負を決することが出来ずに、敵の刀の間合に入ってしまったら、「長い木刀」はかえって扱い難くなるだけではなく、何と言っても、二人組んでの稽古を数多くこなしてきた敵の方が有利になってしまうことになる。
だから、この「長木刀戦法」では、両者がお互いに近づいていく中で、その長木刀の攻撃間合に到達するや否や、一気呵成に素早く勝負を決める以外に道は無いことになる。
ではここで、順序が前後するが、武蔵と吉岡清十郎との戦いを(やや抽象的ながら)再現してみることにしよう。
武蔵は、もちろん、自らの長木刀の長さを徹底的に隠しながら清十郎に近づいていったはずだ。
そして、清十郎の体が自らの長木刀の攻撃間合に入るや否や、一気にかつ素早く清十郎に打ち掛かって行ったことであろう。
武蔵はもちろん、清十郎の頭部を目指して長木刀を打ち込んだはずだ。
清十郎が凡夫であれば、この一撃で即死していたであろう。
しかし、清十郎は決して凡夫ではなかった。咄嗟に武蔵の木刀の長さを悟り、自らの刀でその長木刀を受けるべく動作を開始したはずだ。
もちろん、武蔵も、敵がそのような反応を示した場合の変化技もたっぷりと工夫・稽古してきたはずである。
結局、武蔵の長木刀は、直ちに攻撃目標を変えて清十郎の鎖骨から肩辺りの骨を砕く結果になったと思う。
清十郎がいったんは気絶し、その後蘇生し回復し、しかし剣術は諦めた点を考えると、鎖骨から肩辺りの骨を破壊されたのではないか、と推測されるからである。
佐々木小次郎との対決
さて、では改めて、佐々木小次郎に対して、武蔵はどのように戦ったのであろうか?
上述の吉岡清十郎のケースと比べてみると、佐々木小次郎の場合には次の二点が異なっているのが分かる。
1)吉岡清十郎の剣は常寸かやや短めであったために、武蔵の長木刀とはかなりの長さの違いがあったのだが、佐々木小次郎の刀は刃渡り三尺の長刀であったために、武蔵の全長四尺二寸余の木刀とは、約三寸(9cm)程の長さの違いしかなく、ほとんど同じ長さの武器とも言えるほどであった点。
2)吉岡清十郎については、何か際立った得意技というものが伝わっていないが、佐々木小次郎については「燕返し」という得意技があったことが伝承されている点。
以上の二点から考察してみると、まず、1)の点から言えることは、武蔵は、吉岡清十郎に対しては上述のような先手必勝的な戦法が取れたわけだが、佐々木小次郎に対しては、そのような戦法は容易には取れなかったことが分かるのである。
何故なら、小次郎と武蔵の両者の武器の長さの違いは僅かに約三寸(9cm)程に過ぎなかったわけで、この状態で武蔵が先手必勝的に勝負を仕掛けても、ほとんど通常のG方式の戦いに成りかねず、そうなると、二人組んでの稽古でしっかりと「駆け引き」等を修練してきた者の方が勝つことになるわけで、ことさらに武蔵の「長木刀」が有利にはならないからだ。
とすると、武蔵としては、吉岡清十郎に使ったような「典型的な長木刀戦法」は、佐々木小次郎に対しては使えなかったことになるわけだ。
では、武蔵はどうしたのか?
