* 以下に掲載するのは、「月刊 空手道」(福昌堂) 2009年1月号~2010年2月号に連載された「武術空手研究帳」(但し、一部表現を追加・変更)である。
武術空手研究帳 - 第7回
[ 現代空手について論じる第二回目の今回は、まさにその誕生の秘密に切り込むことになる。
現代空手は如何にして生まれたのか、その核心に迫ってみよう。]
平安二段を平安初段にした
船越義珍は、当初は型中心の指導をしていたのであるが、弟子達はこれに大分不満があったようである。
何しろ、意味(分解)不明のまま、ただ型ばかりをやらされていても、まるで踊りの稽古でもしているかのような気分になってしまうからだ。
これが、沖縄で小学生を指導している場合ならば、だまって言われたとおりに型の練習を続けたろうが、本土で船越が指導したのは、大学生達なのだ。
当時は大学の数も少なく、「学士様なら嫁にやろう」と言われたくらいのエリ-ト達である。
おまけに、血気盛んな年頃でもあった。
踊りではなく、もっとちゃんと意味の分かる練習をしたかったのであり、かつ、柔道や剣道のように、試合もしたかったのだ。
そこで、船越も仕方なく、とりあえず「基本体系」なるものを作成することになったわけである。
もちろん、船越としては、試合までをも視野に入れた本格的な体系などは、全く考えていなかったわけで、このことは、船越は最後まで試合を行なうことには反対していたことを見ても分かる。
船越としては、とりあえず何らかの体系を作ってやることで、弟子達が気持ちを落ち着けてくれれば、最終的には、また型の稽古に励んでくれる、と望んでいたのであろう。
さて、その「基本体系」であるが、もちろん、ゼロから創るわけもなく、当然のごとくに型から基本を創ろうとした。
しかし、古伝系の型から創るわけにはいかず、結局、「平安」から創ろうとしたのであるが、その段になって、船越の目には、平安二段(現松涛館流平安初段。なお、以下では、オリジナルの呼称で統一することにする)が独特な意味を持つことに気が付いたのである。
首里手系の空手を修行された方ならば、まず、平安二段は経験していると思う。
では、平安二段とはどういう型であろうか?
一言で言って、この型は「やさしい」型である。船越もそう感じたに違いない。
実際、この型は、平安シリーズの他の四つの型とは大分赴きが異なるのであり、後述するように、それにはちゃんとした理由があるのだが、とにかく、この型は「やさしい」型であることは確かである。
そこで、船越は「この型は、糸洲先生が、今後の基本技を示すために創ったのでは」と考えたわけなのである。
何故、そのように断言できるのか、というと、船越義珍は、この平安二段を平安初段にしてしまったからだ。
船越も古伝空手を習得した武人であり、平安型のように、段をもって構成されている型にあっては、初段の型こそ「入門にして奥義」の型であるべきだ、との考えくらいちゃんと持っていたはずである。
従って、平安二段を平安初段にしたということは、まさに、「平安二段こそが、これからの入門にして奥義の型に他ならない」と考えたことを意味していることになるからだ。
こうなれば、あとは簡単である。
この平安二段から、「基本体系」が誕生することになったわけである。
まず、基本技として、「正拳中段突き」、「上段揚げ受け」、「下段払い」、「手刀受け」が選ばれた。全て、平安二段の中にある技そのものである。
そして、平安の他の型の中から「内受け」を取り出し、後は「前蹴り」や「横蹴り」等を付け加えれば、(その場)基本技の完成である。
さらに、平安二段の中にある前屈立ちでの前進の運足を利用して「移動基本」が創られた。
最後は、この移動基本の方式で攻めてくる敵に対して、後ろへ下がりながら行なう「約束組手」を創って、とりあえず「基本体系」は完成となったのである。
ちなみに、現代空手家の中で、「型の中では、平安二段が一番重要である」という意見を言う人がいるが、これは上記の経緯を見れば明らかなごとく、「現代空手」は「平安二段」から生まれたのだから、至極当然のことなのである。
順体歩行一色である
以上が「現代空手」の誕生の経緯なのであるが、ここに「現代空手」の喜劇というか悲劇があるのだ。
色々言いたいことはあるのだが、ここでは「受け技」について見てみることにしよう。
昔、私が現代空手をやっていた頃のことだが、武術の空手を追及していた私としては、「受け技」も重要だと思っていたので、かなり熱心に練習したのを覚えている。
日記等を付けるほどマメではなかったので、一体、合計で何本くらい稽古したか正確には分からないが、大雑把に計算して、楽に数十万本以上の回数はそれぞれの「受け技」を稽古したと思う。
さて、そこまで稽古したにも関わらず、自由組手や試合で「内受け」などは使えた試しがなく、これは「手刀受け」でも全く同じことだった。とにかく一回も使えた記憶がないのである。
「下段払い」にしても、一度耳の近くまで拳を持ってきてから払ったのでは間に合わないのであって、通常は「下段落とし受け」風に受けていたのだ。
「上段揚げ受け」だけは、一つ思い出がある。たった一度だが、この受け技を自由組手の中で使うことが出来たのである。
その組手の後に、先輩達に言われたものである。
「俺も今まで、随分と試合や自由組手を見てきたが、上段揚げ受けで実際に受けるところを見たのは、今日が初めてだ」と。
うれしかったことは確かだが、後にも先にも、この時一回しか使うことが出来なかったのは、紛れもない事実なのである。
読者の皆さんは、どうお考えだろうか?
