武術空手研究帳・増補(21)- ナイファンチ型に関する二つの情報
[ 古伝空手(首里手及び泊手)において、ナイファンチの型は極めて重要な「体の型」だった。
今回は、このナイファンチを取り上げて、公開出来る範囲内ではあるが、読者に二つほど情報を提供したい。
又ついでながら、那覇手の大きな歴史的変遷についても、この場を借りて少し触れておこうと思う。]
情報 - その1
そもそも、古伝のナイファンチ型には二種類あったことをご存知だろうか?
そうは言っても、現在では変形した様々なナイファンチが存在している以上、多くの読者にとっては、二種類と言われても一体どういうナイファンチを指しているのか見当も付かないと思われる。
そこで、結論から言おう。
その二種のナイファンチは「運足」が異なるのだ。
つまり、一つは、通常の運足で行うナイファンチ(これを仮に「タイプA」と呼ぼう)であるのに対し、もう一つは、運足に際して足を膝の高さ位まで上げて移動させるタイプのナイファンチ(こちらは「タイプB」としておこう)なのである。
古伝空手の時代には、こうした二種類のナイファンチが存在したのだ。
では、一体何故、こうした二種類のナイファンチが存在したのであろうか?
まず、タイプAのナイファンチは、普通の地面で稽古する際のナイファンチなのであり、これこそが本来のナイファンチの型なのである。
これに対し、タイプBのナイファンチとは、特殊なナイファンチなのであって、具体的に言えば「田んぼで特訓する時のためのナイファンチ」だったのだ。
さて、糸洲安恒が空手の近代化を行った際に、彼は古伝のナイファンチを元にして近代空手のナイファンチ初段を創作したのだが、その際に採用した古伝のナイファンチは、もちろんタイプAのナイファンチだったのである。
従って、糸洲からナイファンチ初段を伝授された近代空手の弟子達は、糸洲存命中には、運足に際して殊更に足を高く上げて移動していたわけではない。
さて、その後、船越義珍が本土において空手の指導を開始した。
ナイファンチに関しては、船越が最初に指導したのは、型名も未だ鉄騎ではなくナイファンチであり、その運足も通常の運足であった。
しかしその後、船越は、これからのナイファンチ型の意義としては、「足腰を鍛える」という意味しか持ち得ない、と判断するに至ったわけだ。
つまり、ナイファンチという型は、古伝空手の時代には非常に重要な「体の型」だったわけだが、近代空手においては、最重要な「体の型」は(武術の)平安二段(松涛館流では平安初段)なのであって、もうナイファンチ初段には格別の「体の型」としての重要性は無くなっていたのだ。さらに、これが現代空手ともなれば、ナイファンチ初段は、もう単に「足腰を鍛錬する型」としての意義しか残っていない、と考えたのである。
そして、「足腰の鍛錬」ということから、船越は、かつての自らの古伝空手修行時代に師であった安里安恒に田んぼに連れて行かれて特訓させられたタイプBのナイファンチを思い出したわけである。
こうした経緯から、船越は、松涛館流のナイファンチ初段の名称を鉄騎初段に変更するあたりから、運足に際して足を高く上げて移動させるというタイプBのナイファンチの運足を採用するに至ったのだ。(そして、その鉄騎初段に合わせるように、鉄騎二段・三段も同様の運足になったわけである。)
ちなみに、この頃の松涛館流の鉄騎初段が沖縄にフィード・バックした結果、沖縄の空手にも、運足に際して足を上げて移動するというタイプBのナイファンチが誕生したのだ。
こうした次第で、現在では、ナイファンチ初段~三段の全般につき、タイプBに属するナイファンチの運足を採用している流派・団体が割りと多く存在する状況になっているわけである。
なお、このタイプBのナイファンチの足の上げ方についてだが、松涛館流では、その後、頭部くらいまで足を非常に高く上げる方式に変えられた。
これは、糸洲安恒が武術の平安の四段から体育の平安の四段を作った際に、子供達の足腰の強化のために、いわゆる「掻き分け」の直後の前蹴りを中段蹴りから上段蹴りに変えたのだが(この点については下記の注を参照のこと)、船越はそれに習ったものと思われる。
* 船越義珍が上京した後、初めて出版した空手書である「琉球拳法 唐手」の中の「ピンアン四段」の解説には、掻き分けの直後の蹴りについて“成る可く高く蹴放す”と記されている。
このことは、船越が本土に来たころには既に(体育の平安の)平安四段のそこの蹴りは「上段蹴り」になっていたことを示しているわけで、それはつまり、糸洲安恒が体育の平安の四段を作るに際して、そこの蹴りを「(武術の平安の)中段蹴り」から「上段蹴り」に変えていたと見るべき、と考えられるのである。
