* 以下に掲載するのは、「月刊 空手道」(福昌堂) 2009年1月号~2010年2月号に連載された「武術空手研究帳」(但し、一部表現を追加・変更)である。
武術空手研究帳 - 第13回(最終回)
[ 近代武術空手の傑作型である「平安」の真骨頂とは一体何か?
武術空手研究帳、遂に最終回!]
ある意味で秘中の秘
糸洲安恒の弟子は、二つのグループに分かれるのであった。
そして糸洲は、この二つのグループをかなり厳格に区別していた、と私は考えている。
先述したとおり、古伝の時代の入門は、かなり条件が厳しかったのだが、奥伝段階まで辿り着いた弟子であれば、今度は一転して、師も弟子に対して相当な信頼を置いたはずである。
例えば、口の堅さの点などでも、奥伝段階に達した弟子ならば大丈夫と考えたはずである。
よって、古伝空手を熟知していた弟子達に対しては、糸洲も、問われれば、「平安」の秘密についてもほとんどオープンで話していたと思う。
特に、屋部憲通や花城長茂らは、一緒に平安シリーズを創った弟子と思われるのであるから、尚更のことであったろう。
それに、業技の危険度の点から言っても、「当破」も習得し、かつ、超危険な古伝の型の分解を色々と知っている弟子達に対して、あれこれ隠しても意味がなかったわけだ。
これに対し、近代空手のみを習っている弟子達に対しては、糸洲は簡単には「平安」の秘密は話していなかったと思われる。
現代と比べれば、当時、糸洲安恒の道場に入門するのも、決して簡単だったとは言えないと思うが、糸洲からすれば、古伝時代に比べれば、相当に門戸を広く開放したつもりであったろう。
さて、糸洲安恒は、「平安」の「真の分解」についても、かなりの秘密主義であったと思う。
その最大の理由は、「真の分解」が洩れてしまったら、基本的に先生が不要になってしまうからだ。
そもそも、糸洲が弟子をとり、空手の近代化を推進した大きな理由の一つは、当時の旧士族の生活の問題等もあったと推量する。
東京でさえ、武術家とか元サムライなどは、全く肩身の狭い状態だったわけで、このことは、榊原健吉の撃剣興行などを考えればおよそ見当が付こうというものだ。
糸洲としては、学校や軍隊で、弟子達が空手の先生として活躍できることを望んでいたと思うのである。
そうであってみれば、「平安」の「真の分解」などは、ある意味で秘中の秘だったということになろう。
よって、糸洲は、近代空手のみを習っている弟子に対しては、よっぽど気に入ったとして、平安初段の分解(の一部)くらいを教えたのが精々だったかもしれないのである。
少なくとも、危険度の高い平安四段・五段の分解は、決して教えていなかったと思う。
それらの分解は、「平安」が正式に軍隊に採用されることが決定してから、最初に先生として派遣する弟子を選別して、そこで初めて教える予定だったかもしれない。
私は以前、古伝空手はもうとっくに失伝しているであろうが、「平安」の分解に関しては、どこかに正しい分解を伝承しているところが、まだ存在していてもおかしくはない、と考えていたのだ。
しかし、平安四段・五段が軍隊用に創られた型と分かってからは、少なくとも平安四段・五段に関しては、分解の伝承自体が、ほとんど行なわれなかったかもしれない、とまで思うようになったのである。
糸洲安恒は、おそらく屋部憲通や花城長茂等にこう言い残したのではないだろうか。
「わしが死んだ後、もし、平安が軍隊で採用される見込みがもう無い、と判断されたら、少なくとも平安四段・五段の分解は、古伝の空手と共に墓場まで持っていけ」と。
現代の女々しい男なら(失礼)、折角、苦労して創った分解なのだから、自分の名前と共に、何とか後世に残して欲しい、と思うところであろうが、糸洲安恒は違ったと思うのである。
糸洲は昔の武人なのだ。折角創ろうが何だろうが、世の中の役に立たないものならば、男は黙って墓場に持っていく、という考えの人だったと思うのである。
というわけで、現在の私見としては、「平安」の「真の分解」は、ほとんど伝承されなかったのではないか、と考えているのである。
実は、「平安」の「真の分解」が伝承されているかどうかは、現在に残る「平安」の型を見れば簡単に分かることなのである。