「うん、うん、その通り」というような声が、私には聞こえる気がするのであるが、いかがであろうか。
確かに、考えてみれば、これらの「受け技」というのは、まことに変なのである。
まず「上段揚げ受け」。人間の顔は、カニのように横長なのではなく縦長に出来ているのであるから、敵の突きを真下から真上の方向に受けるというのは、どう考えても不合理なのである。
特に、私が当時やっていた防具系の自由組手では、上段突きの場合、こちらのアゴを狙って間合い深く突っ込んでくるのであるから、それを真上に受けようとしても、運が良くても面の上の方には当たってしまうのである。
そんな受け方よりも、ちょっとナナメの方向に受ければ割と簡単なのだが、ひたすら基本通りにやっていたのだから、たった一回しか成功しなかったわけなのである。
他の「受け技」にしても変なわけである。何が変かと言うと、「現代空手」の「基本」としての「受け技」は、全部、「二挙動」の動作で出来ているからである。
確かに、「現代空手」の攻撃技は、武術的な意味での「一拍子」ではない。
しかし、それでも、攻撃技は明らかに「二挙動」の動作ではないのであって、その攻撃技を受けるのに「二挙動」の動作をもってする、というのは、どう考えても間に合わないわけである。
何故、こんなおかしな事になってしまったのであろうか?
その秘密を解き明かすには、もう一度、「現代空手」がまさにそこから生まれた、「平安二段」という型に戻って考えてみる必要があるのだ。
そもそも、糸洲安恒はどういう趣旨で、この「平安二段」という型を創ったのであろうか?
先に、平安二段は「やさしい」と述べた。
確かに「やさしい」のではあるが、では、その「やさしさ」は一体何が原因なのだろうか?
「基本技で構成されているからだ」というのでは、答えにならない。
今、ここで論じているのは、時間的に言うならば、「現代空手」が誕生する前の話なのだ。
よって、「基本技」という概念をここで持ち出してはマズイわけだ。
では、改めて問う。平安二段は何故「やさしい」のだろうか?
確かに、この型をやってみると「やさしく」感じるのは事実である。
さらに良く考えてみると、この型の「やさしさ」というのは、実は、ある種の「単調さ」がその原因であることが分かってくるのである。
もういいだろう、答えを言おう。
平安二段という型は、「順体歩行一色で出来ている」という、非常に珍しい型なのである。
この、「順体歩行一色で出来ている」という点こそが、平安二段を単調な型にしているのであり、それこそが、この型が「やさしい」と感じる真の原因なのである。
では、糸洲安恒は何故このような「順体歩行一色で出来ている」型を創ったのであろうか?
