* 以下に掲載するのは、「月刊 空手道」(福昌堂) 2009年1月号~2010年2月号に連載された「武術空手研究帳」(但し、一部表現を追加・変更)である。
武術空手研究帳 - 第12回
[ 前回に続き、さらに平安について論じていこう。
糸洲安恒の創始した近代空手の代表型である平安の、さらなる秘密に迫ってみたい。]
段階を追って厳しくなる
次の古伝のDNAだが、これはあえてDNAと言う必要もないくらい常識的なことでもあるのだが、糸洲安恒は「平安」を創るに際して、古伝の型習得の順序と同様に、「平安」初段から五段へと、段階を追って厳しくなるように設計してあるということだ。
例えば、「平安」型のそれぞれの「真の分解」の中には、カンマやピリオドとも形容すべき、業技の節目というのがあるのだが、初段から五段へと型が高度になるほどに、この節目の間隔が長くなるように設計されているのである。
私が昔、現代空手を習っているとき、型の最後まで「まばたき」をしないで一気に行なうとか、息を止めて型を最後までやるとかの練習をさせられたが、こうした練習を「平安」で行なう場合には、この節目を単位に行なえば、最初は易しく、段々と厳しくしていくことも出来るわけだ。
なお、現代では型演武に「気合」を掛けるのが当たり前になっているが、武術の空手であった古伝空手では、もちろん「気合」などは掛けなかったのである。
何故なら、武術とは本来「無声」であったからだ。さらに、夜陰に紛れて秘密裏に修行するのが古伝空手であったわけだから、「気合」など掛けるわけはなかったのである。
では、糸洲安恒が「平安」を指導していた頃は、どうしていたのであろうか。
推測だが、学校体育の授業などの集団訓練では、「気合」を掛けさせたかもしれないが、糸洲個人の道場で教えるときには、古伝の伝統を踏まえて、「気合」は掛けさせなかったことと思う。
現代では「気合」を掛けているわけだが、まぁ、それはそれでいいとしても、問題はそのタイミングである。
「平安」の「真の分解」が分かれば、全部とは言わないが、中にはとてもおかしなところで「気合」を掛けている場面があるのが分かるのである。
とにかく、現在「気合」を掛けているところが、必ずしも上記の「節目」に合致しているわけではない、ということは理解しておいてもらいたい。
さて、糸洲安恒が、「平安」の中に、色々と古伝空手のDNAを残そうとした点については、このくらいにしておくが、想像以上に苦心・工夫を重ねたという点くらいはご理解頂けたかと思う。
平安四段・五段についての考察
それでは今度は、平安四段・五段についての話をしよう。
私が「平安」の「真の分解」の解明を終えたとき、最初に気付いたのは、平安四段・五段に出てくる業技の危険度が、平安初段・三段のそれとは格段に違う、という点だった。
分解に挑む前には、漠然と、「日常護身術」的な業技が展開されるものと思っていた私としては、最初は正直言って驚いたのである。
しかし、いわゆる「糸洲十訓」の内容を思い出して、すぐに納得したわけだ。
糸洲は、「平安」が軍隊で採用されることを望んでいたのだから、これは当然のことだったのである。
平安四段・五段というのは、最初から軍隊用に設計された型だったのだ。
さて、その点が分かってくると、糸洲のさらなる工夫も見えてくることになった。
一つだけ例を挙げると、平安四段・五段の「真の分解」の中で、例えば、敵の頭部に打撃を加えるところがあるのだが、平安四段・五段が軍隊用の型であるのなら、想定されている敵というのも一般人ではなく、当然、敵兵なのである。
とすれば、例えばヘルメットをかぶっている場合もあるわけで、そういう敵の頭部に打撃を加えたら、こっちの方が痛いわけである。
そこで分解を詳細に検討してみると、ちゃんとこの辺のことも計算済みであることが分かったのである。
つまり、ヘルメットをかぶっている場合でも、かぶっていない場合でも、どちらのケースにも、ちゃんと対応できるように見事に設計されているのだ。
これには本当に驚いた。
この点で、例えば、平安五段の「真の分解」に登場する、ある「必殺技」などは、糸洲安恒が創った「平安」シリーズ中の技の中でも、「最高傑作」とも言える技なのである。
これは、敵が一般人であっても、もちろん強烈な威力を発揮する技なのだが、敵が兵士となると、さらに激烈な威力を発揮するように見事に創られているのである。
ちなみに、この「必殺技」クラスになると、もう、稽古仲間と二人で組んでの分解練習などは不可能になってくる。
やはり、古伝並みの危険度の技となってくると、もう、一人稽古をするより他に方法がないのである。
とにかく、糸洲安恒という人は、本当に賢い人だったのであり、「平安」という型はここまで工夫を凝らした型だったのである。
以上にとどまらず、まだまだ、色々な工夫が潜んでいるのであるが、これらの工夫こそが、例の「糸洲十訓」の中にある「口伝多し」という言葉の、その「口伝」にあたるわけである。
おそらく糸洲は、軍隊経験のある弟子の屋部憲通や花城長茂らと共に、この平安四段・五段等を創っていったと思われる。
特に屋部憲通は、後に日露戦争でも軍功をあげたくらいの剛の者だったし、糸洲と一緒になって、平安の開発に協力したものと考えられるのである。
ここで、少し細かいことだが、念のために述べておく。
先ほど、平安四段・五段は軍隊用の型、と簡単に記したが、それは、一般人には平安初段・三段のみを教え、軍隊では平安四段・五段のみを教える、という意味ではない。
平安四段・五段であっても、分解を教えずに、「練武型」を行なうだけなら、運動量も多いことであるし、学校体育にも最適だったわけである。
