* 以下に掲載するのは、「月刊 空手道」(福昌堂) 2009年1月号~2010年2月号に連載された「武術空手研究帳」(但し、一部表現を追加・変更)である。
武術空手研究帳 - 第6回
[ 今回から三回にわたり、読者もご存知の現代空手について述べていく。
まずは、現代空手の父と称される船越義珍に着目してみよう。]
船越義珍の実力
「近代空手」やその代表型である「平安」については、後ほど改めて詳しく見ていくことにして、そろそろ「現代空手」について論じることにしたい。
もちろん、「現代空手」は読者の方々が現実に今、日々練習している空手なのであるから、詳しく書く必要もないと思われるかもしれない。
しかし、私がここで取り上げたいのは、「現代空手」の「誕生」についてなのである。
「現代空手」という空手が、何からどのようにして生まれたのか、ということなのである。
さて、「現代空手」について論じるためには、まず、何をおいても、船越義珍について語らねばなるまい。
糸洲安恒が「近代空手」の父であるなら、船越義珍こそが「現代空手」の父であるからだ。
そこで、まず最初に述べておきたいのは、船越義珍の実力についてである。
正直なところ、若い頃の私は、船越義珍をそれほど強い空手家とは思っていなかったのである。(同様な意見をお持ちの方も、結構いらっしゃるのではないかと思う。)
しかし、私が三十代の時だったが、ある時、船越が投げ技をやっている写真を見たとき「うん?」と思ったのである。
私はいささか柔道の経験があるが、人を一人投げるというのは、中々に大変なことだと思っている。
しかし、私がその時に見た船越の写真では、たとえ相手が素直に投げられているにしても、柔道家でももう少し踏ん張らねば投げることは難しいと思えるのに、船越は涼しげな様子で、かなり軽々と相手を投げている感じがしたのである。
「まてよ、これはひょっとすると、船越義珍という人は、今まで自分が考えていた以上に強い人だったのかもしれない」
そう思ったわけである。
さて、それから十年以上が経ち、私が「当破」を習得した後のことだが、船越義珍の写真を見て改めて驚いたのである。
「うーむ、出来る!」
それが、「当破」を習得して、古伝空手を観る目が出来た後の、私の船越義珍観なのである。
要するに、こういうことだ。
現代空手家にとっては、例えば、極真空手の創始者である大山倍達の突きの写真などは非常に分かりやすいのである。
彼は「技は力の中にあり」と言ったが、「古伝空手」や「近代空手」と違って、主要な「発力原理」を持っていない「現代空手」というのは、まさに、「腕力(うでぢから)で突き、脚力(あしぢから)で蹴る」ような空手なのであり、その意味で、この大山の発言は全く正しいのである。
よって、彼はベンチプレス等で腕力を鍛えていたのであり、従って、彼の突きは腕力そのものをメインにして突いているのであり、こういう突きなら、素人を含め、誰が見てもその力強さが一目瞭然なのである。
それに対して、船越義珍の技の威力というのは、例えば「当破」という技術によるものなのであり、写真等で見ても、そういう技術を知らずに観る目を持たない者にとっては、極めて分かりづらいのである。
これが、船越義珍の実力が大いに誤解されている最大の原因なのである。
他には、船越義珍は、よく本部朝基と対比されるのだが、本部朝基の方は豊富な武勇伝があるのに対し、船越義珍にはそういうものはない。このことも、船越義珍の実力を計り難いものにしている要因の一つになっている。
さらに、本部朝基という人は、特に打突系の攻防に天賦の才があった人で、自らも打突系の技が好きだったようだ。
これが、空手は打突系の武道と思いこんでいる現代空手家にとっては、本部朝基という空手家はまことに分かりやすい原因でもあるのだが、船越義珍はそういう空手家ではなかったのである。
