武術空手研究帳

武術空手研究帳・増補(1)「異なる二つの戦闘方式」- 第5回

 [ この増補(1)では、「異なる二つの戦闘方式」について論じていく。

 また、そのテーマと絡めて、「組形と単独型(単独形)」や「武器術と体術」という論点についても、共に解説していきたい。

 今回は、その増補(1)の第5回目である。]

居合術・抜刀術のルーツは林崎流

「単独型(単独形)」を採用出来るのはB方式の武術のみ、となると、さらに次の疑問が湧いてくるはずだ。

 それは、「居合術・抜刀術」に関する疑問のことである。

 現在多く見られる「居合術・抜刀術」というのは、「単独型(単独形)」で稽古し、しかも、型の分解解説で説明される仮想敵というのは、他の古伝剣術と同様に、我から見て「一足一刀」の間合に存在しているからだ。

 つまり、間合からすれば明らかに他の古伝剣術と同様なのであり、従って、その戦闘方式も明らかにG方式が採用されているのだが、稽古法としては「単独型(単独形)」が採用されているわけで、これはどう考えても「あり得ない武術」という事になるからだ。

 では一体、この疑問はどのように解決したら良いのだろうか?

 それには、まず、「居合術・抜刀術」のそもそもの源流たる「林崎流居合術」から、考えてみる必要があろう。

「居合術・抜刀術」は、林崎甚助重信から始まったとされており、よって、林崎流居合術こそが、「居合術・抜刀術」のルーツなのである。

 では、その林崎流居合術とは、どのような剣術なのであろうか?

 現在でも、この林崎流居合術は幾つかの系統で伝承されており、よって、その技術をうかがい知ることが出来る。

 そこで、その型(形)を拝見すると、「座位」で、しかも、「組形」の形式になっている。

 しかし、「組形」になっている点については、用法を理解しやすいように、かつ、誤伝が生じないように、等という配慮から、現在では「組形」が採用されているようだが、元々は「単独型(単独形)」であったはずだ。

 次に、「座位」についてだが、これは、現在の多くの「居合術・抜刀術」で「座位」が主流になっていることの影響を受けたものと思われる。

 しかし、結論から言うと、この「座位」での「居合術・抜刀術」というのは、本来は「体の型」なのであって、「用の型」ではないのである。

 正座というのは江戸時代に確立した武士の座り方だが、帯刀して畳の上で正座するなどということは、江戸時代では絶対にあり得なかったことなのだ。

 自宅では、刀は帯から外して刀掛けに掛けておくのであり、帯刀して登城したり他家を訪問するときは、刀は玄関脇の刀掛けの部屋に預けるか、あるいは、家の者が玄関で預かり、訪問者が座するときにその背後に置くか、さもなくば、玄関で刀を帯から鞘ごと抜き取った後、自ら右手で運び、座するときは自分の右側の畳の上に刀を置いたのである。

 だから、帯刀したまま正座している、などという場面はあり得なかったのだ。

 では、なぜ、そのような正座で帯刀という「単独型」があるのかというと、それは、天井の低い部屋の中でも「動作の鍛練」が出来るようにという配慮から、そのような型が考案されたからだ。

 結局のところ、現在の林崎流居合術も、上記の点で変形しているわけだが、それを元に戻せば、「立位」の「単独型(単独形)」が本来の姿になるわけだ。

林崎流居合術は超近間の剣術

 さて、以上の点を復元した上で、改めて林崎流居合術を見ると、一つの際立った特徴が浮かび上がってくる。それは、「超近間の剣術」だった、ということだ。

 何しろ、刀の柄を敵の上腕(二の腕)に接触させた状態から形が始まるからだ。

 通常の剣術の感覚から言ったら、異常に近い。近すぎるのである。

 では何故、このような居合術が生まれたのであろうか?