ここで意味を持ってくるのが、2)なのである。
小次郎がその得意技である「燕返し」で掛かって来るならば、その初一手である「捨て太刀(仮打)」は武蔵にはギリギリで当たらないように空振りを承知で打って来るわけであるから、その仮打に合わせるように一瞬遅れて武蔵が「長木刀」で攻撃しさえすれば、小次郎の刀は武蔵には当たらず、武蔵の木刀の一撃のみが小次郎に当たることになるわけだ。
この場面でこそ、約三寸(9cm)程の武器の長さの違いがものをいうわけである。
念のために言っておくが、武蔵は、小次郎の初一手の「捨て太刀(仮打)」をただやり過ごし、その後に襲って来る「本当の太刀(本打)」に合わせて「長木刀」で攻撃する、という戦法は絶対に採れなかったということだ。
何故なら、これではG方式の剣術の戦いにおける通常の斬り合いそのものになってしまうからだ。だから、武蔵としては、あくまで、小次郎の初一手である「捨て太刀(仮打)」に合わせての攻撃こそが、唯一無二の取り得る選択肢だったわけである。
この一点に、宮本武蔵は己が生死を賭けたのだ。
このように見てくると、「長木刀戦法」とは言っても、対吉岡清十郎と、対佐々木小次郎とでは、その中身が大いに異なることが分かると思う。
吉岡清十郎に対した時の「長木刀戦法」こそが、本来の「長木刀戦法」なのであるのに対して、佐々木小次郎に対した時の「長木刀戦法」は、極めて特殊な戦法なのであり、まさに「燕返し」に特化した「長木刀戦法」と言えるのである。
武蔵と小次郎、決闘の秘密
さて、ここでもう一度、前節の内容に立ち入ってみよう。
武蔵は、特に手強い相手に対しては「長木刀戦法」で戦ったわけだが、小次郎も武蔵と同様な長刀使いであった以上、武蔵としては、吉岡清十郎に対して使ったような「典型的な長木刀戦法」は、小次郎に対しては使えなかったわけだ。何故なら、それでは通常のG方式の戦闘になりかねなかったからだ。
そして、そうであったならば、武蔵としては小次郎との対決はむしろ忌避すべきものであったはずで、舟嶋での決闘なども結局実現しなかったことになる。
しかし、これに対し、小次郎が「燕返し」を得意技とし、しかもこの技のみで武蔵に向ってくることが確実であったならば、武蔵としては、前節で示したように戦えば良かったわけで、勝算も十分にあったことになり、結局、舟嶋での決闘も実現の運びとなったわけである。
以上から、次の二つの事が「明確な事実」であることが分かるのである。
A)岩流・佐々木小次郎は、「燕返し」という得意技を有していた。
B)舟嶋での決闘において、岩流・佐々木小次郎は、自身の得意技である「燕返し」の一技のみをもって、武蔵に向って行った。
何故なら、繰り返しになるが、以上の二点が事実でなければ、武蔵は決して小次郎とは戦わなかったからである。そして、武蔵が小次郎と戦った以上は、上記の二点は真実に間違いないのだ。
すると、読者の中には次のような疑問を持つ者もいることと思う。
即ち、“A)の点については、「小倉碑文」に特にそうした記述が無いではないか?また、B)については、一体どうやったら小次郎に「燕返し」のみで武蔵に向っていくように仕向けることが出来たというのだ?”
では、まず後者から解説しよう。
これは塚原卜伝のエピソード(と言っても種々あるため、その一例を簡略に記す)だが、卜伝がある武芸者と戦うに際して、事前にその武芸者に対し、連日の如く再三にわたり手紙を送りつけ、その武芸者の得意技を「卑怯な手」と非難したとのことである。
それを受けてその武芸者は、「卜伝は、余程わしの得意技が苦手と見える」と考え、決闘の当日、その得意技で卜伝に向って行ったが、卜伝に一撃の下に斬られてしまった、というエピソードである。
スポーツ武道とは異なり、武術の勝負(やケンカなど)では、事前の頭脳戦で勝敗のほとんどが決せられてしまうのも決して珍しくは無く、上記の卜伝の例で言えば、最初から敵の武芸者にその得意技を使わせるように仕向けたわけである。
以上のエピソードからも分かるとおり、武蔵としても、舟嶋の決闘において、小次郎に「燕返し」の一技のみで武蔵に向って来るように仕向けることも、十分に可能なことであったのだ。
ただ、武蔵がその時に採った手段は、卜伝の方法とは違っていた。
では、武蔵はどのような方法を採ったのか?
結論から言おう。
武蔵は、小次郎やその弟子達等の前で、“小次郎の「燕返し」を破ってみせよう”と公言したのだ!
よろしいであろうか?
