* 以下に掲載するのは、「月刊 空手道」(福昌堂) 2009年1月号~2010年2月号に連載された「武術空手研究帳」(但し、一部表現を追加・変更)である。
武術空手研究帳 - 第5回
[ 古伝空手に代わる空手として、糸洲安恒によって創始された近代空手とは、一体どのような空手であったのか?
その特徴について述べていこう。]
基礎鍛錬を捨てた?
次は糸洲安恒が創始した「近代空手」を見ていくことにしよう。
まず、この「近代空手」の最大の特徴の一つは、古伝空手時代には必須であった様々な基礎鍛錬を捨てたところにある。
そうしなければ大衆向けの空手は創れなかったからである
よって当然、「当破」も捨てることになったわけだ。
しかし、「当破」を捨ててしまえば、では、腕力(うでぢから)で突き、脚力(あしぢから)で蹴るしか方法がないのか?ということになってしまう。
それではさすがにマズイだろうということで、糸洲は、「当破」の代わりになる発力原理を導入したのである。
それが、「倒木法(倒地法)」なのである。
正確に言えば、「平安」の分解で使われている威力増強の原理は、何も「倒木法(倒地法)」だけではないのだが、全般的かつ統一的な原理としてはこの「倒木法(倒地法)」がやはり中心となるため、ここでは「倒木法(倒地法)」を「近代空手」の発力原理として論じていくことにする。
ちなみに、先日インターネットで「倒木法」と検索して、上位に出てきたサイトを見ていったのであるが、その中に、「倒木法」というのは、二人組になって、一方が倒れて、他方がそれを支えることで体を鍛える鍛錬法のことだ、という趣旨の記述があったので驚いた。
私が現代空手を修行していた今から三十年くらい前には、まだ、この「倒木法(倒地法)」を型の中に組み込んでいた流派もあったのであり、これは明らかに発力原理として捉えられていたのであるが、最近では、もう、そんなことも分からない時代になってしまったようなのである。
はっきりさせておくが、簡単に言えば、「倒木法(倒地法)」というのは、体を倒していく時に発生するエネルギーを利用して打撃の威力を増大させる、という原理のことなのである。
よって、糸洲安恒の創った「近代空手」の姿勢は、古伝空手とは違って、「前傾姿勢」がその一大特徴となるのである。
この「近代空手」の「前傾姿勢」を、オリジナルの「平安」(即ち「武術の平安」)の各動作で見てみると、前屈立ちの場合には、動作ごとに前傾の度合いが異なるケースがあるのだが、後屈立ちの場合には、ほとんど常にある程度の前傾姿勢を保っている点に、目立った特徴が見られるのである。
なお、「倒木法(倒地法)」というのは、必然的に「前傾姿勢」と馴染むことになるのだが、さらには「順体歩行」とも相性が良いのである。
ここで「順体歩行」というのは、「逆体歩行」に対立する概念であり、要するに、歩行の際に前に進める足と同側の手を前に出す歩き方のことである。(この「順体歩行」等に関しては、後ほど再び論じることにしよう。)
再反論をしておく
ところで、「倒木法(倒地法)」や「前傾姿勢」について、これは「近代空手」の特徴であるなどと述べると、いくつかの反論があるかもしれないので、ここであらかじめ再反論をしておくことにしよう。
まず最初に反論として想定できるのは、今では有名になった「空手道大観」に載っている花城長茂の写真についてである。
つまり、花城長茂は古伝空手を習った人であり、その花城が前傾姿勢をとっているのだから、古伝空手こそが前傾姿勢の空手だったのではないか、という反論である。
まず、およそ「研究」というものは、ただ単純に見たままのとおりに答えを出せばよいというものではないのである。見たまま感じたままが真理なら、科学も論理も不要なのであって、天動説が真理ということになってしまうのである。
写真を研究のために観察する場合にも、まずはそれ自体が、ジグゾーパズルのピースの一片に過ぎないことを知らねばならない。他の様々なことも関連させて、研究というのは行なわれねばならないのである。
さらに、写真の観察それ自体にしても、被写体の人物の歴史性(すなわち空手歴)や、その写真を撮った趣旨・目的等も考慮に入れなければならないのである。
さて、確かに花城長茂は古伝空手を習得した人だが、その後に生まれた近代空手の成立にも深く関わった人でもある。
従って、A)花城長茂は近代空手へと転向した、という可能性も考えておかなければならないわけである。
また、B)花城長茂は、古伝空手を続けたが、近代空手の影響を受けて技が変形した、という可能性も考えなければならないのである。
さらに、「空手道大観」というのは、古伝空手を保存するための本ではなく、主に近代空手の紹介用の本だったわけである。
従って、C)花城長茂は、個人的には古伝空手を続けたが、その本の撮影のときには、近代空手を演じなければならないために前傾姿勢をとった、という可能性も出てくるのである。
ここで、細かい理由付けは省略させていただくが、結論から述べると、正解は上記のC)なのである。
よく分からない、という方は、ご自分で思いっきり「倒木法(倒地法)」を意識して前傾姿勢をとりながら上段突きをしてみれば良い。
そしてそのポーズを花城長茂の写真とよく比較してみることだ。そうすれば、花城長茂の前傾姿勢が、どこか不十分というか不自然な感じがするはずである。