** 上記本文の説明だと、沖縄空手が松涛館流の影響を受けたというように読めるが、それはおかしいのではないか、とする意見をお持ちの読者もいることであろう。沖縄空手こそが本土の空手の源流である、と思い込んでいる読者ならば、必然的にそのように考えるはずだからである。
しかし、残念ながら、沖縄空手なるものの本質は、「沖縄県で行われている現代空手」以外の何物でもない。古伝空手とはほぼ完全に分断されているし、近代空手すら極めて不十分にしか伝承されていないからだ。
それに、船越義珍が出版した本などは、想像以上に強く沖縄空手に影響を及ぼしているのであって、例えば、船越自身が行った型の変形がそっくりそのまま沖縄空手に受け継がれていたり、また、船越自身が創作した型がそのまま沖縄空手に採用されていたりと、沖縄空手は想像以上に松涛館流空手の影響下にあるのである。
以上についての具体的な証拠等は、拙著「武術の平安」の中で詳しく解説してあるので、興味のある方は是非そちらを参照願いたい。
情報 - その2の(1)
現在に残る松涛館流等のナイファンチ(鉄騎)初段型の中で、いわゆる「カギ突き」を行う場面がある。
これに関して、本部朝基の残した記述に次の如きがある。
“ナイファンチの型で、松村先生と糸洲先生と異つているところがある。
(中略)
松村先生の流儀は拳を斜前に突き出すので、肘が殆んど伸びている。然し糸洲先生の流儀は拳を胸部に平行するように突き出すので肘のところで角に曲げて居る。“
-「空手研究(榕樹書林)」 P.21~22 (但し、一部現代かな使いに変更)
以上の記述の中で、“松村先生の流儀”とあるのは「古伝空手(首里手)のナイファンチ」のことであり、“糸洲先生の流儀”とあるのは糸洲が創作した「近代空手のナイファンチ(初段)」のことである。
さて、結構以前のことだが、おそらくは上記の記述を読んだのであろう。ある雑誌の中で、「昔のナイファンチのカギ突きの角度は、現在のように90度ではなく、135度だった」のような意見が述べられていたと記憶している。
まぁ、現代空手家が上記の記述を読めば、そのように考えてしまうのも無理もないが、その意見は正しくない。
と言うのは、そもそも空手史上「カギ突き」なるものを開発したのは糸洲安恒だったからだ。
つまり、糸洲以前に「カギ突き」などは存在しなかったのであり、従って、「昔のナイファンチのカギ突きの角度は135度だった」は完全な間違いなのである。
では、上記の本部の記述は如何なる意味に解すべきか、と言うと、そこに記してあるとおりに素直に理解すれば良いのであって、要するに、古伝空手のナイファンチでは、「カギ突き」ではなく、「斜め45度前方に正拳突きをした」だけなのである。
ただ、正面から見て、突いた拳が体側からはみ出ないようにしたわけで、よって、その「斜め正拳突き」は、肘を完全には伸ばさないで行ったのだ。
結局のところ、古伝空手のナイファンチの「突き」は、「斜め45度前方に向けて、肘を伸ばさずに行う、正拳突き」だったのである。
* 「増補(12)」の注で述べたことだが、現代空手のナイファンチで「カギ突き」や「双手突き」になっている動作は、そもそもの古伝空手(首里手・泊手)のナイファンチでは開手による動作だったのである。
泊手系の現代空手である玄制流のナイファンチでは、現在でもそれらの動作は開手で行っている。
しかし古伝首里手では、松村宗棍が、現在「正拳突き」と呼ばれている攻撃技を確立した関係で、首里手の最も基本の型であるナイファンチの中にも「正拳突き」を登場させようとして、それらの開手による動作を、「正拳突き」の動作に変更した次第なのである。
だから、幕末のころの古伝首里手のナイファンチにおけるこれらの動作は、あくまで「正拳突き」だったのであって、決して「カギ突き」ではなかったのだ。
さらに述べるならば、拳頭等の部位を鍛える「巻き藁」という鍛錬器具を発明したのも、松村宗棍なのである。
そして、古伝首里手の時代の「巻き藁突き」というのは、巻き藁の(正面ではなく)斜め前に立って行う方式だったのであり、この方式もまた松村が開発した方式なのだ。(この昔の「巻き藁突き」については、船越義珍が写真を残しているので、見たことのある人も結構いると思う。)
結局のところ、松村がナイファンチの中に挿入した「正拳突き」というのは、ちょうどその「巻き藁突き」と基本的に同じ突き方だったのである。
情報 - その2の(2)
このように、古伝空手のナイファンチでは基本的に「正拳突き」だった動作を、糸洲は「カギ突き」という全く新しい技に変えた。
何故そうしたのか?