武蔵は、小次郎に対し、ただ単に“戦って雌雄を決しよう”とのみ言ったのではなかったのである。それだけではなく、“小次郎よ、(真剣を使って)得意の「燕返し」で掛かって来い。俺はそれを(木刀で)破ってやる”という趣旨の挑戦をしたのだ。
このようにして衆人環視の下で挑まれては、小次郎としても「燕返し」の一技で武蔵を倒す以外には道は無くなるわけだ。何故なら、もし「燕返し」以外の技で仮に武蔵を倒したとしても、それでは武蔵の挑戦から逃げたことになってしまうからであり、また、何と言っても、「燕返し」は自身の得意技なのであり、それを(こちらの真剣に対し木刀で)「破る」とまで公言されては、この自らの得意技である「燕返し」そのもので武蔵を倒さなければ、剣術家としての面目が立たないからだ。
* 上記の卜伝や武蔵と全く同様な頭脳戦が、既に「増補(3)」に登場していたことを思い出して欲しい。
そこでは、喜屋武朝徳は川を背にして構えたのだが、それは、松田という暴れん坊に「ぶちかまし」をさせるように仕向ける狙いからそうしたわけだ。
このように、武術の勝負やケンカなどでは、頭脳戦で勝負の大半が決まるのも決して珍しくは無いということを良く覚えておいてもらいたい。
** 昔のことだが、直木三十五と菊池寛との間で、「宮本武蔵は名人か否か」というテーマで論争がなされたことがあった。
もちろん、こうした論争の前提としては、「名人とは何か」について明確な定義が必要になると思うのだが、それはともかくとして、直木三十五は「武蔵非名人説」を唱えたのであった。
そして、その理由として、「武蔵は、自分より弱い者としか戦わなかった」ことを挙げていた。
この意見を読んだ時、私は、直木三十五は、古伝剣術の世界と竹刀競技である現代剣道の世界とを混同している、と思ったものである。
何故なら、現代剣道であれば、もし自分より強い者と戦って負けても命は落とさないわけだが、古伝剣術の真剣勝負において、自分より強い相手と戦って負けてしまったら、まず間違いなく死んであの世行きとなってしまうからであり、現代剣道と古伝剣術の両者における勝負の厳しさは根底から異なっているからだ。
だから、古伝剣術の真剣勝負の世界では、自分より弱い者とのみ戦うのは、至極当たり前の事だったわけであり、その事をもって武蔵を批判するのは全く当たらないと言わざるを得ないのである。
さらに、当時の剣術家達にとって、例えば、「日之本剣術家協会」認定の「本邦剣術家ランキング 第何位」などといったライセンスなども全く無かったわけであるから、「相手が自分より弱い剣術家か否か」ということを見抜くこと自体、自分の眼力のみで行わなければならなかったわけである。
つまり、「相手が自分より弱い剣術家か否か」ということを的確に見分けることが出来たとすれば、それ自体が剣術家として優れた能力であったわけだ。
従って、「自分より弱い者としか戦わなかった」宮本武蔵は、その事からだけでも、かなり優れた剣術家ということが分かるのであり、少なくとも、その時武蔵と戦って敗れた者達よりも、ずっと優れた眼力を有していたことになるのである。
さて、このように、当時の剣術家は真剣勝負が当たり前だったことから、十分に「勝てる」と判断しなければ、まずは戦わなかったのであり、特に武蔵などはこの点徹底していたはずである(だから“六十余度迄勝負すといへども、一度も其利をうしなはず”に生き残ったわけだ)。
こうした事が分かれば、上記本文中に次のように記したことにも、十分納得がいくことであろう。
“何故なら、繰り返しになるが、以上の二点が事実でなければ、武蔵は決して小次郎とは戦わなかったからである。そして、武蔵が小次郎と戦った以上は、上記の二点は真実に間違いないのだ。”
以上、読者の中には直木三十五のように古伝剣術の世界と現代剣道の世界とを混同している人もいるかも知れないので、念のために詳しく解説しておいた次第である。
宮本伊織の賢さ
さて、上記のようにはっきりと断言すると、“一体どんな証拠があって、そこまで断定的な結論を下せるのだ?”という指摘を受けるかも知れない。
しかし、ちゃんと「証拠」はあるのだ。
そこで、前に引用した「小倉碑文」とその拙訳の「一部」を、ここでもう一度引用してみよう。
“武蔵対へて云く、汝は白刃を揮ひて其の妙を尽くせ。吾は木戟を提げて此の秘を顕はさんと。(中略)岩流、三尺の白刃を手にして来たり、命を顧みずして術を尽くす。武蔵、木刃の一撃を以て之を殺す。電光も猶遅し。”
この部分の拙訳を再度示すと、“武蔵はそれに答えて言った「あなたは真剣を使って存分にその優れた技を発揮すればよい。私は木刀を使って秘術をお見せしよう」と。(中略)岩流は、三尺の真剣を手にしてやって来て、命を顧みずに術を尽くした。武蔵は、木刀の一撃で岩流を殺した。電光でさえも遅いくらいであった。”
以前に上記の拙訳を読んで、読者は格別に違和感は感じなかったことと思う。
というのは、上記の拙訳は「一般人向けの訳」だったからだ。
ここで、これまで繰り返し述べてきたことを思い出してもらいたい。
宮本伊織が執筆した「小倉碑文」というのは、当時未だ存命中の利害関係者が読んでもウソは書いてないようになっている。
他方において、一般の人々が読んだ場合には、父・武蔵がより偉大に見えるように工夫されていたのだ。
上記の引用文で「太字の文字」に注目されればお分かりのとおり、実はその「太字の文字」は、読む人の立場によって異なった意味に取れるように書いてあったのだ!