 林崎甚助は、幼少の頃、父親を闇討ちで殺されている。

 よって、その時から、親の仇を討たねばならない立場にいた。

 しかし、子供であった林崎にとっては、その仇というのは、相当な剣術の達者と写ったに違いない。

 そこで林崎は、熱心に剣術修行に打ち込んだのだが、最終的に彼が出した結論は、「その仇と戦っても良くて相打ちが精一杯」だったのである。

 通常の剣術の勝負というのは、対戦する両者が三~五間ほど離れた状態で抜刀し刀を構え、それから両者が近づき、「一足一刀」の間合から本格的な勝負に入る、という形式で行われたのだが、そういう戦い方をする限り、仇を討ったときは自分も討たれている、つまり、「相打ち」になってしまう、という結論に達したわけだ。

 そこで彼は、剣術の戦いの常識を根底から覆した全く新しい戦法を案出したのである。

 別言すれば、抜刀して遠間から近づいていき「一足一刀」の間合から本格的な勝負に入る、というプロセスを無くしてしまえば良い、と考えたわけだ。つまり、刀の柄に手を掛ける事もないままに敵にスラスラと近づき、敵の胸倉を掴めるような超近間に近づくや、「いざ、勝負!」と敵に告げるのだ。

 敵からすれば、通常より長い太刀(林崎流では、刀身も柄も、常寸よりかなり長い太刀を使う)を腰に帯びた者が、「一足一刀」の間合をもあっさりと越えて近づいてくれば、まさか勝負を挑んでくるのではないだろう、と思うはずだが、その「まさか」が実現し「いざ、勝負!」となるわけだ。(もし仮に、近づいてくる者の殺気に敵が気付いたとしても、刀を抜かず柄に手も掛けていない状態で近づいてくる者を斬るのは、武士として卑怯な仕業なのであり、よって、敵としては、やはり刀を抜くことは出来ないのだ。)

 これでは、敵としても、心がパニックを起こし、身体も居ずいてしまう事であろう。

 そこを抜き打ちざまに連続攻撃する、というのが、林崎が考え出した居合術だったのである。

 常寸よりはるかに長い刀というのも、片手で柄を握り、他方の手は刀の峰に当てることで、丁度棒術の技のように、柄頭と切先の両方を使って攻撃したりもするのであり、そうすれば、長さが約半分の武器を扱うのと同様になり、近間でも効果的に攻撃出来るわけだ。

 かくて、林崎甚助は、親の仇をこの居合術で倒したのである。

林崎流居合術はB方式の武術

 さて、「居合(術)」という新規の名称も、上記との関連から理解出来る。

 現在では、「座位」が「居合」で、「立位」が「立合」、などという説明もなされているようだが、林崎が考案した「居合」は、本来は「立位」で戦う術技であったわけだし、「立合」というのは、本来、試合の別称なのだから、その説明には無理がある。

「居合(術)」というのは、上記のような超近間で「いざ、勝負!」となれば、通常の剣術家同士だったら、咄嗟の対応が出来兼ねるため、戦う両者は心身共に「居ずいて」しまうわけだが、そうした通常の剣術家ならば「居ずき合って」しまうような状況を打破して敵を倒す術、という意味で、「居合術」という名称が付けられたと考える。

 この新規の剣術流儀は、その勝負開始の間合の取り方の特殊性から、剣術界からは、単なる一つの剣術流儀としてではなく、全く新たな武術として認識されたのであり、よって、林崎流剣術ではなく、居合術として認知されたのである。

 ところで、この林崎流居合術だが、既存の剣術流派の間ではほとんど普及しなかったようだ。何故なら、これもまた「決闘専用の剣術」だったからである。よって、ごく一部の流派では、組形とは別に、林崎流と同様の居合術を単独型(単独形)として採用するところもあっただろうが、ほとんどの流派では、ただ知識としてのみ、この居合術なる新規の剣術を理解するに止めたのだ。