それに答えるには、糸洲の近代空手創造のプロセスを知る必要がある。
糸洲は、最終的には「武術の平安」を創るのだが、その前にまず腕試しとして「ナイファンチ初段~三段」を創ったのだ。
そして、その「ナイファンチ初段~三段」の中では、一番最初に、「古伝空手のナイファンチ」を元にして近代空手の「ナイファンチ初段」を創ったのである。
この近代空手の「ナイファンチ初段」では、その全ての動作を「古伝空手のナイファンチ」から変化させたわけだ。
運足、腕の捻り、等々、あらゆる要素を変化させたわけだが、もちろん、前記の「古伝空手のナイファンチ」の「斜め正拳突き」も変化させたのである。
では、どのような考えの下でその「斜め正拳突き」を変化させたのかと言うと、「ナイファンチ初段~三段」を創っていた頃の糸洲は、未だ「武術の平安」に見られるような見事な「倒木法(倒地法)」の諸技術は生み出してはいなかったわけで、結局、近代空手の「発力法」についても試行段階にあったわけだ。
その段階で糸洲が考え出した「発力法」の一つが、「腰の振り」を利用する方式だったのであり、それが原因で「斜め正拳突き」から「カギ突き」が生み出された次第なのである。
古伝空手では「腰の振り」などは全く使わなかったのであるから、ナイファンチの突きも単なる「斜め正拳突き」だったのだが、糸洲が創った近代空手の「ナイファンチ初段」の突きは、「腰の振り」を使って突く「カギ突き」に変化したわけである。
情報 - その2の(3)
さて、近代空手の「ナイファンチ初段」を創った後、糸洲は「ナイファンチ二段・三段」を作成するのだが、「ナイファンチ初段」は「分解」の無い「体の型」であるのに対して、「ナイファンチ二段・三段」は「分解」の存在する「用の型」である。
そして、「ナイファンチ初段」で「カギ突き」を開発した以上、当然のこととして、「ナイファンチ二段・三段」の「真の分解」でも、「腰の振り」を使った「カギ突き」で敵を攻撃する技が登場してくることになったのだ。
しかし、糸洲はその後「武術の平安」を創ったわけだが、その「武術の平安」の「真の分解」では一切「腰の振り」は使っていない。
つまり、「武術の平安」という近代空手は、古伝空手と同様に「腰の振り」を使わない空手として誕生させることに成功したわけだ。
糸洲は、自身が創造しようとした近代空手を、出来るだけ古伝空手に似ている空手にしたかったのであり、よって、「腰の振り」を使わない空手である「武術の平安」を完成させた以上は、もう「腰の振り」という技術は近代空手にとっては不要と判断したわけである。
従って、その後(つまり、「武術の平安」を完成させた後)の糸洲は、「ナイファンチ初段~三段」の指導にあたっても「腰の振り」という技術は一切使わせないことにしたのだ。
なお、これら近代空手の「ナイファンチ初段~三段」は現代空手にも受け継がれているが、現代空手では(船越義珍が厳しく禁止したにも関わらず)「腰の振り」こそが最も重要な発力技術になってしまった現実があり、現代空手のナイファンチ(あるいは、鉄騎)の「カギ突き」も、糸洲が最初に考案したとおりの「腰の振り」を使って突くような突きになってしまっている次第なのである。
以上、「ナイファンチ」の「カギ突き」一つを取っても、随分と色々な歴史的変遷があったことが分かると思う。
上記の「カギ突き」の歴史的変遷について、ここで簡潔にまとめておくと;
1)そもそもの最初は「開手での動作」だったのだが、
2)古伝首里手では松村宗棍がそれを「斜め正拳突き」に変え、
3)その後糸洲安恒が近代空手の創造に際し「腰の振り」を使った「カギ突き」に変え、
4)糸洲自身が今度は「腰の振り」を禁止し、
5)最後には松涛館流等の現代空手で再び「腰の振り」を使った「カギ突き」になってしまったわけである。
汝自身を疑え
以上、本稿では、ナイファンチに関する二つの情報を読者に提供した次第であるが、どちらを見ても、様々な技術等の過去の変遷というのは、想像以上に「複雑」ということが分かると思う。
さて、現代空手家は、昔の空手をほとんど全く「知らない」のである。
それにも関わらず、誠に不思議なことに、その「知らない」空手である昔の空手について、あたかも良く知っているかのように語るのだ。
そうした不思議なことが出来るのも、そもそも彼ら現代空手家達は、昔の空手というものを、現代空手とほんのちょっと違う空手だったくらいにしか考えていないからである。
先述の「昔のナイファンチのカギ突きの角度は135度だった」のような意見も、そうした典型例の一つと言えよう。