と言うのは、型というものは、「真の分解」が伝承されていれば、絶対に変形しないものだからだ。
なぜなら、「真の分解」が分かっていれば、それぞれの動作ごとに、敵が今どういう状態になっており、かつ、その敵に対して自分が一体何をしているのか、がちゃんと分かっているからである。
だからこそ、古伝空手の時代には、型が変形することなく正しく伝承されていたわけで、「真の分解」の伝承が途絶えてしまった明治以降では、型がどんどん変形してしまったわけなのである。
この観点から、私も色々な流派・団体の「平安」を調べてみた。
もちろん全てを調べたわけではないが、少なくとも私が調べた限りでは、オリジナルの変形していない「平安」を行なっているところは、残念ながら一つも無かったのである。
結局のところ、古伝空手と同様に、近代空手もまた、実質的には失伝してしまった、と言えるようだ。
ナイファンチの改変から着手
次に、糸洲安恒がどのように近代空手を生み出していったのか、その研究の大枠での順序ということについて論じてみよう。
断っておくが、私は、ここで、細かな空手史的な観点から糸洲の研究過程を見ようとしているのではない。
実際のところ、そういう資料は私の手元にはそれほどないのである。
私がここで述べたいのは、あくまで、糸洲安恒が近代空手を創り上げていった、その「論理的」なプロセスについてなのである。
まず糸洲安恒という人は、非常に緻密な頭脳の持ち主であり、かつまた、科学的にものを考える人なのであった。
だから、最初から根本的なところに焦点を当てて考えていったわけであり、そもそもの原理に立ち返って近代空手を創始しようとしたのである。
従って、糸洲はまず、古伝のナイファンチを近代空手のナイファンチ初段(松濤館流では鉄騎初段にあたる)に改変することから着手したのである。
それが、どれほど抜本的な変形・変質であったかについては、既に述べたとおりである。
次に、この近代的なナイファンチ初段から近代空手が創り出せないかと考えて、試みに創った型が、ナイファンチの二段と三段(松濤館流では鉄騎二段と三段)なのである。
しかし、糸洲はこの時点で、この方向での研究の進め方には問題がある、と悟ったのである。
やはりナイファンチという型は、あくまで古伝の首里手でこそ原理型であり得たが、近代空手全般を、近代的なナイファンチ初段から生み出すのはとても無理と判断したわけだ。
有り体に言えば、やはり「カニの横歩き」を繰り返すナイファンチ系統の型では、動作に制約が多すぎて、一般的な「用の型(実用・実戦の型)」を創り出すのは困難だったのである。
そこで、糸洲は、百八十度方向を転換したのである。
つまり、古伝の「体の型(鍛錬型)」であるナイファンチからスタートするのではなく、古伝の「用の型」から、近代空手の「用の型」を創ることにしたわけだ。
こうして、古伝の代表型から、「平安」の初段、三段、四段、五段の四つの型が誕生したのである。
これら四つの、近代空手の「用の型」を創り上げてから、最後に糸洲は、平安二段という、近代空手の「体の型」を創ったのである。
以上が、近代空手の傑作型である「平安」シリーズが誕生するまでの、糸洲の研究過程の概要なのである。
自分のパッサイを創る頃
糸洲安恒は、「平安」以外にも、各種の「小」系統の型を創っている。例えば、「パッサイ小」などである。
ところで、これら「小」系統の型に、糸洲の名前を冠して呼ぶ場合がある。
上記の例で言えば、「パッサイ小」を「糸洲のパッサイ」と呼んだりするわけだ。
しかし、糸洲自身は、こういう呼び名を嫌ったはずだ。だからこそ、これらの自分が創った型に「小」のネーミングを施したのである。
では何故、糸洲安恒は、「糸洲のパッサイ」と名づけずに「パッサイ小」という名称の付け方をしたのか?
それは、当然のことだが、糸洲安恒は、古伝時代の「誰々のパッサイ」などの意味をちゃんと知っていたからだ。
読者もご存知のとおり、古伝時代には数多くの「誰々のパッサイ」とか「誰々のクーシャンクー」とかがあったのである。
では、何故、このような「誰々のパッサイ」というような型が数多く存在していたのであろうか?