船越義珍個人にとっては、空手とは、古伝空手そのものを意味していたわけで、従って、もし彼が本気で戦うこととなったら、何も打突系の技のみで戦うわけではなく、古伝空手の技術そのものを使って戦うはずなのである。
つまり、打突系のみならず、取手系の技も駆使して戦う、ということなのである。
船越義珍は、「本当の空手というものは、組手も試合も出来ないのだ」というような言葉を残しているが、これこそまさに、彼が「本当の空手」というとき、それは「古伝空手」を念頭において言っていたことを示す証拠そのものなのである。
私は「古伝空手」を知っているので、この船越の発言の意味は、具体的にはっきりと分かるのである。本当に、古伝空手では、組手も試合も出来ないのであるから。
さらに、船越義珍に型の分解を聞いても答えられなかったが、本部朝基はスラスラと答えた、というような話も残っているが、本部は何も真正な分解などを答えたわけではなく、当然それはカモフラージュ用の分解なのであって、要は、本部はそういうカモフラージュ用の分解のネタを豊富に持っていたが、船越の方はあまり持っていなかった、というだけの話なのである。
これは、二人の修行過程の違いによるものであろう。
船越義珍は、松村宗棍の高弟であった安里安恒のたった一人の弟子として、手塩にかけて育てられたのであり、まさに安里安恒の秘蔵っ子弟子だったのである。系統から言っても古伝首里手の正当派と言えるわけだ。
その船越も、中伝段階の頃には、師の安里から、型の分解を考える宿題なども出されたと思うが、奥伝段階に至り、「当破」を習得し、「真の分解」を教わった後になれば、昔の自分が考え出した間違った分解などはとっくに忘れてしまった、と思うのである。
(私自身も、自分が若いころに考え出した分解などは、もうケロリと忘れているのだ。何故なら、ニセ物などを覚えていても何の意味もないからだ。)
それに対して、本部は色々な先生について習っており、特に中伝段階のときにあれこれ分解などを尋ねては「掛け試し」などで実験していたと思うのである。
おそらく、この中伝段階の時期が、本部朝基は結構長かったかもしれない。
ヤンチャな本部だったわけだが、何しろ王家につながる名門のお坊ちゃんなのであるからして、当時の身分社会としては、先生としても粗略には扱えなかったろう。
といって、「掛け試し」などを好んでやっていたとすれば、簡単には奥伝は許してもらえなかったかもしれないのである。
そうだとすれば、本部がカモフラージュ用の分解を豊富に知っていたのも頷けるし、また彼はこうしたことをしっかりと記憶するのが得意だったのだろう。
以上が、私が考える、この二人の、カモフラージュ用の分解ネタの豊富さの違いの理由である。
とにかく、もし船越義珍が弱い空手家だったとして、例えば柔道家に簡単に倒されてしまうようなことがあったら、沖縄空手界の恥になるわけだから、よって、弱い人間を本土に代表として送り出すはずがないのである。
船越は「前傾姿勢」を捨てた
さて、本部朝基だが、彼は糸洲安恒の行なった空手の近代化には反対していたのである。
よって、本土に来たときは、もちろん、本当の古伝空手を教えるつもりはなかったのであるが、彼なりに、少しでも古伝に近い空手を指導しようと考えていたのである。
従って、彼の教えた空手には「前傾姿勢」が見られないのである。
では、船越義珍はどうであったのか。
船越の教えた松涛館流空手にも「前傾姿勢」はないのである。
これは一体どうしてなのだろうか?
船越は、糸洲安恒の行なった空手の近代化に対して、別に反対した様子もない。「平安」にしても、本部朝基は指導していなかったが、船越は指導しているからだ。
では、何故、船越は「前傾姿勢」を捨てたのか?
