武術空手研究帳

武術空手研究帳・増補(1)「異なる二つの戦闘方式」- 第4回

 [ この増補(1)では、「異なる二つの戦闘方式」について論じていく。

 また、そのテーマと絡めて、「組形と単独型(単独形)」や「武器術と体術」という論点についても、共に解説していきたい。

 今回は、その増補(1)の第4回目である。]

型と形の違い

 さて、このB方式というのは、本来は「体術用の戦闘方式」なのだが、ごく一部の武器術では、このB方式を採用している。

 その珍しい武器術の一つが、林崎流の居合術なのである。

 では、林崎流居合術の解説に入ることにするが、その前に、まずは、「組形」と「単独型(単独形)」について詳しく検討しておきたい。

 まず最初は、「型」と「形」の違いから解説しよう。

 まず、「型」というのは、「鋳型」や「型にはめる」という用語が示すとおり、判で押したように同じ動作を正確に繰り返すことで動作自体を鍛錬する稽古方式を意味するときに使う用語なのである。

 例えば、現代空手にも「カタ」があり、流派・団体ごとに「型」か「形」のいずれかの漢字を使うかが決まっているようだが、判で押したように同じ動作を繰り返しているのだから、本来は「型」の文字を使用するのが正しいことになる。

 これに対し、例えば、「四角い形(かたち)」と言えば、正方形でも長方形でもよく、また、四角でさえあれば、その大きさは問われない。つまり、「形(かた)」とは、形(かたち)が同一の動作でさえあれば、判で押したような同一性までは要求されないような稽古方式を意味する場合に使う用語なのだ。

 だから、古伝剣術の組形では、この「形」の文字を使うのである。何故なら、同じ組形でも、相手が変わるたびに、相手の身長や体格が異なることから、我の動作や刀の軌跡が(その形(かたち)は同じではあっても)変化するからだ。

 なお、以上を述べたついでに、オリジナルの平安、即ち、「武術の平安」における「型」と「形」について、ここで解説しておこう。

 まず、平安には、初段から五段までの五つの「練武型」があるが、これらは、判で押したように同じ動作を正確に繰り返すことで動作自体を鍛錬しているのであるから、「型」の文字が使われているわけだ。

 そして、以上の五つの練武型の内、分解の無い「体の型(鍛錬型)」である平安二段(松涛館流では平安初段)を除いた他の四つの「用の型(実用・実戦の型)」には分解があるが、その分解通りに敵を仮想して一人で稽古するのが「勝負形」である。これら四つの勝負形では、我と身長・体格が同じ敵を仮想して行う稽古法の他に、我と身長・体格を異にする敵を仮想して行う稽古法もあるため、上記の組形と同様に、「形」の文字を使っているのである。

 以上のことから分かるとおり、一人で行う稽古法には「単独型」と「単独形」の二種があるわけだ。平安で言えば、練武型は「単独型」であり、勝負形は「単独形」になる。

(ここでちょっと余談だが、平安には四つの「用の型」があるが、それらが真に「用」の意味を持つのは、勝負形の稽古の段階になってからなのである。それら四つの「用の型」でも、練武型を稽古する段階では、敵を仮想せずに動作の鍛錬を行っているのだから、「用の型」というよりも、むしろ実質的には「体の型」と認識すべきなのだ。)

単独形は、B方式の武術専用の稽古法

 さて、「組形」と「単独型(単独形)」の意味が分かったところで、今度は、「組形と単独型(単独形)の採用基準」について考察してみよう。

 つまり、ある武術において、その稽古方式を、「組形」にするのか、それとも「単独型(単独形)」にするのか、の問題である。

 まず、如何なる武術であっても、「組形」方式を採用することは可能である。何故なら、武術とは、平たく言えば「制敵技術」なのであるから、稽古相手を敵と見なせば、その稽古相手に武術の技を掛けることは出来て当然だからだ。

 ただ、この場合、問題となるのは、稽古相手に怪我をさせてはならない点だ。

 そこで、良い機会なので、「組形」と「単独型(単独形)」の長所・短所について、ここで簡単に整理しておこう。

  • まず、「組形」の長所は;
    • * 技が理解しやすい
    • * 失伝や誤伝が起こりにくい
  • 「組形」の短所は;
    • * 稽古相手が必要
    • * 外部に対する秘密保持が困難
    • *「安全性の確保(危険性の除去)」が必要
  • これに対し、「単独型(単独形)」の長所は;
    • * 一人で稽古出来る
    • * 外部に対する秘密保持が容易
    • *「安全性の確保(危険性の除去)」は不要
  • 「単独型(単独形)」の短所は;
    • * 技が分かりにくい(敵の仮想は意外と難しい)
    • * 失伝や誤伝が起きやすい

 以上であるが、上記からも分かるとおり、武術の稽古方式として「組形」を採用した場合には、とにかく「安全性の確保(危険性の除去)」が必要になるので、その点には工夫がいる。例えば、古伝剣術では、刃引き、木刀、袋竹刀などを使用したのも、この「安全性の確保(危険性の除去)」の観点から、そうしたのだ。

 さて、「組形」は全ての武術で採用可能であったわけだが、では、「単独型(単独形)」も、如何なる武術でも採用可能なのであろうか?

