武術空手研究帳・増補(1)「異なる二つの戦闘方式」- 第2回
[ この増補(1)では、「異なる二つの戦闘方式」について論じていく。
また、そのテーマと絡めて、「組形と単独型(単独形)」や「武器術と体術」という論点についても、共に解説していきたい。
今回は、その増補(1)の第2回目である。]
中国武術は、本来、武器術が中心
では次に、中国拳法について見てみることにしよう。
ただその前に、中国拳法に限らず、武術界全般について、一つ述べておきたい事がある。
私の専門は空手である。現代空手からこの世界に入り、そこで非常に多くの疑問に遭遇し、やがてそれらの疑問を次々と解決することで、古伝空手や近代空手、さらには、琉球古武術も解明してきた。
そうした経験から言えることなのだが、武術というのは、多くの人が考えている程には保存状態は良くないし、また他方で、贋作(ニセモノ)の捏造も多々ある、ということだ。
古伝空手や近代空手にしても、現在では、変形・変質した型と、玉石混交の口伝等が残っているのみである。
その型にしても、贋作(ニセモノ)が結構ある。(最近でも、また新たに、ナイファンチ初段~三段を合わせたような贋作(ニセモノ)の古伝型が発表されていた。しかし、ナイファンチ二段・三段という型は、古伝空手の時代には存在し得ない型なのであり、糸洲安恒が個人的に空手の近代化を行っていた明治二十年代頃でないと生まれ得ない型なのである。この事の詳細については、拙著「ナイファンチ二段・三段の秘密」を参照願いたい。)
型のレベルではなく、流儀・武術のレベルでの捏造もある。昔から伝えられてきた流儀・武術だ、と主張しているのだが、技術内容を見てみると、受け技がもろに現代空手であったり、蹴り技が現代空手の前蹴りであったり、打突技と取手技が基本的に分離していたり、型(形)が存在しない武術であったり、等々、明らかに琉球の古伝武術ではないのだが、自らは古伝系だと主張しているのである。
こうしたことは、程度の差こそあれ、古伝剣術等の他の日本武術の世界でもあることなのだ。最近、それが良く分かってきた。
もちろん、中国武術と言えども決して例外ではない。
従って、以下中国拳法について述べるわけだが、中国拳法は多種多様であり、本物・贋作が入り乱れている世界でもあるので、まずは私見によりマトモと判断した諸拳法を脳裏に描き、次にそれらを大局的な視点から捉えることで、出来るだけ本質的な観点から論評していきたいと思う。
さて、中国拳法の具体的な戦い方を調べてみると、間合は比較的近いものの、基本的には敵と離れて戦い、しかも打突技で戦うのであり、よって、その戦闘方式はG方式に分類されることになる。
確かに、太極拳の「推手」のように、敵と手甲同士を接触させたまま、押したり引いたりしながら敵を崩して攻撃する、という方法もあろう。
しかし、B方式で戦う体術家から見ると、手甲同士を接触させるくらいなら、敵の腕を掴んで取手技に持ち込めば良い、と思うわけである。その方が、素早く確実に敵の体を崩していけるからだ。
太極拳修行者によれば、この「推手」には奥深い世界があるとのことだが、何事も突き詰めていけば、それなりに奥深い世界は開けよう。
しかし、そもそも「推手」というのは、敵もまた「推手」を行うという意思があって初めて成立するような技術なのであり、もし「推手」の途中で敵がいきなりボクシングのような技法に動作を変えてきたら、たちまち「推手」自体が崩れてしまうであろう。
要するに、中国拳法というのは、確かに、「推手」のような技術もあり、また、敵の手首を一瞬掴むような技術くらいはあるのだが、あくまで敵と離れて戦うのであり、敵の体等を掴む技術は、拳法とは別の「擒拿術」という体系に押しやられているのである。
日本武術の体術の場合は、敵の体を掴む取手技が非常に重要な役割を果たしており、戦闘方式はB方式を採用しているのだが、中国拳法は、あくまでG方式にこだわり、日本武術の体術であれば取手技に分類されるような技術は、「擒拿術」として拳法とは別の技術体系になっており、しかも、その「擒拿術」というのは、拳法や武器術に比べると、あくまで付随的・補助的な位置付けにすぎず、内容も基本的に日常護身術的なものが多い。
では、中国拳法は、何故G方式にこだわるのであろうか?
