武術空手研究帳

武術空手研究帳・増補(20)- 空手の立ち方に関して(三戦立ちの特異性)

 [ 現代空手においては、他武道と比較して異常とも言える程に「立ち方」に関してうるさく指導されるが、それは本当に正しい指導法なのであろうか?

 また、那覇手の「三戦立ち」は、他の立ち方とは異なり、かなり「人工的」な立ち方なのだが、それはどうしてか?

 今回は、こうした点にスポットを当てて論述してみたい。]

形式と実質

 「武術の平安」の伝授を受けた方ならご存知のことだが、拙著「武術の平安」のテキストの中で、近代空手の「立ち方」について解説している箇所がある。即ち、「前傾前屈立ち」や「前傾後屈立ち」等について解説している部分なのだが、そこの記述では、それらの立ち方の「形式的」な解説はしているものの、「実質的」な解説は一切していないのである。

 ここに「形式的」とは、「骨格的」の意味であり、即ち「脚をどのような形にして立つのか」ということなのであり、「実質的」とは、「筋肉的」の意味であり、即ち「脚のどの部分にどのような力を入れて立つのか」ということなのである。

 つまり、私は、拙著「武術の平安」の中で、近代空手の立ち方における「骨格的」な解説はしたものの、「筋肉的」な解説は一切しなかった、ということなのだ。

 では、何故そのようにしたのか?

 それは、武術においては、本来、身体が「動いている」状態が正常だからであり、従って、型等における「動作」の解説を行えば十分、と考えたからに他ならない。

 つまり、練武型においては、その動作自体を詳細に解説し、勝負形(真の分解)においては、敵に対してどういう事をしているのかについて詳しく解説したわけで、それらさえしっかりと具体的に解説しておけば、あえて「立ち方」という瞬間的な状態をわざわざ取り上げて、それ自体をことさらに解説する必要を感じなかったからなのだ。

 いや、必要を感じなかったのではなく、ことさらに静止的な「立ち方」について解説すること自体、むしろ武術的には害悪ですらあると考えたのだ。

しっかりと居付く

 このように、静止した状態である「立ち方」の解説、特にその「力の入れ方」である「筋肉的」な解説を一切しない、ということは、現代空手に慣れた人にはいささか不安な気持ちを抱かせるかも知れない。

 というのは、現代空手では、主だった立ち方(前屈立ち、後屈立ち、騎馬立ち等)を解説・指導するに際しては、「骨格的」な解説のみならず、「筋肉的」な解説も十分に行うのが常だからだ。要するに、立ち方ごとに「脚のこの部分にこのような力を入れて立つ」などという説明を受けるわけである。

 しかし、結論から言うと、静止した立ち方において「筋肉的」な解説を行うということは、通常の場合、その「静止した状態を頑強に維持するための力の入れ方」を解説することになってしまうわけである。つまり、有体に言えば、これは「しっかりと居付く」ことを指導しているわけであり、従って、武術的に見て極めて悪しきことに他ならないのだ。

 だが、現代空手の指導者達にとっては、こうした静止した立ち方の「力の入れ方」に関する指導は極めて当たり前のことなのであり、それが悪しき指導法なのだという自覚は全くと言っていいほど無いのである。

 では何故、現代空手家はそのような武術的には大間違いのことをしてしまうのか?

 それは、「その場基本(特に手技)」なるもののせいなのだ。

 一定の場所に足を止めたままの状態で同一の腕の動作を延々と繰り返すこの「その場基本」という稽古法こそが、こうした「しっかりと居付く」こと即ち「見事に死に体になる」ことを良しとする発想を生み出してしまう、そもそもの元凶なのである。

極めて特異な立ち方

 さて、真っ当な武術空手であった古伝空手や近代空手には、そうした「その場基本」などという稽古法はそもそもなかったわけであり、個々の立ち方における「力の入れ方」にしても、型を行う中で(即ち、動いている中で)自然に身に付けさせたのであり、それで十分に足りたのである。

 また、各種の立ち方の「形式的(即ち、骨格的)」な側面にしても、近代空手の場合には、「倒木法(倒地法)」を活用するために足幅も広目で前傾姿勢を取ることから、ほんの少しだけ複雑な解説にはなるが、古伝空手(首里手及び泊手)にいたっては、歩幅を基準にした素朴かつ自然な立ち方であるナイファンチ立ちが全ての基準になるために、非常に簡潔な解説で済むわけである。