 結論から言おう。

「単独型(単独形)」は、B方式の武術でしか採用出来ないのである。G方式の武術では、「組形」は採用出来ても、「単独型(単独形)」は採用出来ないのだ。(ただ、厳密に言うと、B方式の武術でしか採用出来ないのは「単独形」の方なのである。これに対し、「単独型」は、用法を学ぶ「単独形」とは異なり、敵を仮想せずに動作の鍛錬を行う稽古法にすぎないので、G方式の武術であっても、例えば「組形」の基礎鍛錬として「単独型」を採用することも可能なのだ。)

 その理由については、以前に述べたG方式の戦い方の特徴を思い出してもらいたい。そこでは次のように解説されていたはずだ。

 “3.相手と離れて戦うために、空間的(間合的)・時間的(タイミング的)に変化が激しい戦い方。よって、「視覚情報」が極めて重要になる。”

 つまり、我と敵との間で、間合やタイミングが激しく変化する戦い方である以上、その稽古では必ず相手が必要になるのであり、一人で行う「単独型(単独形)」では十分に対処出来ないからだ。

 このことは、次の例で考えると分かりやすい。

 パラリンピックの種目の中に、「視覚障害者のための柔道」というのがある。

 この種目では、相手と組んだ状態から柔道の試合が開始されるのだが、いったん組んでしまえば、主に手から伝わる感覚を頼りに、相手が今どういう姿勢・状態にあるのか基本的に分かることから、このような種目が可能になるわけだ。このことは、柔道経験者なら十分に納得がいくと思う。

 こうしたことは、何も柔道に限ったことではない。

 例えば、「武術の平安」の勝負形でも、敵が攻撃してくるのを受け技で受ける所までは視覚も重要だが、受けたその瞬間以降は、即ち、打突技を加えながら敵を取手技で崩していき、我の形の世界に敵を引っ張り込んで制圧していく場面では、視覚はそれ程重要ではなく、熟達すれば目を瞑ってもそれらの業技を掛けることは可能になるのだ。

 このように、B方式の戦い方では、主要な場面で敵が自由勝手に動き回るようなことがなく、我によって敵の行動は基本的にコントロールされていることから、一人で行う「単独型(単独形)」で十分に技を練り強くなっていくことが出来るのである。

 これに対して、パラリンピック種目に「視覚障害者のためのフェンシング」というのはない。やはり、フェンシングのようにG方式で戦う種目では、視覚は決定的に重要な要素になるからだ。

 以上から分かるとおり、G方式の戦い方を採用している武術では、「組形」は採用出来ても、「単独型(単独形)」は採用出来ないのである。

(先程の注とも関連することだが、現代空手家に対して、「型による空手」を主張しても、今一つ理解されない原因がまさにここにあるのだ。

 現代空手はG方式の武道なのだから、自由組手や組手試合で強くなりたかったら、どうしても相手を立てて組手の稽古を重ねるしかないわけで、よって、武術空手では一人で行う「単独型(単独形)」で十分に強くなれる、と主張しても、ピンと来ないのである。

 これに対し、現代空手家であっても、取手系の武術・武道を経験した事がある者の場合は、反応が少し違っていて、「型による空手」の主張にもそれなりの理解を示す場合が多い。)

中国拳法の主たる稽古法は対打

 さて、「単独型(単独形)」を採用出来るのはB方式の武術のみ、ということが分かると、いくつかの疑問が湧いてくるはずだ。

 その一つが、中国拳法に関する疑問である。

 即ち; 前述のとおり、中国拳法はG方式の武術なのであり、それならば、「組形」は採用出来ても、「単独型(単独形)」は採用出来ないはずだ。しかし、中国拳法は「単独型(単独形)」がメインの稽古法のように思える。これは一体どう理解すれば良いのか?