これも結論から言おう。糸洲安恒は、「倒木法(倒地法)」を原理とし、「前傾姿勢」をとることを強調する型を一つ創っておきたかったのだ。
当時の日本人は、普通は、号令のもとに集団で行動するという経験がなかった。
そこで、軍事教練の基礎の意味もあった学校体育では、こうした号令のもとでの集団行動の訓練もタップリと行われたわけなのだが、同時に、当時の日本人は「逆体歩行」があまり得意ではなかったのである。
そこで、学校体育の場でも、徹底した「逆体歩行」化が推進されたわけである。
何故なら、そういう歩き方が出来ないと、軍部があこがれていた外国の軍隊の軍事行進のような動きが出来なかったからである。
しかし、この「逆体歩行」化が進むと、結局、「腕力(うでぢから)で突き、脚力(あしぢから)で蹴る空手」になってしまいやすく、後は、腰を回すくらいがせいぜいの工夫ということになるわけだ。
これでは、「体の大きい外国人等と戦ったら、非常に不利になる」と糸洲安恒は考えたのである。
そこで、すでに「平安」(もちろん「武術の平安」のこと)の中には「倒木法(倒地法)」や「前傾姿勢」は織り込まれていたのではあるが、さらにそれを強調するために、この「平安二段」という型を創ったのである。
この「平安二段」という型は、実際に分解を試みても、ほとんど意味のあるような分解は生まれてこない型なのであって、糸洲安恒はこれを「鍛錬型」として創ったのは明らかなのだ。
沖縄県庁に提出した答申書(いわゆる「糸洲十訓」)の中に「体の型」「用の型」の区別が出てくるが、この「平安二段」は明らかに「体の型」として創られたのである。
これに対し、他の、平安初段、三段、四段、五段の四つの型は、明らかに「用の型」として創られている。
後に詳しく論ずることだが、「平安」シリーズの型には、分解するとたち現れてくる「共通した特徴」というのがあるのだが、この「平安二段」にだけは、その特徴がないのである。
この「共通した特徴」というのも、糸洲が残したかった古伝空手のDNAの一つなのであるが、「平安二段」にその特徴がない、ということは、糸洲はそもそも、この「平安二段」を、「平安」シリーズに入れるつもりはなかったことを示している。
つまり、糸洲は、「平安二段」には、「平安」ではない別の名称を付けたかったのだ。
では何故、この「平安二段」が、最終的には「平安」シリーズの中に入ったのかというと、糸洲としては別扱いにしたかったのであろうが、そうするには、また、沖縄県庁に書類等を提出しなければならなかったはずである。
もちろん、書類の提出自体はたいしたことではない。しかし、そうなると、何でこの型を創ったのか等の説明をしなければならないわけで、そうすると「順体歩行を強調するための型」と書かなければならず、そうなれば間違いなく却下されてしまったはずである。
何故なら、当時の学校体育では、「逆体歩行」化を強力に推し進めていたわけだから。
そこで、仕方なく、糸洲安恒はこの型を「平安」シリーズの一つとして紛れ込ますことにしたわけだが、では一体、何段に入れたら良いのか?
まず、初段はダメだ。
というのは、初段は「入門にして奥義」の型として、ちゃんと分解等も十分に考えて創っていたからだ。
実際、「平安初段」の分解の最初の業技(私は、一定の効果を現す一連の技の集合を、業技(ぎょうぎ)と呼んでいる)には、「平安」シリーズ全体の中に出てくる各種の業技の基本的要素が、しっかりと含まれているのである。
では、五段はどうか?
これもダメだ。というのは、やはり五段は「平安」シリーズの最上位の型として創られているのであり、後述するように、特に四段と五段は「軍隊用」に設計されていたことからも、「平安二段」を五段の位置に置くことは出来なかったのである。
こうして結局、シンプルな鍛錬型なのであるから、初段の次の二段のところに紛れ込ますことになったわけなのである。
結局、この「平安二段」という型は、鍛錬型であり、一種の原理型でもあるのであって、その意味で、メッセージ性の強い型でもあるわけだ。
( * 船越義珍は、糸洲安恒から「武術の平安」の「真の分解」等は習っていたが、平安二段については、あまり詳しい解説は受けていなかったはずだ。
というのは、上述のとおり、平安二段という型は「逆体歩行化」に反する型だったために、この型の採用に関しては、糸洲としても沖縄県庁(の教育課)を騙さねばならなかったわけで、そうしたことに弟子の船越を関与させたくはなかったはずだからだ。
この結果、これも上述のごとくに、船越は平安二段の本当の意義を誤解してしまったわけである。)
( ** 上述のごとくに解説すると、読者の中には、「平安二段は、古伝型の”チャンナン”から作られたはずだが・・・」などと思う人もいるかも知れない。
しかし、結論から言うと、「チャンナン」などという古伝型は存在しなかったのであり、「チャンナン」というのは、糸洲が「平安二段」に初期の頃に付けていた仮の名称だったのである。つまり、「平安二段」は、平安シリーズにまぎれこませる以前は、「チャンナン」と呼ばれていた、ということだ。
このことについては、拙著「武術の平安」の「コラム-2」の注で非常に詳しく解説してあるので、興味のある方はそちらを参照願いたい。)