 以上を要するに、現代空手とは異なり古伝空手(首里手及び泊手)や近代空手では、各種の立ち方の「形式的」な解説はかなり簡単であり、「実質的」な側面にいたっては型の稽古と共に自然に習得するのが常だったのである。

 これに対し、古伝空手の中にも、唯一例外とも言える極めて特異な立ち方があったのだ。

 それが、古伝那覇手の「三戦立ち」なのである。

 つまり、古伝那覇手の「三戦立ち」という立ち方は、「静止」した状態で「形式」「実質」の両面からしっかりと解説をしなければ習得不可能な立ち方だったのだ。

人工的な立ち方

 ところで、立ち方の「形式面」についてだが、各種のスポーツを見ても、首里手の「ナイファンチ立ち」のような立ち方は、至る所で見ることが出来る。

 例えば、テニスやバレーボールで、相手からのサーブを待ち受ける時の立ち方は、ナイファンチ立ちに良く似ている。

 こうした事からも、ナイファンチ立ちというのはかなり「自然な」立ち方であることが分かると思う。

 これに対して、古伝那覇手の「三戦立ち」のような立ち方は、各種スポーツや日常生活の中でも、まず見かけることは無い。

 それ程、古伝那覇手の「三戦立ち」という立ち方は、かなり「奇妙」な立ち方なのである。

 では、何故このような、ある意味で「不自然」と言うか「人工的」とも言うべき立ち方が生み出されたのであろうか?

 「武術空手研究帳」をお読みの方なら既に答えはお分かりとは思うが、全ては「当破」のためだったのである。

 古伝那覇手の「三戦立ち」という立ち方は、中国武術的な姿勢でも「当破」を実行可能にするために考案された極めて特異な立ち方だったのだ。

 * ここで、古伝那覇手について、関係する事項を簡略に述べておこう。

 そもそも、古伝那覇手という体術は、古伝首里手を元に生まれたのである。

 現在の通説では、古伝那覇手は「南派」の「中国拳法」から生まれたことになっているようだが、それは完全にひっくり返った大間違いで、古伝那覇手は古伝首里手を元にして誕生したのであり、「南派」の「中国拳法」こそが古伝那覇手を元に生み出された拳法なのである。

 もう少し詳しく述べるならば、中国拳法の南派拳術には二種あり、その内の「長橋大馬」と呼ばれる諸門派こそが本来の中国拳法なのであり、「短橋狭馬」に分類される立ち方の足幅が狭い諸門派は、古伝那覇手の影響を強く受けて成立した中国拳法の諸門派なのだ。

 従って、中国拳法で門派の特色の説明に良く使われる「南船北馬」という言葉の「南船」についても、船上生活によって大股の立ち方が三戦立ちのような立ち方に変化したとする通説は牽強付会的な誤った説明なのであって、本来は、海外(琉球等)との交易・交流の意味に解するのが正しいのである。(そもそもから言って、揺れ動く船上生活によって身体の重心が「上がる」と考えるのは理に適わないのであり、海賊であった「倭寇」の刀術を記した本の挿絵を見ても、彼ら倭寇は足幅が広く重心が低い姿勢を取っていたのだ。)

 結局の所、古伝那覇手の「当破」に憧れた中国拳法家達が、何とか那覇手の技術を真似ようとして開発したのが「短橋狭馬」の中国拳法の南派拳術だったわけである。

 もっとも、糸洲安恒はいわゆる「糸洲十訓」の冒頭で「唐手は・・・支那より伝来したるもの」と述べているのだが、これはいわゆる「方便(ウソ)」なのであり、何故そのようなウソをついたのかについては拙著「武術の平安」を参照願いたいが、このウソのために、後世の空手研究者達が随分と無駄骨を折ることになってしまった。

 剛柔流流祖の宮城長順を始めとして、今までに何人かの研究者達が古伝那覇手のルーツを探して中国に足を運んだようだが、結局、ルーツの解明は出来なかった次第である。

 まぁ、当たり前の結果ではある。完全に逆立ちした見解を実証的に証明しようとしても、永遠に不可能だからだ。

 こうした自称研究者の方々も、もうそろそろいい加減に、自身が抱いている「前提」即ち「古伝那覇手は中国拳法から生まれた」という考えそのものがそもそも間違っていた、と気付くべきであろう。

古伝那覇手の「三戦立ち」

 先程述べたように、古伝那覇手の「三戦立ち」という立ち方は、中国武術的な姿勢でも「当破」を実行可能にするために考案された極めて特異な立ち方だったのである。

 本来、「当破」という技術は、極めて「日本的」な技術なのであって、日本武術の正しい姿勢を採用してさえいれば、呼吸法や立ち方等には特にこだわらなくても良いのだが、中国武術的な姿勢を採用してしまうと、特殊な呼吸法や立ち方が考案されないと実行不可能になってしまうのである。

 では、中国武術的な姿勢とは何か?