結論から言おう。
まず、中国拳法というのは、それ自体独立した武術ではなく、本来は、他の武器術と共に総合武術を形成しているのであって、拳法はあくまでそうした総合武術の一部門に過ぎない。しかも、中国の総合武術というのは、日本のそれとは大きく異なり、その門派における主要な武器術の理合を、拳法や他の武器術でも基本的に踏襲するという、一つの武器術の戦闘思想によって統一的に構成された総合武術なのだ。
日本の場合は、一人の武術家が、剣術は○○流、槍術は◇◇流、柔術は△△流、等のように、それぞれ別々の流儀を学ぶ事もごく普通に行われたし、同様に、一つの道場で各種の武術を指南するに際しても、武術ごとに別々の流儀での指導もごく普通に行われていた。
これに対し、中国の場合は、何々門という一つの武術門派では、上記のようなある一つの武器術の理合で全体的に統一された総合武術が指導されたのである。
こうした違いが生じたのは、国情が異なる故であろう。
日本とは異なり、数多くの民族が存在し、一つの民族の国が滅びると、今度は別の民族の国が誕生するというお国柄では、繰り返される戦乱の中で、頼れるものは一族のみ、ということになり、一つの血縁で結ばれた集団ごとに、自衛のための武術が形成されたのである。
その際、何よりも重要な武術は、(戦乱の世であれば当然の如く)体術ではなく武器術だったわけで、いざという時に、その一族の者達が好んで手にする武器を扱う武器術が、中心的な武術として選ばれたのだ。
例えばそれが槍術だったとしよう。
すると、まずもって槍術が、徹底的に工夫され稽古されたわけだが、それが一定水準の体系性を持つに至ると、今度はその槍術の理合を基にして拳法等が工夫・形成されたのである。何故なら、統一的な理合で各種の武術を構成しておけば、全ての武術の習得がより容易になるからだ。
だから、中国拳法はG方式にこだわるのである。武器術の理合で作られた拳法なれば、必然的に戦闘方式はG方式でなければならないからだ。
(以上とは異なり、日本武術の場合は、個々の武術ごとに別々の流儀で習得するのが当たり前であったため、武芸十八般の習得にはかなり時間が掛かるものの、それぞれの武術ごとに最も合理的な方式を追求出来た、という長所があった。)
もちろん、中国拳法においても、推手等のように、出来るだけB方式に近づけるような工夫はあった。しかし、武器術との関連が非常に強固なために、それにも限界があったのであり、戦闘方式としては、あくまでG方式に止まらざるを得なかったのである。
(現代の日本社会では、武器を手にして街中を歩くわけにもいかないのであり、これは中国とて事情は同じはずだ。だから、武術というと、現代ではどうしても体術の方に関心が集まる。さらに、現代空手家の多くは「空手の源流は中国拳法」との一大誤解をしているので、尚更に中国拳法にスポットライトを当ててしまう。しかし、中国武術の世界では、本来は武器術の方が中心だったのであり、拳法は二次的な存在だったことに気付く必要があるのだ。)
* 中国武術には「武器は手の延長」という言葉があるが、それは上記の如くに、武器術と拳法とで理合が基本的に一致する場合の言葉なのであり、従って、この言葉を日本の武術に無批判的に当てはめるのは妥当ではない。日本の武術の場合には、通常は、体術と武器術の間にそこまでの関連性はなく、各武術は基本的に独立していたからだ。
**「空手の源流は中国拳法」という誤解は、糸洲安恒がいわゆる「糸洲十訓」に記した「唐手(からて)は・・・支那より伝来したるもの」から生まれた誤解なのだが、結論から言うと、糸洲のこの発言は全くの方便(ウソ)なのである。
古伝空手は、中国拳法とはほとんど全くと言って良い程に関係がない。むしろ、柔術との関連性の方がはるかに濃厚なのである。
古伝那覇手にしても、そのルーツは古伝首里手なのであって、中国南派拳術の短橋狭馬の拳法がルーツなのではない。そうではなく、逆に、それら短橋狭馬の拳法は、古伝那覇手から生まれたのだ。
以上の詳細については、拙著「武術の平安」の「コラム-8」を参照願いたい。