 これに対し、柔術家の間では、この林崎流居合術は相当に普及したのである。

 その根本的な理由は、勝負開始の間合が基本的に同じだったからだ。

 さらに細かく見ても、林崎流居合術の中にも柔術的な取手技が含まれているし、また、柔術家にしても、この居合術は習得すべき武術であったのだ。

 何故なら、当時の柔術は、我も敵も帯刀していることを前提に技が考案されていたのだ。そして、居合術が生まれる前は、そうした超近間で太刀が抜けるとは誰も考えていなかったのであり、それを前提に技が作られていたのだが、居合術の出現がそうした常識を根底から変えてしまった以上、柔術家としては、この新規の超近間の剣術を、是非とも習得する必要性が生じたからである。

 かくて、柔術家の間では、この林崎流居合術は、ほぼ必須の武術になっていったわけだ。

 さて、ここで、この林崎流居合術をB方式の武術とした理由について述べておこう。

 確かに、この居合術では、敵の体を掴む場合もあるが、基本的には武器術であるために、敵を常に掴んでいるわけではない。また、刀では敵に接触するものの、あくまで断続的な接触であり、継続的な接触ではない。

 しかし、この居合術というのは、通常の剣術家を仮想敵としており、そのために、勝負開始時から「我は有利、敵は不利」という状態になっている。何故なら、敵の間合である「一足一刀」の間合をとっくに通り越した状態から勝負が開始されるのであり、我はその間合で使う技の稽古をたっぷりと積んでいるのだが、敵はほとんどお手上げ状態だからだ。

 従ってまた、前記のように、敵である剣術家は、勝負開始時点でほとんど「居ずいて」しまっているのであり、その点でほとんど「陶物」状態でもある。もちろん、敵にもかろうじて取れる反撃手段もあるが、それもせいぜい、脇差で攻撃するとか、我の刀の柄を押さえるとかに限られるのであり、そうしたことも計算に入れて居合術の業技は工夫されている以上、ほとんど「陶物斬り」と言って良い勝負形態なのだ。

 結局のところ、敵がほとんど「居ずいて」おりあまり動けない状態である以上、空間的(間合的)・時間的(タイミング的)な変化が非常に乏しい戦い方になるわけだ。

 以上の諸点を考慮すれば、この剣術の戦い方は、通常の剣術のようなG方式ではなく、明らかにB方式と判断出来るのである。

 従って、この林崎流居合術は、「単独型(単独形)」で修行・上達が可能な武術なのだ。

抜刀術は剣術ではない

 さて、林崎甚助によって創始された「居合術」について概観してきたが、この「居合術」も、その後、様々な系統に分かれたはずだ。しかし、どのような流派になろうとも、前述のような超近間の剣術である限り、それは(「決闘専用の剣術」ではあったが)武術としての正統な「居合術」と言えよう。(もちろん、現在では、それなりの変形が見られる場合もあろうが、その場合には、その変形を正してオリジナルの技術に戻すことが出来れば、それは正当な「居合術」になる、という意味だ。)

 私個人は、この林崎流系統の(柔術と同じ)超近間の剣術のみを「居合術」と読んでいるのだが、それに対し、先述の、「一足一刀」の間合に仮想敵を設定するのを「抜刀術」と呼ぶことにしている。従って、本稿でも、以下ではそのように両者の名称を使い分けていくことにするが、では、その「抜刀術」については一体どう評価すべきなのであろうか?

 結論から言おう。

「抜刀術」というのは、明治後半から昭和初期あたりにかけて、本来の「居合術」の「単独型」の意味(分解)が失伝してしまったために、その「単独型」を、通常の剣術の間合、即ち、「一足一刀」の間合で解釈してしまった結果として生まれた似非剣術、と考えている。つまり、外見上は剣術のように見えるものの、実際は武術としての剣術などではない、ということだ。

 要するに、「抜刀術」というのは、一人で映画の殺陣をやっているようなものなのだ。

 では、何故そのように断言出来るのかというと、「抜刀術」では、「単独型(単独形)」の稽古方式を採用しながら、G方式の戦い方をするからである。

 今までの論証から明らかなように、G方式の武術では、絶対に「単独型(単独形)」の稽古方式は採用出来ない。自由勝手に動き回る敵を倒す技は、一人で行う「単独型(単独形)」の稽古方式では、絶対に身に付かないからだ。