 それは「含胸抜背(がんきょうばっぱい)」「尾閭中正(びろちゅうせい)」の姿勢の事である。

 要するに、ザックリ言えば、「猫背」で「肛門をヘソの方に向けて上げる」姿勢なのだ。

 横から見ると、体が後方に凸の姿勢になるわけだ。

 これに対し、日本武術の姿勢はというと、上記とは正反対なのであって、「襷掛け」に「袴腰」こそが正しい姿勢なのである。

 「襷(たすき)」を掛ければ胸は前方に張るようになり、「袴(はかま)」をきちんとはけば尻は背中の方に向って上がるのだ。

 この姿勢を横から見ると、体が前方に凸の姿勢になるのである。

 因みにだが、私が生まれた昭和三十年代頃の東京では「出ッ尻、鳩胸(でっちり、はとむね)」という言葉があって、男の子の良い姿勢を意味したものだが、それがまさに「襷掛け」に「袴腰」の姿勢そのものを意味しているのが分かると思う。

 さて、古伝首里手(及び泊手)では、日本武術として当然に「襷掛け」に「袴腰」の姿勢を取っていたのであり、その「当破」もそうした姿勢を前提に開発された技術だったわけだが、古伝那覇手では中国武術の姿勢を採用していたために、古伝首里手の「当破」の技術が全く使えなかったのである。

 そこで、古伝那覇手の空手家達が懸命に工夫して編み出したのが「三戦立ち」だったわけだ。

 この立ち方を採ることで、中国拳法の姿勢でも何とか「当破」が実行可能になったのだ。

 その代わりに、幾つかの問題点が生じることになった。

 一つは、古伝首里手の「当破」より、エネルギーがずっと弱くなってしまったのである。

 しかし、この点は、逆に「貫手」を主武器とする方向で活路を見出したわけだ。(既述のように、古伝首里手では「当破」が強力すぎて「貫手」は使えなかったのだ。)

 もう一つは、「三戦立ち」と言う立ち方が非常に「人工的」な奇妙な立ち方になってしまった点だ。

 しかし、この点も、「三戦立ち」はあくまで「体(たい)の立ち方」即ち「鍛錬用の立ち方」なのであって、実戦に際しては変化させ得る、という技術上の工夫で乗り切ったのである。

 前者については、「武術空手研究帳」で既述のことなのでそちらを参照願いたいが、後者については、未だ未公開のことなので、以下に公開可能な範囲で詳述しておくことにしよう。

 * 古伝那覇手では中国武術的な姿勢が採用されたわけだが、この点からしても、古伝那覇手を創めたのは琉球の中でもおそらくはシナから渡来した人達であったのだろう。

 そうでなければ、わざわざ「当破」にとって好ましく無い中国武術的な姿勢をあえて採用した理由が考えられないからである。

 ところで、最近では、この中国武術的な姿勢こそが武術や健康の観点から見て最も正しい姿勢である、と主張する意見が日本のネット上などにも割とあるようだ。

 私は、日本人には日本武術的な姿勢こそが一番良い、と固く信じているが、まぁ、十人十色で色々な意見もあるようだ。

 ただ、上記のような中国武術的な姿勢を良い姿勢と主張する人達にしばしば見受けられる大間違いを、一点だけ指摘しておきたい。

 それは、過去の日本の武術家や武士の写真等を取り上げては「含胸抜背の姿勢を採っている」等と主張している点だ。

 はっきりと言っておくが、過去の日本の武術家や武士は(古伝那覇手の空手家は除く)、必ず日本武術の姿勢を採っていたのであって、彼らが取り上げている写真を見ても、私には完全に日本武術的な姿勢にしか見えないのだが、シナの文化の影響を強く受けた人達には、どうやら「含胸抜背の姿勢」に見えてしまうらしい。