まず、先述した花城長茂の例に見られるごとく、私が研究した結論としては、古伝空手を習得した人達はまず全員、後進の指導のためには近代空手や現代空手を教えたが、自分自身の個人的な修行としては、生涯、古伝空手を続けたのである。
これは船越義珍も基本的には同じなのであって、特に本土に来た当初などは、残されている写真を見ても、彼が演じているのは古伝空手なのである。
実際、私の手元にある限りでの古伝空手家の写真の中で、極めて僅かではあるが「当破」を掛けて技を行なっている写真を残しているのは、船越義珍だけなのである。
このことから考えても、船越義珍が本土に来た当初、嘉納治五郎を始めとする講道館の柔道家達の前で空手の演武を行なっているが、そこで演じた空手も、おそらく古伝空手であったろうと思うのである。
指導用に身につけた程度の近代空手を演じたとは、ちょっと考えられないからだ。
さらに、古伝の首里手は、先述したとおり、本土の武術と基本姿勢が同じなのであり、その点でも、古伝空手の方が本土の武道家達に受けが良かったはずなのである。
確かに、柔道にも捨て身技があり、これは「倒木法(倒地法)」を原理としているが、他の技については「前傾姿勢」などは基本的にとらないわけであり、特にこれが剣道となったら、「前傾姿勢」などは奇妙に思われかねないという事情もあったと思われる。
他に考えられる理由としては、例えば、横蹴りの採用がある。
船越義珍は、「平安」の型に登場する前蹴り系の蹴り技を、半分ほど横蹴りに変えてしまったが、船越という人は、特別な理由がない限り、自分の思惑だけで師の創作した技を変更するような人ではない。
従って、あの横蹴りは、船越の第一の師である安里安恒の考案した蹴り技である可能性が高いと思う。
船越からすれば、糸洲安恒の弟子は大勢いるが、安里安恒の弟子は自分ただ一人だったわけで、何とか、安里の残した技を、「平安」等に入れたかったと思われるのである。
さて、横蹴りという技は、上体を蹴り足とは反対方向に倒す蹴り技なのであり、よって、「倒木法(倒地法)」や「前傾姿勢」には、基本的に馴染まない技なのである。
この点もまた、「前傾姿勢」を採用しなかった理由の一つになり得ると考えられるのである。
さらに、船越が松涛館「七つの型」に入れた型は、近代空手の「小」系統の型ではなく、古伝系の型なのであり、この点からしても、船越には古伝回帰の思いが強かったようで、このことも、おそらくは安里安恒の影響ではなかったかと思う。
とにかく、本当の理由は船越義珍に聞いてみるより他に方法はないのだが、およそ推察するには、上記のあたりが主な理由だったのではないか、と考えている。
いずれにせよ、船越は、「平安」の型は指導したものの、そこから「前傾姿勢」は(従って「倒木法(倒地法)」も)消してしまったのであるが、このことが、「現代空手」の誕生と深い関係を持ってくるのである。
ところで、「現代空手」の誕生というのは、言うまでも無く、昭和初期に、いわゆる「基本体系」というものが、松涛館流を中心に生まれたことを指しているのである。
一説によれば、この「基本体系」の成立には屋部憲通なども深く関与していた、とのことであるが、私は空手史の専門家ではないので、詳しいことは分からない。
私にとって重要なことは、何よりも「技術論」的なことなのであり、要は、「現代空手」の成立とは一体どのようなことであったのか、という点こそが知りたいところなので、ここでは、「基本体系」の成立に間違いなく深く関与していた船越義珍が、これを行なったとして論を進めさせていただくことにする。
( * 上記本文において、「船越が前傾姿勢を捨てた」として、その理由について推測した。しかし、その後の研究で、「前傾姿勢」を捨てたのは船越ではないことが判明した。そもそも「平安」と言う型は、糸洲安恒によって、最初は「武術の平安」として創作されたのだが、その後、その「武術の平安」を元にして、「前傾姿勢」を消した学生向けの「体育の平安」も創られたのだ。つまり、「前傾姿勢」を消したのは糸洲だったのである。拙著「武術の平安」は、その最新の研究成果を元に執筆してあるが、上記本文は、「武術空手研究帳」執筆当時の私の意見として、そのまま変更せずに保存しておくことにする。)