(なお、余談ながら付け加えておけば、糸洲の行った空手近代化に対しては、古伝空手家達からのかなりの反対があったと言われている。
しかし、当時の時代状況からすれば、糸洲の空手近代化は、評価されこそすれ、反発されるべきこととは思えないのであり、また、当時の(特に首里手の)空手家達は、教養も高く、そうした時代状況が理解出来なかったとは到底思えないのである。
おそらくは、上記の「唐手は・・・支那より伝来したるもの」という糸洲の発言が、古伝空手家達の逆鱗に触れたのではなかろうか、と思うのである。
糸洲の空手近代化に基本的に賛成していた安里安恒ですら、その一点だけは気に入らなかったようで、それがために、安里の弟子の船越義珍も、本来の「武術の平安」ではなく、倒木法を消した「体育の平安」を松涛館流に残したと思われる。倒木法は中国拳法の発力原理でもあるのだから、その倒木法を採用した「武術の平安」を残してしまったら、後の世において、「唐手は・・・支那より伝来したるもの」という間違った説の有力な証拠になってしまうからだ。)
G方式の武術とは
以上、戦闘方式としてG方式を採用している武術等について概観してきたわけだが、前述のとおり、このG方式というのは、本来は「武器術用の戦闘方式」なのである。
以前にも指摘したことだが、このG方式は、「自由」で「平等」な戦い方であることから、戦う本人からすると、戦いの最中のいつ何時であっても、想定外の攻撃が突然襲ってくるやも知れないのであり、余程大きな実力差でもない限り、格下相手の戦いでも安定的に勝利を収めることが困難になる点に問題があった。
もっとも、古伝剣術等の武器術では、本格的な勝負が開始されれば数合程度以内の斬り合いで勝負がついたであろうから、そうした「不確定要素」が介入する余地は非常に小さかったのであり、よって、このG方式という戦い方でも格別の問題はなかったのである。
しかし、これが武器術ではあっても、竹刀を使う剣道になると、間合が接近し打ち合いとなっても、打ち込みが浅ければ審判は一本を取ってはくれない。そうすると、再び離れ、再度近づいてまた打ち合いになるわけだが、これが繰り返されると「不確定要素」発生の確率は飛躍的に高まっていくことになる。(もっとも、実際の剣道の試合では、審判が一定の裁量を発揮することで、いわゆる「ラッキー・パンチ」に相当するような打撃は、余程の場合を除いては一本にしないようなので、それなりに実力を正しく反映した勝負結果にはなるようだが。)
以上に対し、体術を見ると、まず現代空手は、打突技のみの武道なのであるから、そもそもの始めからG方式になる運命にあったわけだが、意識の上でも、「己が手足は武器」と考えることで、至極当然の如くにG方式を受け入れただけなのであり、戦闘方式について殊更に考察を加えた形跡は無い。
次に、中国拳法にあっては、拳法は、決して独立した武術ではなく、あくまで門派の中心たる武器術に従属する武術だったのであり、よって、その武器術と基本的に同様の方式で戦わねばならなかったが故に、G方式が自ずと採用されたのである。
以上の各体術のいずれを見ても分かるように、それらでG方式が採用されたのは、戦う者の立場に立って深く考察した結果「G方式が有利」との積極的な結論に達したからでは決してない、ということに気付いてもらいたいと思う。
これに対し、ボクシングの場合は、「G方式が有利」という積極的な判断の元に、戦い方が規定されてきたのである。但し、それは戦う者の立場ではなく、興行主の立場からの判断だったわけだが。つまり、経験的に見て、このG方式を採用した方が、興行的にもギャンブル的にも最適である、と判断したが故のG方式だったということだ。何でもありの「喧嘩試合」からルールが変化していくプロセスで、例えば取手系の技を残してB方式の戦い方をするスポーツ競技を生み出すことも出来たのだが、そういう方向には決して進まなかったのは、やはり興行性・ギャンブル性の要請が非常に強かったからなのであり、興行主からすれば、むしろ「不確定要素」は歓迎すべきことでもあったからだ。
* 誤解している人がかなりいると思われるので、ここで、本部朝基の残した空手について一言しておく。