 そう言えば、以前、ある武術雑誌でそうした「含胸抜背」「尾閭中正」の姿勢を採りながら二本の木刀をダラリと両手に下げて「これが宮本武蔵の構えだ」と主張している人がいたが、その人は武蔵の自画像を見てそう思ったのであろう。

 私が武蔵の自画像を見ても、日本武術の姿勢にしか見えないのだが、和服というのは姿勢が分かり難いのも事実なので、結局、シナ文化の影響を強く受けている人達には、猫背のような姿勢にしか見えないのであろう。

 もう一度言っておくが、日本の武術家は日本武術の姿勢を採っていたのである。

 極めて当たり前のことなのだが、この点、くれぐれも間違えないでいただきたい。

三戦立ちは鍛錬用の立ち方

 さて、前節の最後に記したように、「三戦立ち」は、非常に「人工的」な奇妙な立ち方ではあるが、あくまで「体(たい)の立ち方」即ち「鍛錬用の立ち方」なのであり、実戦に際しては変化させて使っていたのである。

 この点が、現代空手家諸氏には全く理解されていないのだ。

 では、何故理解されていないのか?

 まず、現代空手では、「立ち方」という総合的な名称の下で、個々の具体的な立ち方を指導・解説している。

 その結果、「三戦立ち」も、他の立ち方である「前屈立ち」や「後屈立ち」と同列に扱われることになってしまうわけである。

 つまり、実際に戦う時に使う立ち方である「前屈立ち」や「後屈立ち」と共に「三戦立ち」が登場するために、この「三戦立ち」もまた戦うための「用の立ち方」と誤解されてしまうわけだ。

 さらに、現代空手家の中には、そもそもの「体」と「用」の区別がつかない人が数多くいるために、「増補(11)」で解説したように、「三戦」型についても、それを「用の型」と誤解して、その「分解」を考えてしまう人々が大勢いるのである。

 そうすると、「三戦立ち」を採りながら敵と戦うということが、極めて当たり前の場景に思えてしまうわけだ。

 以上の事から、現代空手家にとっては、「三戦立ち」は当然の如くに戦う時に使う「用の立ち方」と考えられてしまっているのである。

 だが、少し考えれば分かるとおり、実戦で戦う際に、「三戦立ち」のような「不自然」で「人工的」な極めて歩きづらい立ち方を採用してしまうと、極めて不利になってしまうのであり、まぁ、マトモな武術家だったらそんなことは決してしないわけである。

 実際にも、現代空手の試合において、「三戦立ち」で戦う選手などは見たことがない。

 結局のところ、「三戦立ち」はあくまで「体の立ち方」即ち「鍛練用の立ち方」なのであり、実戦に際してはそれを変化させて使うのだが、秘事に関わることなので、これ以上の解説は省略させていただく。

 * 「三戦」型に登場する「運足」についてだが、現在では足で半円を描くように運足する方法が指導されているわけだが、古伝那覇手の時代にはどのような運足だったのだろうか?

 ある本で読んだところによると、現在の沖縄では、「古伝那覇手の時代でも、現在と同じ半円形の運足で指導していた」とするのが多数意見とのことであった。

 そして、その意見を正しいとする根拠として、「足で半円を描いて進めば、金的を隠しながら進むことが出来るから」とか、「こちらが足を前進させる時に、直線的な運足だと敵の前足とぶつかってしまうが、半円形の運足ならばぶつからないから」などの見解が述べられていた。

 しかし、「金的を隠しながら進める」とは言っても、それは半円形の運足の前半にすぎず、その後半では再び金的が現れてしまうのだが、その点はどう説明するのだろうか?

 また、「敵の前足とぶつかる」と言うが、戦いの最中に常時そのような状態になっているわけではないし、よって、敵の前足が邪魔にならない角度にこちらの体が位置しているのならば、こちらの運足も直線的である方がより速く移動出来て良いではないか?という反論が可能になるのである。

 このように、上記のような「半円形の運足」を武術的に正しいとする根拠は、マトモな根拠にはなっていないわけだ。

 それに、今までにも何度も述べてきた如くに、そもそも「三戦」型は「体の型」なのであって分解は無いのだから、この型の解釈に具体的な敵との戦闘を想定すること自体が大間違いなのである。

 結局のところ、以前「武術空手研究帳」や「増補(15)」で述べたように、この「半円形の運足」というのは、糸洲安恒が「体育の平安」において子供達のために考案した「体育的静歩行」なのであって、空手近代化の際に糸洲が東恩納寛量に指導した運足に他ならないのだ。