結論から言おう。
これら「誰々のパッサイ」とか「誰々のクーシャンクー」とかは、現在の例えで言うならば、一種の「卒業論文」だったのである。
奥伝段階に入り、「当破」等を習得し、また、いくつかの型を身につけた後、頃合を見計らって先生は次のように、その弟子に言ったはずである。
「お前も、そろそろ、自分のパッサイを創る頃だな」と。
それから、その弟子は、自分の得意技や工夫を入れた、自分自身のパッサイを創ったわけなのである。
そして、先生に観てもらう。
先生から二、三の質問等があったかも知れないが、「よし、合格だ」となれば、これでとりあえず一人前となったのである。
おそらく、同門の先輩等を集めての、その自分のパッサイのお披露目式などもあったかもしれない(もちろん、その後は、泡盛を飲んでの宴会だったと思う)。
このようにして「誰々のパッサイ」とかは、誕生したのである。
今風に例えれば、「誰々のパッサイ」は大学卒業の「学士論文」であり、「誰々のクーシャンクー」は大学院卒業の「博士論文」といったところであろうか。
もちろん、その他の型でも良いのだが、やはり、この二つの型が一種の定番であったろうと思う。
古伝時代の「誰々のパッサイ」等というのには、以上の意味があったのである。
従って、糸洲安恒は、自分の創った「パッサイ」などに、「糸洲のパッサイ」とかの名前は付けなかったのであり、古伝系の型を「大」、自分の創った型を「小」と呼んで区別する方式を採用したのである。
何故なら、糸洲が「小」系統の型を創るときに古伝系の型に対して行なったのは、「近代化」なのであって、決して昔のように自分自身の型を創ったわけではなかったからなのである。
では、糸洲の創ったこれら「小」系統の型は、どのように評価されるべきであろうか。
私見としては、「平安」ほどは評価できない、というのが本音のところだ。
実は、これら「小」系統の型というのは、まず分解に関しては、実質的には近代化の作業がなされてはいないのである。
結局、これら「小」系統の型は、表面的な「練武型」それ自体の動きの修正しかしていないと言ってよい。
分かりやすく言えば、近代空手家にとって、より動きやすい動作に変えただけと言っても過言ではないのである。
しかし、これをもって糸洲安恒を責めるわけにはいかない。
はっきり言うが、糸洲もその頃は、相当の年齢だったのである。
私がここで年齢を持ち出したのは、当時、糸洲が年を取っていて能力が衰えていた、という意味ではない。
そうではなく、人生の残りの時間を考えたときに、時間的にもうとても無理だったろう、と言う意味なのである。
何故なら、古伝型一つを、分解まで含めて完全に近代化するには、それだけで、「平安」シリーズ一個分を創るくらいの、時間と労力を必要とする作業だったわけで、古伝型といっても代表的なものでもかなりの数があったのだから、どう考えても、その頃の糸洲にはもう無理な作業だったと思う。
ましてや、「平安」シリーズの凝り様を見れば分かるとおり、糸洲安恒という人はかなりの完璧主義者だったのであるから、尚更、無理であったと思うのである。
結局のところ、以上の諸点からも、やはり近代空手の「傑作」と呼ぶべき型は、「平安」をおいて他にはない、というのが私の偽らざる評価なのである。
広大無辺の世界が広がる
古伝空手というのは、やはり大衆向けの空手ではない。技術的にも細かく複雑だし、また、業技も危険すぎるからだ。
さらに、私も古伝空手家の端くれである。やはり秘密主義なのだ。
世が世なら、例えば「当破」などは、その存在すら秘匿すべきことだったはずなのだ。
よって、本稿では、古伝空手については最小限のことしか書けなかったことを、ご理解いただきたい。
代わりに、近代空手の「傑作型」である「平安」については、もっと突っ込んだ記述をしておいたつもりである。
「平安」ならば、現代空手と同様な大衆向けの空手なのであるから、読者の多くにとっても、より親しみやすいと考えたからである。
私自身は古伝の空手を研究・修行しているので、「平安」の「練武型」自体は行なわないが、「平安」の「真の分解」は、古伝風にアレンジして個人的に稽古している。
というのは、古伝型に出てくる業技の多くはあまりにも危険すぎて、現代社会ではまず使えないようなものばかりだからだ。