つまり、利害関係者ではない一般人が読めば、上記の拙訳のように読めるわけだが、これを岩流・佐々木小次郎の利害関係者が読めば、“其の妙を尽くせ”は、「技一般」を意味する“存分にその優れた技を発揮すればよい”ではなく、「特殊な技」を意味する“存分に燕返しで掛かって来い”の意に取ったであろうし、“術を尽くす”は、やはり「技術一般」を意味する“術を尽くした”ではなく、「特殊な技術」を意味する“しっかりと燕返しを振るった”の意に読めたのだ。(そして、そう読めれば、まさに、小次郎の方が先に仮打である初一手を発し、武蔵はこれに即座に呼応する形で木刀を振り出し一撃で「燕返し」を破った、と読めるのであり、先述の「燕返し」の破り方と完全に一致するのである。)
宮本伊織という人物は、 家老にまで出世したくらいであるから、相当に賢かったと思われるが、このように、読む人の立場により異なる意味に取れる巧妙な書き方を採用することで、利害関係者からはウソだなどと非難されることもなく、一般の人々に対しては父・武蔵の偉大さをより一層高めることに成功したのである。
もう一度確認しておくが、宮本武蔵は、岩流・佐々木小次郎と、持ち得る全ての剣技を駆使しての「本来の剣術対決」をしたのではない。そうではなく、宮本武蔵は、「剣術家」というよりはむしろ「勝負師」として、岩流・佐々木小次郎の「燕返し」という技のみと対決し、これを破ったのだ。
この両者には、実質的に見て、大きな違いがあるのであり、これこそが、宮本武蔵と岩流・佐々木小次郎との決闘の一大秘密だったのである。
最後に
前稿と本稿では、宮本武蔵の若き日の戦い方の秘密を探る趣旨で論を展開してきたが、若き日の武蔵が一刀での戦いにこだわったのは、おそらくは十手術を習得させられた父・無二に対する反発心からだったろうと推測される。
しかし、その後、結局はその十手術を元にした「二天一流」を確立していくことになる。
いずれにせよ、若き日の「長木刀戦法」といい、その後の「二天一流」といい、共に一人稽古で修練可能な技術であることを考えれば、宮本武蔵という人物は、(「独行道」という自戒の書のタイトルを見ても明らかではあるが)相当に「孤独」を愛した人だったようである。
* ここでついでながら述べておくが、現在に残る「二天一流」の諸団体の中には、「一刀の組形(太刀及び小太刀の二種がある)」も同時に継承しているところがあるようだ。
しかし、そうした「一刀の組形」は、明らかにG方式の戦い方なのであり、B方式で戦う「二天一流」とは、そもそもの戦闘方式からして根本的に異なるのだ。
従って、その「一刀の組形」は、武蔵自身の作ではなく、武蔵没後に誰かが流儀に挿入したものと思われる。(名称が「形」ではなく「勢法」という所から推測すると、その組形の創作者は柳生新陰流の関係者かと思われる。)
** 前編で少し触れたことだが、「小倉碑文」については、その執筆者は武蔵と親交が深かった春山和尚であったとする説もあるし、また、現在の石碑自体は建立当時の物ではなく作り替えられているとの説もある。
しかし、上記本文で見たとおり、「小倉碑文」の内容は、宮本武蔵に非常に深く肩入れしていた人物によって書かれたことは明らかであり、従って、養子の伊織こそが執筆者であったと考えるのが最も自然と思われる。
もし、春山和尚が直接の執筆者だったとしても、原案としての原稿はやはり伊織が書いたはずであろうし、万が一、春山和尚が一人で執筆したとしても、その場合は、伊織の心情を十分に汲み取って執筆したものと考えるべきであろう。