 これも結論から言おう。

 中国拳法の稽古法で、主たる役割を担っているのは、「単独型(単独形)」ではなく、「対打(対練)」と呼ばれている一種の「組形」の方なのだ。

 それに対して、「単独型(単独形)」は、門派ごとに細かな位置付けの違いはあろうが、「対打」の基礎作りの役割を担っているにすぎない。

 以上の点を誤解してはならないのである。

 例えば、形意拳を取り上げてみると、その体系は、「五行拳」等の「単独型(単独形)」と、後は各種の「対打」があるのだが、本来はそれらの「対打」がメインの稽古法なのであって、「五行拳」等は、その基礎作りに他ならないのだ。

「五行拳」というのは、現代空手で言えば「移動基本」のような稽古なのであって、一応の用法らしきものもあるやも知れぬが、実質的には「体の型」なのであり、運足と共に一定の手技を繰り返すことで、動作の鍛錬をしているわけである。

 武器術ですら、「組形」以前に、例えば「素振り」等の鍛錬は行うのであって、入門していきなり「組形」の稽古ということはないのだが、体術の場合は、「組形」以前の基礎鍛錬は、武器術の場合以上に重要になる。これは、素手の手足には、武器ほどの潜在的威力が無いからであり、「体の型」等を繰り返し稽古することで、十分な威力を蓄える必要があるからだ。

 よって、「形意拳」では、入門後に「五行拳」等を繰り返し練習させられるのであり、よって、これら「五行拳」等の重要性が強調されるわけだが、門派としての主たる稽古法は、その後に習得する「対打」なのである。

(もうお分かりと思うが、上記の例での「五行拳」等というのは、基本的に鍛錬のための稽古法なのであるから「単独型」なのであって、本格的な用法を習得するための「単独形」ではない、ということだ。)

 *「型による空手」と言っても、完全に「単独型(単独形)」のみの稽古に終始するわけではない。他に、各種の鍛錬も必要になるし、また、相手を立てての対人稽古も必要になろう。

 しかし、その対人稽古も、G方式の場合とは目的が異なるために、何も自由組手のような練習をしなければならないわけではないし、また、ある程度現代空手等の経験があれば、これをも一人稽古で行うことすら可能になる。

(なお、昔の剣術家の中には、例えば「山篭り」などで技を磨いたりした人もいたわけだが、かなりの経験と上達の後には、剣術のようなG方式の武術であっても、敵を仮想しての一人稽古で修行していくことも出来たのである。)

 ** 上記本文中に、「単独型(単独形)」の短所として、“ 技が分かりにくい(敵の仮想は意外と難しい)”と記した。

 こう記すと、「敵を仮想するのは、さして困難な事ではない」と考える人も多いと思うので、ここで一言しておく。

 好例として、糸洲安恒が残した近代空手の口伝の一つとして、「手と足は同時」というのを取り上げてみよう。

「手と足は同時」というのは、右足を(歩み足で)前方へ大きく進めながら右腕で突く「右追い順突き」で説明すると、右足が前方の床に着地するのと、右腕が伸びきって突き技が終了するのが、同時であるのが正しい、という意味だ。

 これに対し、現在では、「手は足より先」という口伝の方が正しい、とされている。

 つまり、上記の「右追い順突き」で説明すると、右足が前方の床に着地するより前に、右腕が伸びきって突き技が終了するのが正しい、という主張なのだ。

 何故、このような「口伝の変形」が生じてしまったのであろうか?

 理由は、「敵をリアルに仮想する」というのは、想像している以上に困難だからである。

 上記の「右追い順突き」のケースでも、「敵をリアルに仮想」していれば、「手と足は同時」こそが正しい口伝だと直ぐに分かるのだが、そうした仮想能力が欠如していれば、「手は足より先」という間違った口伝に、いともあっさりと変形してしまうのだ。

 この論点に関する詳細な解説は、拙著「武術の平安」の「口伝解説-その3」をお読みいただきたいが、ここでヒントを言っておけば、上記の「右追い順突き」で、敵の体に右拳がヒットするのは、右腕が伸びきったその瞬間、ではなく、その少し前、ということだ。

(=> 増補(1)- 第5回へ進む)

*** プロフィール ***

プロフィール

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 長谷川光政

 昭和33年(1958年)、東京生まれ。

 中学生(12歳)の時に剛柔流の空手を習ったのが、空手との最初の出会い。

 それ以来、首里手系の空手や、フルコン系、防具系の各流派等でも空手を学ぶ。

 しかし、いくら修行をしても、どうしても既存の空手に納得がいかず、最終的には自分一人での研究・修行を続けることとなった。

 それから十五年以上が経過した四十歳台後半に至って、遂に、失伝していた古伝空手の核心的技術である「当破(アティファ)」を発見することに成功。

 それ以降は、その発見をきっかけに、古伝空手の型に関する様々な謎も解明出来るようになった。

 また同時に、糸洲安恒の創始した近代空手の代表型である平安(やナイファンチ初段~三段)についても、その謎を解き明かすことに成功した。

 現在では、琉球の古伝棒術等の研究も一通り終了しており、新たな発見等については、漸次、この「武術空手研究帳」の「増補」等を通じて公開発表していく予定である。

 東京大学教育学部体育学健康教育学科卒。