何故なら、現在自分が実践している90度のカギ突きを元に考えて、昔の空手では135度のカギ突きだった、と安直に結論を出しているわけで、これは、両者は共にカギ突きであり従って両者に根本的な違いはなく、ただ角度の点だけが異なっていた、と結論付けたわけだから、現代空手と昔の空手とは、ほんの少し違うだけだ、と考えていることは明らかであろう。
しかるに、真実は、本稿で解説した通りにもっとはるかに「複雑」なのだ。
そもそも、空手全体の歴史的変化を考えてみても、古伝空手から近代空手を経て現代空手が誕生したわけであり、この間にはかなりの「大変化」が生じたのである。
しかし、空手の「近代化」と「現代化」を明確に区別して論じたのは私が最初であり、さらに、空手の「近代化」の中に「近代武術空手(武術の平安)」を発見したのも私だけなのだ。
本サイトでは当たり前のように使われている「武術の平安」「体育の平安」という両概念にしても、私が初めて生み出した概念なのであり、それ以前はただ「平安」という概念のみが存在するだけであった。つまり、事実上「(体育の)平安」しか認識されていなかったわけである。
しかし、その「(体育の)平安」以前に、古伝首里手を元にして生み出された「武術の平安」が存在していたことを突きとめ、歴史の闇に埋没していたその優れた近代武術空手を完全に復元したのも私が最初であり、また、私以前には誰も成しえなかったことなのだ。
要するに、今まで現代空手家達は、余りにも無知であったが故に、空手の歴史的な「大変化」を、ほんの少し変化しただけ、くらいに極めて矮小化して捉えていたのである。簡単に言ってしまえば、研究対象を完全になめきっていたわけだ。
さて、このような現代空手家達が今までに発表してきた数多くの「昔の空手に関する知識」を、読者も知らず知らずのうちに頭の中に大量に蓄えて来たことと思うが、あっさり言ってしまえば、それらの知識のほとんど全てがガセなのだ。
ほとんど何も知らない現代空手家達が、勝手に超安直な推測を行うことで作り上げてきた妄想の世界なのである。
従って、読者が本サイトを読む際には、自分が持っている知識と色々矛盾をきたすと思うが、その際、くれぐれも「自分自身を疑ってみる」ことを強くお勧めする。
今まで正しいと思い込んで来た数々の知識が、本当に正しいのかどうか、一度真剣に考え直してみることだ。
いったん真剣に精査してみれば、今まで「通説」と思っていたことが、色々な点で矛盾やほころびを生じさせることが発見出来るはずだ。
那覇手、剛柔流
さて、上述したように、“古伝空手から近代空手を経て現代空手が誕生したわけであり、この間にはかなりの「大変化」が生じた”のである。
従って、例えば、現在に伝わっている松涛館流の型から直接に分解を発見しようとしても、到底まともな分解などは発見出来ないのである。
何故なら、現在の松涛館流の型は、オリジナルの古伝首里手の型とはかなり異なってしまっているからだ。
だが、これが剛柔流の型となると、松涛館流の型よりももっと激しく、オリジナルの型から乖離しているのである。
詳しいことは、いずれ稿を改めて論じるが、剛柔流の型がそのように激しく古伝那覇手から乖離してしまったのは、一つには、剛柔流の流祖である宮城長順がかなり変形を加えたためでもあるが、もう一つの理由としては、宮城に剛柔流の型を伝授した人物が既にかなりの変形を加えていたからなのである。
剛柔流の型の伝承経路、即ち、誰が宮城長順に型を伝授したのか?という問題は、現在でも未だ解明されていない謎なのだが、私は答えを知っているし、有力な証拠もある。
この件についてはいずれ別稿で発表するつもりだが、とにかく、松涛館流以上に、特に剛柔流の型は、現行のままではまともな分解は発見出来ないのである。
ここでちょっとだけ例を挙げると、例えば剛柔流の「セイエンチン」の最後のあたりで、猫足立ちで上段にエンピ打ちという動作を後退しながら左右二回連続で行う場面があるが、その場面についていくら腕組みをして考えようとも、まともな分解は絶対に発見出来ないと断言出来る。
何故なら、それらの動作は相当に変形してしまっており、オリジナルの古伝那覇手の「セイエンチン」の動作からは大分異なってしまっているからだ。
いずれにせよ、那覇手については今まであまり触れてこなかったが、読者が驚愕するような情報も色々とあることなので、いずれこの「増補」の中でも取り上げていこうと考えている。
武術空手研究帳・増補(21) - 完 (記:平成三十年八月)