武術空手研究帳

* 以下に掲載するのは、「月刊 空手道」(福昌堂) 2009年1月号~2010年2月号に連載された「武術空手研究帳」(但し、一部表現を追加・変更)である。

武術空手研究帳 - 第11回

 [ 現在、「平安」の型は、昇級審査のお飾りのような存在になっている流派も多いのではないか。

 これではまるで、重要文化財のお皿を、庭の隅で植木鉢の下に敷いているようなものだ。

 そこで再度、「平安」という「型」について、ここで詳しく述べてみたい。]

短期間に一定レベル

 古伝空手では、入門すると、まずは徹底した基礎訓練等を行なったのだが、近代空手は、こうした基礎訓練等を不要とする空手として生み出されたのである。

 何故なら、軍隊に入隊してくる様々な若者達を、例えば数年で、ある一定水準の強さを持った軍人に育て上げる目的で創られた空手なのであるから、古伝時代のように、入門後三~四年はナイファンチと鍛錬のみとか、「当破」が出来るようになるのにザッと十年以上は掛かるとかでは、あまりにも悠長な話になってしまうからだ。

 要するに、永い時間を掛けて優秀な武術家を育てるのではなく、短期間に一定レベルの強さを持った軍人を大量生産するのが目的であったわけだ。

 よって、「平安」を習得するに際しては、高度な武術的な身体操作技術などは全く不要なのであり、「誰でもすぐに技が習える空手」として設計されていることを、まずはしっかりと理解しておく必要がある。

(とすれば、「平安」は、現代空手家でも容易に習うことが可能な型と言えるわけだが、それは、近代空手も現代空手も、共に「大衆向けの空手」であることに着眼しての意見なのであって、両者の技術水準を比較すれば、近代空手は現代空手に比して、技術の細かさや複雑さの点で、数段レベルが高いのも、また事実なのである。)

 さて、糸洲安恒が「平安」を創るに際して行なった、もう一つのことは、古伝の型に含まれている超危険な業技を全て捨てた、ということである。

「平安」が軍隊用に設計されたのなら、そうした業技を残しても良かったのではないか、という意見も考えられるが、やはりそれは無理なのだ。

 というのは、そうした業技もまた、「当破」等の高度な技術を必要とするわけだから、残したくても残せなかったわけだ。

 さらに、軍隊に入っても通常は数年で除隊するわけで、そうした多くの人達が、超危険な業技を色々と知っているというのも、やはりマズイわけである。

 もちろん、「平安」の型、特に四段と五段の中には、実は、かなり危険な業技が含まれていることは事実である。

 しかし、これも、高度な身体操作法などを知らなくとも出来るように、糸洲安恒が創作した業技なのであり、また、危険度にしても、古伝空手のレベルで言えば、中伝クラスの型に含まれる業技の危険度くらいに調整してある(まぁ、それでもかなり危険であることには変わりはないのだが)。

 以上が、「平安」という型を創造するときに、糸洲安恒が古伝空手から捨てた基本的要素なのであるが、それ以外の要素については、たとえ些細なDNAであろうとも、糸洲はそれらを「平安」の中に残そうとしたわけである。

 ここで、もし、古伝空手の型の真の分解や、「平安」の真の分解を明らかにして、「この古伝の業技の原理が、平安のこの業技に生かされている」とかを具体的に示せば、読者も「なるほど」と納得がいくとは思うが、残念ながらそれは出来ない。

 古伝空手は公開できるものではないからだ。

 そこで、技術とは直接関係のないものを選んで、古伝のDNAがいかに「平安」に残っているかについて解説しておこう。

 それを理解するだけでも、糸洲安恒がいかに苦心して、少しでも古伝の要素を残そうとしたか、の一端くらいは理解してもらえると思うからだ。

 まず、古伝の型というのは、「敵は正面に一人」という設定で始まり、その一人と最後まで戦っていくのであるが、これはあくまで原則なのであって、よって例外があるのだ。

 つまり、古伝の型の中には、僅かだが、敵が合計二人登場してくる型があるのである。

 糸洲は、こうしたことさえも、「平安」シリーズの中に埋め込んでいるのである。

(ちなみに、先述したとおり、「平安二段」という型は「鍛錬型」なのであって、分解しても意味はなく、かつ、後述するような「平安」シリーズ特有の特徴というのを持っていない型なのである。