 つまり、「半円形の運足」というのは、古伝那覇手の時代には存在しなかった運足なのであり、古伝那覇手の時代の「三戦」型では、足は最短距離を直線的に動かしたのである。

三戦立ちの形式と実質

 さて、先述の如く、古伝那覇手の「三戦立ち」という立ち方は、「静止」した状態で「形式」「実質」の両面からしっかりと解説をしなければ習得不可能な立ち方だった、わけである。

 つまり、古伝空手の他の立ち方は、簡略に「形式的」な解説だけをしておけば十分に足りたのだが、「三戦立ち」だけは、「形式的」のみならず「実質的」な解説もしっかりとしておかなければ、弟子に伝えることが不可能な立ち方だったのだ。

 しかし、これはあくまで古伝那覇手に関してのことだったのであり、東恩納寛量が那覇手の近代化を行った際には、「三戦立ち」の「形式的」な面は残したが「実質的」な解説は失伝させてしまったのである。何故なら、もう「当破」は伝承させるつもりが無かったからだ。

 このことが現代空手にも大きく影響しているのである。

 本サイトの「プロフィール」をご覧になればお分かりのことと思うが、私が最初に学んだ現代空手は剛柔流であった。

 ご存知の通り、剛柔流の現代空手では「三戦立ち」を習う。

 当然、その際には、その「三戦立ち」の「形式的」のみならず「実質的」な立ち方を教わることになるのだが、その「実質的」な「脚の力の入れ方」がとにかく良く分からなかったのである。

 その後、剛柔流空手に関する本なども多数購入しては「三戦立ち」の研究をしたのだが、全ての本で(そう、「全て」である!)「三戦立ち」の際の「脚の力の入れ方」の解説が異なっていたのだ。

 これには非常に混乱したのを覚えている。

 もっとも、現在でも事情は全く変わっていないようで、「三戦立ち」の「実質的」な立ち方の解説は指導者ごとに異なっているようだ(「形式的」な解説は、まぁ、大体似たような解説にはなっているが)。

 結局、自分で考え得る限りのあらゆる力の入れ方を試してみたのだが、どれが正解なのか、皆目分からず仕舞いであった。

 以来数十年「三戦立ち」は私にとって「詳細不明」の立ち方だったわけだが、40歳代後半に「当破」を習得してからは事情が劇変した。

 つまり、那覇手の「当破」が分かった途端に、「三戦立ち」の「実質的」な「力の入れ方」があっさりと解明出来たのだ。

 その具体的な解説は控えさせていただくが、それは誠に「奇妙な力の入れ方」である、とだけは述べておこう。

 あまりにも「奇妙」であるが故に、この古伝那覇手の「三戦立ち」の「実質的」な「力の入れ方」を真に解明できる現代空手家は今後も一人も現れないと予言しておこう。(いずれにせよ、過去数十年にわたって見聞してきた数多くの「三戦立ち」の解説の中に、一つたりとも正解は無かったことが、その発見の困難さを如実に物語っていると言えよう、)

武術空手研究帳・増補(20) - 完 (記:平成二十九年六月)

(=> 増補(21)「ナイファンチ型に関する二つの情報」へ進む)

*** プロフィール ***

プロフィール

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 長谷川光政

 昭和33年(1958年)、東京生まれ。

 中学生(12歳)の時に剛柔流の空手を習ったのが、空手との最初の出会い。

 それ以来、首里手系の空手や、フルコン系、防具系の各流派等でも空手を学ぶ。

 しかし、いくら修行をしても、どうしても既存の空手に納得がいかず、最終的には自分一人での研究・修行を続けることとなった。

 それから十五年以上が経過した四十歳台後半に至って、遂に、失伝していた古伝空手の核心的技術である「当破(アティファ)」を発見することに成功。

 それ以降は、その発見をきっかけに、古伝空手の型に関する様々な謎も解明出来るようになった。

 また同時に、糸洲安恒の創始した近代空手の代表型である平安(やナイファンチ初段~三段)についても、その謎を解き明かすことに成功した。

 現在では、琉球の古伝棒術等の研究も一通り終了しており、新たな発見等については、漸次、この「武術空手研究帳」の「増補」等を通じて公開発表していく予定である。

 東京大学教育学部体育学健康教育学科卒。