この点でも、やはり「平安」の方が現実的なのである。
さて、本文中でも少し触れておいたが、古伝の型や「平安」は、その「真の分解」を知れば、実に広大無辺の世界が広がるように設計されているのである。
すなわち、応用自在・融通無碍の境地とでも形容できる世界に到達し得る道が開かれているのだ。
よって、「平安」シリーズという一見シンプルな五つの型でも、実はこれだけで、一つの「独立」した武術を形成していると言っても過言ではないのである。
そのくらいの奥深さを有している型なのだ。
そして、このことには、古伝剣術の用語で言う「砕き」という稽古法が関係してくるのである。
この「砕き」を行なうことで、上記の応用自在の世界が開けて来るように、「平安」という型は設計され創られているのだ。
古伝の、特に首里手の空手家達は、本文中に記したとおり、古伝剣術の素養は当然に持っていたわけであるから、こうした「砕き」と言う稽古法も、当時では当然の常識だったのである。
この点で、今までに公開されたような分解だと、残念ながら、全く「砕く」ことが出来ないのだが、糸洲安恒が創った本物の「真の分解」は、まさに自由自在に「砕く」ことが出来るのである。
従って、この「砕き」の世界こそが、「平安」シリーズという型の真骨頂なのであり、これを理解せずしては、真に「平安」が分かったことにはならないわけであり、また、糸洲安恒の真の偉大さを知ることも出来ないのである。
(もうお分かりと思うが、現代の常識では、型から様々な分解を見つけることが正しいことなのだと思われているが、そうではないのである。
型からは「真の分解」が導かれるのみなのであり、その上で、その「真の分解」を「砕いて」いくのが、本当の型による修行なのである。
基本的な「砕き」から始まり、どんどん細かく「砕いて」いくのである。
そうすることで、上記の応用自在の境地に到達できるのであり、それこそが「型をものにする」ということなのである。
よって、型を知っているだけでは不十分なのであり、合せて、その「真の分解」も教わらなければ、本当の意味で武術としての型の伝授を受けたことにはならないのである。)
終わりに
私も今までに、古伝型や平安の「分解」と称するものは色々と見てきたが、まず古伝型に関しては、業技レベルで今まで一つも正解と言える分解に出会ったことはない。
では、「平安」の分解に関してはどうか?
残念ながら、こちらもお寒い状況で、業技レベルで一応正解というのは、今までたった一つしか見ていない。それも、僅かに数挙動という非常に短い業技なのだ。
やはり、「真の分解」に到達するというのは、想像以上の難事なのである。
しかし、「武術」的な空手に興味・関心のある人達にとっては、「平安」の「真の分解」や「砕き」等を知ることこそが、最も現実的な解決策と言えよう。
そこで、時期や方法等については未定だが、いずれ機会があれば、真剣に学びたいという人達に対しては、「平安」の「真の分解」や「砕き」等について、しっかりとした解説を公開・伝授するつもりだ。(*「武術の平安」の公開・伝授は、開始されました。詳しくは、こちらをクリックして下さい。)
何しろ百年近くの間、闇に埋もれていた「平安」の「秘密」なのであり、今までに見たこともないような技が色々と登場してくるのであるから、私としては、これを公開したら(決してオーバーではなく)「空手界に衝撃が走る」と思っている。
さらに言えば、この公開によって、空手家は初めて「空手独自の取手技」を手に入れることになるのだ。
現代空手は、本来、打突技のみの武道であるため、今までは「これが空手の取手技だ」と言えるものが無かったわけだ。
しかし、「平安」の「真の分解」に登場してくる各種の取手技は、拳聖と称された糸洲安恒が古伝を踏まえて創った取手技なのであるから、公開後は、堂々と胸を張って「これこそが空手の取手技だ」と言えるようになるわけである。
では、最後になるが、私が十代後半に出会って以来、常に心に刻んできた言葉を紹介して、本稿を終えることとしたい。
”妄りに人の師となるべからず。また、妄りに人を師とすべからず。
必ず真に教うべきことありて師となり、真に学ぶべきことありて師とすべし (吉田松陰)”