 従って、私が「平安」の「真の分解」について語るときは、「平安」の初段、三段、四段、五段の四つの型について述べていることを、了解しておいてもらいたい。)

「平安」シリーズは「敵は左方に一人」という設定で開始される型だが、分解に関係のある四つの型のうち、一つの型だけは、例外的に敵が合計二人登場してくるように創ってあるのだ。

 このようにして、糸洲は古伝のDNAを「平安」の中に保存したわけだ。

 まだある。

 古伝の型の中には、いわゆるシリーズものの型というのがある。

 例えば、ワンカン(王冠)・ワンシュウ(汪楫)等、ジッテ(十手)・ジオン(慈恩)等、ニーセーシー(二十四歩)・ウーセーシー(五十四歩)等である。

 そして、これらシリーズものの型を分解すると、そこに必ず「シリーズものに共通したある特徴」というのが浮かび上がってくるのである。

 具体的にどういう特徴なのかについては、シリーズごとに異なるのだが、とにかく、シリーズものの型を分解すれば、必ず、そのシリーズに固有の特徴というのが存在することが分かるのである。

空手は大人がやるもの

「平安」もまたシリーズものの型である。

 従って、糸洲安恒は、「平安」の四つの型それぞれの分解に、ある共通した特徴を埋め込んだのである。

 しかも、この共通した特徴というのは、また別の意味をも持つように設計されているのだ(糸洲安恒という人は、本当に頭が良かったのだ)。

 ここでちょっと、古伝時代にタイム・スリップしてみよう。

 まず、古伝の時代に、空手の先生に入門するということは、現代人の想像をはるかに超えて、それは厳しいものだったのである。

 余談であるが、私が初めて空手道場の門を叩いたのは十二歳のときだが、最初の道場では入門を断られてしまったのだ。

 理由は単純で、「空手は大人がやるものだ。せめて高校を卒業してからまた来なさい」と言われたのである。

 時代は変わり、それから「空手ブーム」が起き、空手は完全に大衆化した。

 現在では、例えば春になると、私の地元の広告新聞などには、

「○○空手道場。春の入会キャンペーン中。今なら入会金タダ。幼稚園児や小学生のみなさん、いらっしゃ~い」と書いてある。

 とにかく時代が違うのだ・・・

 過去数十年程度でも、これだけの違いがある。

 だから、今から百何十年以上も前の古伝空手の時代について考えるときには、絶対に現代人の感覚でストレートに想像してはならないのである。

 というわけで、とにかく古伝空手の時代は入門するだけでも大変だったのである。

 しかも、入門できたら、後は何でも教えてくれたというわけではない。

 人物チェックはまだまだ続いたのである。

 古伝空手の世界というのは、現代からは信じられないくらいの「秘密主義」だったのである。

 だから、初伝、中伝段階の弟子は、先生から常にチェックを受けていたはずなのである。

 例えば、入門はさせたものの、意外に粗暴なところがあるとか、普段は良いが、酒を飲んだらトラに変身するとか、あるいは、酒を飲んでも穏やかなのだが、口が軽くなって秘密をペラペラ喋るとか、まぁ、こういう弟子は、中伝段階までに体よく追っ払われたはずなのである。

 自分の同門の先輩か後輩で、やはりドロップアウトした人のところなどへ、紹介状でも持たせて追っ払ったに違いないのである。

 さて、世の中には色々な人がいるが、上記のごとく追っ払われた人の中で、例えば、先生亡き後、同門や別の系統の空手家を訪ねて「私は○○先生から、●●を習っている」などとハッタリを言って、色々と「秘密」を聞き出そうとする輩もいたに違いない。

 そうしたとき、例えば本土の剣術流儀とかであれば、何らかの書面があったはずである。

 例えば「何々流 免許皆伝」だとかの書面のことである。

(もっとも、柳生十兵衛が書き残しているように、こうした免許にも、本物と、金であげるものと、大名とかに今の名誉段のように授けるのと、三種類あったそうだが、とにかく何らかの書面はあったわけである。)

 これに対して、秘密の武術であった古伝の空手の世界には、そういう書面等はなかったはずである。

 では、こういう時にはどうしたのかというと、ちゃんとハッタリを見抜けるように、様々な工夫がなされていたのである。

 ここでは詳細は省くが、これが古伝空手の世界だったわけである。

 さて、後述するように、糸洲安恒は、「平安」の「真の分解」についてもかなりの秘密主義だったと思われるのだが、それを裏書するかのように、糸洲は、こういうハッタリ屋等から「真の分解」を守るために、しっかりと工夫を施してあったのだ。