また、現在の石碑は数百年前に建立された物としては新しく見えることから、これはオリジナルの石碑ではなく、いつの時代かに建て替えられた物であろうとの意見もある。
確かに、オリジナルの石碑は破損や風化による劣化が生じた可能性も十分にあることなので、仮に建て替えられていたとしても何ら不思議ではない。
しかし、その場合でも、碑文自体は基本的にオリジナルのままで格別の変更はされなかったと考えられる。
その理由も色々あるが、何と言っても、上記本文で見たように、岩流との決闘の内容が、利害関係者と一般人とで異なる意味に取れるように執筆されている点が指摘出来よう。
このような巧妙な執筆の仕方は、岩流の利害関係者が存命中でなければ全く意味を成さないのであるから、現在に残る碑文は「小倉碑文」建立当時のものに間違いないことになるわけである。
*** (職人の技術などを含む)技術の世界では、「上手」「下手」が基準になってくるため、その道に志す人達は皆上手くなろうと努力するものである。
それに対して武術の世界では、これもまた技術領域であることから「上手」「下手」がやはり基準になる一方で、勝負がからんでくるために「勝ち」「負け」という面も関係してくる。
結局、武術の道に励む者は、「上手」であるが故に「勝つ」という言わば「達人」を目指すことになるわけで、そのために日々「上手」になるべく技術を磨くことになるのである。
しかし、こうした「上手」優先の発想は、やはり「平和」な時代の発想に他ならない。
若き日の宮本武蔵の時代はいわゆる戦国時代なのであって、そうした時代の武術家にとっては、「上手」「下手」よりも、「勝ち」「負け」という面こそが何よりも重要な要素になってくるのである。
何故なら、「負け」は即ち「死」を意味するからだ。
結局、若き武蔵としては、何よりも「勝つ」ことこそが大事だったのであり、正々堂々とか潔い等々の概念などはまぁどうでも良かったのであり、少しでも我に有利敵に不利な状況を作り出し、「勝ち」即ち「生」を確かなものにしたかったわけである。
今回は省略したが、実は「小倉碑文」には、武蔵が真剣等を投げて敵に当てる名手であったことが記されている。
こうした「飛び道具」を使った技術は、一人稽古でも修練可能であった点も、孤独な武蔵にとっては好ましかったに違いない。
つまり、武蔵は、こうした「飛び道具」を使って敵に「勝つ」技術にも熟達していたわけだ。
とすれば、当然、敵が剣術で武蔵に掛かってきたときに、小太刀を投げてその敵を倒した過去等もあったことだろう。立会人などもいない二人だけの決闘であれば、そうした方法で勝っても、何も問題は無かったからだ。
しかし、堂々と剣術で戦わなければならない衆人環視のような場面では、そうした「飛び道具」で勝つことは許されない。
でも、そのような場面においても、何とか「飛び道具」を使うのと同様な我に有利な戦い方が出来ないものか?と武蔵は考えたに違いない。
つまり、敵の剣の間合の外側に我が身を置いた(我にとっては安全有利な)状態で、「飛び道具」は使わずに、あくまで「剣術」を使って敵を有利に倒す方法はないものか?
そのように思案した結果生み出されたのが、前稿・本稿で述べた「長木刀戦法」だったと思われるのである。
以上、若き日の宮本武蔵が、如何にして「長木刀戦法」を編み出したのか、その発想の「原点」を探ってみた次第である。
武術空手研究帳・増補(17) - 完 (記:平成二十九年七月)