というのは、下段払いの写真はともかくとして、上段突きの場合には、古伝の首里手の正しい姿勢をついとってしまったのであり、「おっと、これはいけない」とばかりにあわてて前傾姿勢に変えようとしたのが、その花城の上段突きの写真なのである。
人の手足は剣と思え
さて、次に想定される反論としては、沖縄の空手界に残る各種の「口伝」についてである。
そうした「口伝」の中には、例えば「倒木法(倒地法)」を前提としたような「口伝」も含まれており、従って、「倒木法(倒地法)」は「古伝空手」の原理なのではないか、との反論がなされることが予想されるのである。
しかし、結論から言えば、「近代空手」も、もう相当に古い空手なのであり、いわゆる「昔手(ムカシンデー)」なのである。よって、「口伝」の中にはそれなりの数の「近代空手」に関する「口伝」も含まれているのが現状なのである。
だから、「口伝」から直ちに「古伝空手」の真実が導けるわけではない。
以上、予想される反論について、あらかじめ再反論をしておいた次第である。
さて、今度はここで、「近代空手」は、古伝空手と同じ「武術」であるのか、それとも現代の「武道」に分類されるべきなのか、という点について、少し考察しておきたい。
もちろん、「近代空手」は、「古伝空手」とは異なり、大衆向けの空手として、すなわち「誰でもすぐに技が習える空手」として登場してきたのであって、その点で、もう明らかに古伝空手と同水準の「武術」ではないのである。
しかし、ここで「武術」という概念自体を少し緩やかに考えたらどうだろうか、という発想がありうるのである。
どういうことか、説明しよう。
安里安恒の残した有名な言葉に「人の手足は剣と思え」というのがある。
この言葉は、人の手足に触れてはいけない、などという変な意味ではないのであって、その真意はというと、「剣術の水準で武術というものを捉え、そうした武術の水準で空手を修行せよ」という意味なのである。
剣術というのは、もちろん真剣を使った武術のことであり、触れれば切れる日本刀を使っての武術であったわけである。
すなわち、一瞬で首が飛ぶ恐ろしい世界だったわけで、この、一瞬で生死を分ける剣術の勝負の水準で武術を捉えようとするならば、動作の一つ一つをも慎重に行なわなければならず、要求される身体操作技術というのも、相当に高度であってしかるべきなのである。
これに対して、そもそもから、体術としての水準で武術というものを考えたらどうなるであろうか。
これが、糸洲安恒の有名な言葉である「当たっても、痛くなければ構わない」なのである。
よく、この二人の安恒の言葉は、両者の空手観の違いとして対比的に引用されるが、本来は、これらの発言は同次元で比較されるべき言葉ではないのである。
糸洲安恒もまた古伝空手をみっちりと修行してきた男なのであり、古伝の空手に関しては、やはり、安里安恒の意見に賛成したはずなのである。
糸洲の上記の発言は、そもそも、古伝の空手に関してのものではなく、近代空手(正確に言えば、「倒木法(倒地法)」無き近代空手)についての発言だったのである。
この発言と共によく語られるエピソードとしては、「鼻以外ならどこを叩いてもよい」と言って、弟子達に自分の体を叩かせたが、糸洲は全く平気だったと言われている。
この弟子達というのも、もちろん、「当破」を習得していた屋部憲通や花城長茂などではなく、空手近代化以降に入門した弟子達のことなのであり、当時は「倒木法(倒地法)」も未だ明確には指導しておらず、結局のところ、単なる腕力の突きなどは大して気にする必要もない、という趣旨だったのである。
おそらく糸洲安恒としては、自分の行なっている空手の近代化に対して良く思っていない人達から、「それは武術ではない」と言う批判を受けたと思われる。
しかし、糸洲としては、もう刀を差す武士の時代ではないのだから、武術の概念自体を体術のレベルで考えても良いのではないか、また、そうすれば、自分の創造した近代空手もまた、武術たりうるのではないか、そういう思いがあったに違いないと考えられるのである。
従って、「近代空手」というのは、確かに剣術レベルの武術観からすれば、武術とは言い難いわけだが、武術観自体を緩やかに捉えるならば、これをも武術と呼ぶこともまた可能なことである。
以上のことから、私は、糸洲安恒の創ったこの「近代空手」を、「大衆的武術」と位置付けている。
そう捉えれば、糸洲が「古伝空手」のDNAを少しでも多く「平安」の中に残そうとしたことや、また、「近代空手」が「古伝空手」同様に「型で始まり、型で終わる」空手だったこと、さらには、「平安」の「真の分解」が「突きや蹴りも空手の内」というような内容になっているのも、全てうなずけるわけである。
糸洲安恒は、よく柔道の創始者である嘉納治五郎と対比されるが、嘉納は最初から近代武道、すなわち「試合」を行なうスポーツ的な武道体系を創ろうとしていたのであるが、糸洲の空手近代化という考えの中には、スポーツ的な「試合」などは最初から存在しなかったのである。
ここに両者の本質的な違いがあるのだ。
空手が現在でも、よく、スポーツなのか、武術なのか、という観点から議論されるそもそもの遠因は、この糸洲安恒が行なった空手の近代化にそのルーツを見ることが出来るのである。
つまり、空手は、その大衆化の第一歩からして、柔道とは違っていたのであり、相当に武術的な形で出発したということなのである(このことは、後ほど、もっと詳しく論じることにしよう)。