本部は二冊の本を出版したが、その内の一冊の中で「朝基十二本の組手」というのを残している。この一種の組形は、現代空手よりは近間とはいえ、明らかにG方式の戦い方なのだが、これを見て「これが古伝空手だ」と誤解している人が結構いるようだ。
しかし、残念ながら、それは古伝空手ではない。それは、本部が中伝の頃までに自ら編み出していた「自己流の空手」だったのである。
古伝空手の世界では、型の分解、即ち、実際に使用する技を教えてもらえるのは、奥伝に入ってからなのだが、本部は中伝までに「掛け試し」を好んで行っており、そのために、ナイファンチの型等から自分で工夫して技を編み出し、それらの技を使って「掛け試し」で戦っていたのだ。彼は打突技が得意だったようであるし、また、当時の「掛け試し」というのも、現在のフルコンのような戦いだったのであろう。よって、本部の自己流の空手というのも、打突技のみのG方式で戦う格闘術だったわけだ。
(「朝基十二本の組手」の中には「蹴り技」も含まれているが、もちろん、それらも本部の自己流の蹴り技なのであって、古伝空手の蹴り技ではないし、古伝空手を元にして糸洲安恒が創った近代空手の蹴り技でもない。)
さて、彼が本土に来たとき、空手(当時は唐手と呼ばれていたが)は「専ら打突系の武道」と思われていたのであり、それならば、自分が中伝までに編み出していた例の「自己流の空手」を指導すれば良い、と考えたのも、古伝空手そのものの指導は不可だった以上、至極当然の成り行きだったわけである。(以上のことを示すかのように、彼の著作のタイトルは(実に素直に)「私の唐手術」となっている。)
** 現代空手では「一撃必殺」が重要なスローガンになっている。
確かに、打撃力は強いに越したことは無い。
しかし、明確な発力法・発力原理を有し打撃力も現代空手より強力であった古伝空手や近代空手には、「一撃必殺」などというスローガンは無かったのだ。
これは何故かと言うと、「一撃必殺」などというスローガンを掲げてしまうと、実際の戦闘方式が、打突技中心のG方式になってしまうことを恐れたからだ。
空手界の先人達は、体術の戦闘方式はB方式が最適であることを正しく理解していたのである。
*** タイの国技であるムエタイは、古式のムエタイを元に作られた興行試合であり、また、ギャンブルの対象でもある点で、ボクシングにも似ている。
しかし、ムエタイでは、ベテランの選手になるほど、クリンチしながら膝蹴り等の攻撃を行うという、いわゆる「首相撲」を行う傾向が極めて強い。
この「首相撲」は、相手を拘束する戦法であり、よって、分類すればB方式の戦い方になる。
つまり、ムエタイというのは、基本的にはG方式のスポーツ格技ではあるが、ベテランになるとB方式に移行する、という珍しいタイプになる。
これは、選手の立場からすれば誠に良く、かつ、自然な流れとも言える。何故なら、後述するように、戦う者の立場からすれば、B方式の方が、安定して実力が出せるし、思わぬ大怪我なども起こりにくいからだ。
さて、こうした興行試合というのは、興行主と観客と選手の三者から成り立っているわけだが、興行主の立場からすれば、こうした「首相撲」というのは好ましくはないはずだ。理由は、先述のボクシングの場合と同様に、ギャンブル性が弱まるからだ。
しかし、ムエタイの場合には、観客の目が、ボクシングの観客以上に肥えていた。
つまり、パンチやキックでKOすると、かえって「八百長だ!」という批判が起こりやすかったのであり、優秀な選手ほど「首相撲」を好むということを、観客はよく知っていたからだ。
結局、ムエタイでは、観客に支えられる形で、こうしたB方式の「首相撲」の試合が定着したのである。
これに対し、現代空手から生まれた興行試合には、キックボクシングやK1等があるが、これらでは、現代空手の組手試合と同様に、クリンチは制限乃至禁止されており、あくまでG方式で戦うことが求められている。その方が、興行性が高まるからだ。
つまり、キックボクシングやK1等の戦い方(従ってまた、現代空手の戦い方)というのは、ムエタイと比べると、より興行性が高く、より素人の観客に受け入れられやすい戦い方、という事になるわけだ。