よって、学校でも練習していたことと思われる。(もちろん、本物の練武型(即ち「武術の平安」)ではなく、子供用に変形させた型(即ち「体育の平安」)を教えたのだが。)
他方、軍隊で「平安」が採用されたとすれば、もちろん、最初はやはり平安初段から稽古させる予定だったはずである。
実際、平安初段・三段の分解でも、仮想敵が兵士であっても、ちゃんと業技が掛けられるように創ってある。
以前、型を使ってどのように修行・上達していくのか、のところで少し触れたが、実は、臨機応変・応用自在の世界に入っていくためには、「平安」シリーズの全ての型を習得する必要があるのだ。
そういう意味でも、軍隊の場合にもやはり、「平安」シリーズの全部の型を習わせる予定だったはずなのである。
以上、細かいことだが、誤解を生じないように述べておいた次第である。
ナイファンチは古伝首里手の魂
ここで話が変わるが、糸洲安恒の弟子は、二つのグループに分かれるのである。
一つは、屋部憲通や花城長茂のような、古伝の空手を習得していた者達で、もう一つは、糸洲が門戸を広く開放した後に入門した、近代空手のみを習っていた者達である。
このように述べると、次のような意見をお持ちの方もいらっしゃるかもしれない。
糸洲安恒は、昼間の学校では近代空手を教えたが、夜の自宅の道場では古伝空手を教えていたという話があるが、それなら、近代空手だけを教わった弟子、というのはいないことになるはずだが、と。
しかし、結論から言って、その話は間違いである。そのようなことは、絶対にありえないことなのだ。
理由はいろいろある。
まず、糸洲が空手の近代化に際して真っ先に行なったのは、古伝のナイファンチを変形・変質させて、ナイファンチ初段(松濤館流では鉄騎初段にあたる)を創ったことなのである。
もし糸洲が、当時、近代空手と並行して古伝空手をも教える意志を持っていたならば、古伝のナイファンチを変形・変質させるわけがないのである。
何故なら、古伝のナイファンチは古伝首里手の魂であり、最も重要な原理型なのだから、この型に手を付けるはずがないのである。
実際、糸洲が古伝のナイファンチを変形・変質させたという事実には、複数の証拠がある。
まず、本部朝基による、糸洲の古伝ナイファンチ変形に対する批判的証言が残っている。
次には、少し前に発表された、糸洲の晩年期に入門したある空手家の方のナイファンチ初段の写真がある。
これは、糸洲がどの程度古伝のナイファンチを変えたかを知る上で、重要な資料の一つといえるが、私もつぶさに拝見させてもらったが、やはり、古伝空手の技術的要求は完全にと言っていいくらい消されていたのである。
やはり、糸洲安恒という人は、徹底した人だったのである。
その話が間違いだという、もう一つの理由としては、古伝首里手と近代首里手を合せ習うなどということは、およそ人間として、技術論的に言って、全く不可能だということだ。
それほど、古伝空手の技術と近代空手の技術というのは、本質的に異なるものなのである。
これを分かりやすく言えば、歌謡曲のレッスンとクラシックの声楽法とを同時期に学べば、悪貨は良貨を駆逐する、ではないが、絶対に易しい技術の方が体内で圧倒的に優位となり、そのことが、高級な技法の習得の大いなる障害になってしまう、ということなのである。
今ここでは「歌」を例に挙げたが、確かに、歌の場合ならば、強烈に意識的に行なうならば、歌謡曲とクラシックの両者を同時期に学べる可能性も少しはあろう。
しかし、これが武術・武道の場合には、敵の攻撃に対して、ほとんど無意識的なレベルで素早く反応し行動を取らねばならない世界なのであるから、古伝空手と近代空手という、質的にも技術的にも全く異なる二つの空手を同時期に学ぶことなど、およそ不可能なことなのである。
ちなみに、私が「当破」を始めとする古伝系の技術に辿り着けたのには、いくつかの大きな理由があるが、かなり以前より現代空手を止めていたことが、望む結果を生んだ一つの大きな原因だったと思う。
もし、一方で現代空手を続けながら、他方で古伝の武術としての空手を追求するというようなことをしていたら、とてもではないが、古伝空手に到達することは出来なかったはずである。
それほど、古伝空手の世界というのは、現代・近代空手とは異なる世界なのである。
「平安」は元々は一つ
古伝首里手と近代首里手を合せ習うことが不可能な理由については、まだ他にもあるが、このくらい述べておけば十分だと思う。
結局、本当のところは、糸洲は、昼は、学校用の号令をかけて行なうような「平安」(即ち「体育の平安」)を教えていたはずである。
この「平安」では、動作も大きくとらせたり、オリジナルの「平安」より運足数を増やすなどの工夫もして、体育としての運動量の増加をはかったことと思う。
これに対し、夜の自宅の道場では、号令等とは関係のない、より武術的な「平安」(即ち「武術の平安」の練武型)を教えていたはずである。
この「平安」では、指導者を養成するためにも、より実戦的な動きをとらせていたはずであり、また、そのための秘伝の練習法などもやらせていたに違いないのだ。
「平安」自体は元々は一つなのだが、こうした異なる二種類の指導法があったせいで、一方を近代空手、他方を古伝空手と誤解してしまったようだ。
実際、この頃の沖縄では、糸洲安恒が門戸を広く開放し近代空手の指導を開始した当時、遂に古伝の首里手が公開された、と思い込んだ人々も結構いたらしいのだ。
しかし、古伝の首里手は武士手だったのであり、サムライが刀を捨てたように、古伝首里手の空手家達も、古伝の空手は黙って墓場まで持っていったのである。