 さらに、「居合術」というのは、「一足一刀」の間合での戦いを根本的に避けるところにその優位性があったわけだが、この「抜刀術」では、その優位性を自ら進んで捨ててしまっている。だから、例えば江戸時代に、林崎流の居合術から派生して、このような「抜刀術」が武術として誕生したなどということは、どう考えてもあり得ないことなのだ。

 具体的に見ても、この「抜刀術」の剣術としてのおかしさは、色々と指摘出来る。

「一足一刀」の間合に近づきつつある状況の中で、敵は既に刀を両手で持って構えているのだが、我の刀は依然として鞘の中にあり、その刀の柄には我の右手のみが掛かっている状態なのだ。これでは、刀を動かす自由度の点でも、刀の操作性の点でも、敵の方が断然有利なのであり、本質的に見て、「抜刀術」で戦う意義がどこにも無い。

 さらに、通常の剣術の斬撃であれば、我の両腕が前方にほぼ伸びたあたりでは、我の刀は既に敵の体に接触するはずだが、この「抜刀術」の最初の「抜刀技」では、我の右腕が前方にほぼ伸びたあたりでは、刀は未だ切っ先が鯉口を出るあたりなのであり、敵からすれば、我の右腕は切断するに格好の標的となってしまうのである。

 もっと言おう。この「抜刀術」の型を見ると、最初の「抜刀技」の後の諸動作が、あまりにも単純すぎるのだ。「抜刀術」というのは、最初の「抜刀技」以降は、通常の剣術と同様な戦いになるはずだが、それにしては、通常の剣術の組形のような、敵との細かな「駆け引き」などがほとんど全く無く、ただ刀を振りかぶり振り下ろす、それだけで一丁上がりなのだ。これで剣術家一人を倒せるのなら、剣術の組形の稽古などは無意味になろうと言うものだ。

(このように、「抜刀術」において、最初の「抜刀技」の後の諸動作が単調なのも、元々は「居合術」の型だったことが分かれば納得がいく。「居合術」であれば、「居ずいた」敵に対して、(「駆け引き」などはせずに)ほとんど一方的に攻撃する動作で成り立っているわけで、それを「一足一刀」の間合に誤って解釈してしまえば、単純な攻撃技になってしまうのも当然のことなのだ。)

 以上、「抜刀術」を稽古している人達にとってはショッキングな結論になってしまったと思うが、理論的に正しく到達した結論である以上、曲げるわけにはいかない。

 実は、私自身も、「抜刀術」の基礎は習ったし、その後も、好きで個人的には随分と「抜刀技」の稽古はした。しかし、どこかおかしさを感じていたので、それ以上専門的に習ったことはない。

 結局のところ、「抜刀術」というのは、「大いに変形してしまった居合術」なわけだが、現在では、それに加えて、新たに捏造された「抜刀術」の型や流儀というものまであるので、十分に注意してもらいたいと思う。

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*** プロフィール ***

プロフィール

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 長谷川光政

 昭和33年(1958年)、東京生まれ。

 中学生(12歳)の時に剛柔流の空手を習ったのが、空手との最初の出会い。

 それ以来、首里手系の空手や、フルコン系、防具系の各流派等でも空手を学ぶ。

 しかし、いくら修行をしても、どうしても既存の空手に納得がいかず、最終的には自分一人での研究・修行を続けることとなった。

 それから十五年以上が経過した四十歳台後半に至って、遂に、失伝していた古伝空手の核心的技術である「当破(アティファ)」を発見することに成功。

 それ以降は、その発見をきっかけに、古伝空手の型に関する様々な謎も解明出来るようになった。

 また同時に、糸洲安恒の創始した近代空手の代表型である平安(やナイファンチ初段~三段)についても、その謎を解き明かすことに成功した。

 現在では、琉球の古伝棒術等の研究も一通り終了しており、新たな発見等については、漸次、この「武術空手研究帳」の「増補」等を通じて公開発表していく予定である。

 東京大学教育学部体育学健康教育学科卒。