 本当に、深謀遠慮の人だったのである。

 その工夫こそが、まさに、先述した、「平安」の四つの型それぞれの分解に埋め込まれた「ある共通した特徴」なのである。

 従って、今、本稿をお読みの方で、「自分は平安の本当の分解を知っている」と思っている人がいるならば、是非、その「共通した特徴」を言ってもらいたい。

 この「共通した特徴」というのは、言葉で言えば「何々は何々」程度の簡単な表現で言うことができる特徴なのだ。

古伝のDNAはたくさんある

 次の古伝のDNAに移ろう。

 実は、「平安」のそれぞれの型には、古伝の型が、一種の「モチーフ」として、それぞれに対応しているのである。

 つまり、「平安」何段は、古伝の何々型をモチーフにしている、という関係があるのだ。

 そして、そういうこともしっかりと見抜くことができないと、「平安」の「真の分解」に到達することは不可能なのである。

 一例を挙げよう。

「平安」五段の最後の方に、跳躍を行うところがある。

 松涛館流に残る「平安」五段では、その跳躍が終わって着地した次の動作は、演武線後方に向って「右中段双手受け」となっている。

 実は、この動作は間違いではないのだが、これは初期の「平安」には入っていたが、その後、糸洲安恒によって削除された動作なのである。

 松涛館流の「平安」は、もちろん船越義珍が伝えた型だから、やはり「平安」完成後の初期の型だったはずである。

 だからこの動作が入っていたのだが、もっと後の「平安」を示す資料からは、この動作が消えているのだ。

 しかし、こういう型の手順の変化を見ても、古伝の型を熟知していないと、後年誰かが行なった変形なのか、それとも糸洲安恒自身が行なった改変なのかが、判別できないわけだ。

 先述したとおり、「平安」の型にはそれぞれモチーフになった古伝の型があり、平安五段にも、もちろん、そういう型が存在しているのである。

 そして、その平安五段のモチーフになった型が分かれば、この演武線後方に向っての「右中段双手受け」の本来の意味も分かってくるのである。

 古伝空手のDNAを、少しでも多く「平安」に残したかった糸洲安恒としては、かなりの「こだわり」を持ってこの「右中段双手受け」の動作を入れたのだが、ある理由から、後年これを削除することにしたのだ。

( * 上記の「右中段双手受け」が削除されたいきさつ等については、拙著「武術の平安」の「平安五段 - 真の分解(勝負形)」の章の最後の注で非常に詳しく解説してある。興味のある方はそちらを参照願いたい。)

 次の古伝のDNAとしては、以前に私が述べたことを思い出していただきたい。

 古伝の首里手(および泊手)の型というのは、「当破」が分からなければ絶対に分解できないように創られている、ということだ。

 つまり、門外の者はもちろんのこと、たとえ弟子であっても、中伝以下の者には型の真の意味は分からないようになっていたのである。

 このことも、また、糸洲安恒は「平安」の中に残したのである。

 つまり、「平安」の分解においても、「当破」に代わる、「倒木法(倒地法)」に基づく技術というものを理解していないと、正しい分解ができないようになっている、ということだ。

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*** プロフィール ***

プロフィール

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 長谷川光政

 昭和33年(1958年)、東京生まれ。

 中学生(12歳)の時に剛柔流の空手を習ったのが、空手との最初の出会い。

 それ以来、首里手系の空手や、フルコン系、防具系の各流派等でも空手を学ぶ。

 しかし、いくら修行をしても、どうしても既存の空手に納得がいかず、最終的には自分一人での研究・修行を続けることとなった。

 それから十五年以上が経過した四十歳台後半に至って、遂に、失伝していた古伝空手の核心的技術である「当破(アティファ)」を発見することに成功。

 それ以降は、その発見をきっかけに、古伝空手の型に関する様々な謎も解明出来るようになった。

 また同時に、糸洲安恒の創始した近代空手の代表型である平安(やナイファンチ初段~三段)についても、その謎を解き明かすことに成功した。

 現在では、琉球の古伝棒術等の研究も一通り終了しており、新たな発見等については、漸次、この「武術空手研究帳」の「増補」等を通じて公開発表していく予定である。

 東京大学教育学部体育学健康教育学科卒。