武術空手研究帳・増補(1)「異なる二つの戦闘方式」- 第6回(最終回)
[ この増補(1)では、「異なる二つの戦闘方式」について論じていく。
また、そのテーマと絡めて、「組形と単独型(単独形)」や「武器術と体術」という論点についても、共に解説していきたい。
今回は、その増補(1)の第6回目(最終回)である。]
剣術流派に含まれる居合抜刀技術
さて、以上のように述べると、次のような反論が予想される。
いくら武術が衰退し受難期であった明治以後とは言え、そのような「抜刀術」という似非剣術が誕生すれば、まともな剣術家の何人かは、一定の批判くらいはしたはずだ。しかし、そのようなことは聞いたことがない。また、江戸時代以前の文献からも、現代の「抜刀術」を肯定するかのような内容も読み取れる。以上をどう説明するのか、と。
これも結論から言おう。
古伝剣術の諸流派の中には、付随的に居合・抜刀系統の技術を伝承している流派があり、そういう剣術流派を学んできた者からすれば、「抜刀術」に対しても格別違和感は感じなかったのである。そして、このことは、江戸時代以前の文献に現れる居合や抜刀に関する記述とも、密接に関係してくる。
そこで、以下では、「古伝剣術の流派に付随的に含まれる居合・抜刀系統の技術」について、a)からc)まで、順次検討してみよう。
(なお、以下で検討するのは、我が行う居合・抜刀系統の技術についてなのであって、敵が居合・抜刀系統の技術を使用してきた場合に我がどう対処するか、という話ではない。江戸時代には、武士の日常の護身術として、敵がいきなり居合・抜刀系統の技術で攻撃してきたという想定で、それに対処するような技術も流派によっては研究されたのであり、そういう技術は組形にまとめられ、本来の剣術の組形とは別に稽古されたのだが、それらはむしろ柔術的な技法で構成されており、本件のテーマとは異なるので注意してもらいたい。)
a)まず、林崎甚助が居合術を創始した後に、その画期的な技術に着目して、自流の中に同様な技術を導入した流派もある。刀は(林崎流とは異なり)その流派の常寸のものを使ったが、超近間での戦いのための「単独型(単独形)」を新たに創作し、それを自流の中に取り込んだのだ。
しかし、このケースは本件とは基本的に関係がない。
b)次に、「抜刀技」という単技についてだが、この「抜き打ちざまに敵を切る」という技術自体は、非常に歴史が古く、林崎甚助が居合術を創始するはるか以前から存在した。
この技術は、戦場での乱戦にも有効とされていたし(そういう文献も残っている)、江戸時代になれば、咄嗟の場合の「護身術」的な技術として、流派によっては一定の稽古はされたのである。
つまり、ただ素早く抜刀しては納刀するという動作を繰り返して鍛錬していくだけなのだが、本来の組形の稽古とは別に、このような鍛錬をさせていた流派もある、という事だ。
この場合、その抜刀技は、超近間を想定しての居合術的な抜刀ではなく、その流儀本来の間合(即ち、「一足一刀」の間合)を想定しての抜刀なのであるから、現在の「抜刀術」の最初の一手と基本的には同じなのである。(もっとも、現在の「抜刀術」では、初一手の抜刀技をゆっくりと抜くようなやり方も流行っているようだが。)
但し、その抜刀技は、「抜刀術」などという一つの体系を作るための技術ではなく、あくまで単技としてのみ稽古されたにすぎない。
だが、そういう抜刀技の稽古をしている剣術家であれば、現在の「抜刀術」を見ても、極端に違和感を感じることはないであろう。
c)最後の例としては、「日本刀の基本的な操作方法を学ぶための抜刀型」というのが存在した点についてだ。
江戸時代に入って暫らく経つと、武士も滅多なことでは刀を抜けなくなった。刀を抜くときは人を切るときであり、人を切る以上は自らも切腹を覚悟しなければならなかったからである。
そうなると、自宅で刀を手入れする場合を除けば、刀を抜く機会など皆無になってしまったわけだ。
自宅で刀を手入れするときは、刀は腰に差してはいない。従って、腰に差した刀を抜く機会がなくなってしまったのである。
剣術の稽古に行っても、刀は預けた上で、稽古着と木刀で稽古したのであるから、やはり、腰に差した刀を抜く機会はなかったのだ。
そうなると、帯刀した状態から刀を上手く抜くことが出来なくなっても何ら不思議ではない。さらに、抜いたは良いが、上手く納刀することもままならなくなる。
まさか江戸時代の武士が、と思うかも知れないが、帯刀の状態から抜刀や納刀をした経験がほとんど無ければ、むしろ上手く出来る方が不思議なくらいだ。
さらに、別の問題もあった。
木刀での組形稽古を日々繰り返していると、それらが本来は日本刀を使っての武器術なのだということが、いつの間にか忘れ去られてしまう点にも、注意が必要だったのだ。(このことは、現在の剣道が、およそ日本刀を使っての武器術ではなく、竹刀を使った武器術に変化してしまっている状況を見れば、容易に理解出来ることであろう。)
以上の状況を踏まえて、剣術流派によっては、師範が、日本刀を使った抜刀から納刀までの一連の技からなる単独型を創作し、それを道場で入門者や初心者等に指導したケースもあったのだ。
つまり、イザというときの護身技の鍛錬を兼ねて初一手は素早い抜刀技にして、それから、その流派の基本的な各種構えからの打ち込みを幾つか行うことで、基本的な日本刀の太刀筋を覚えさせ、そして最後に納刀、というような型を作ったわけだ。
こういう型は、本格的な組形を習う前の「基礎作り」という位置付けで創作されたため、組形と同様の「一足一刀」の間合を前提とした動作から成り立っており、「単独型」であり、かつ、「体の型」だったのだ。
江戸時代の文献等で、たとえ名称が「居合」になっていても、「剣術の基礎として必要な居合」などと記されていれば、それは、こういう型のことを述べているわけだ。(林崎流の居合術は、通常の剣術とは、間合が大きく異なり、かつ、戦闘方式からして根本的に違うのだから、林崎流の居合術が剣術の基礎になるわけがない。だから、たとえ「居合」と書いてあっても、それは上記の「日本刀の基本的な操作方法を学ぶための抜刀型」のことを指しているのである。「居合」という用語にしても、江戸時代の剣術界全体で厳格に定義が定まっていたわけではなく、人ごとに恣意的に使われていたとしても、何ら不思議はないのだ。)
さて、この抜刀型は、上記の如く、「一足一刀」の間合を基準にして作られた「単独型」であることから、外見上見る限りでは、現在の「抜刀術」と全く同じになる。
従って、このような抜刀型が含まれている剣術流派において、その抜刀型の意義(即ち、「日本刀の基本的な操作方法を学ぶための型」であり、あくまで「組形」のための基礎作りの型なのであり、敵を仮想しない「体の型」である、ということ)が、しっかりと理解されていれば問題はなかった。
しかし、明治後半あたりから、そういう抜刀型の意義がよく分からなくなってしまったようで、そうなると、現在のような「抜刀術」を見ても、全く違和感を感じなくなってしまうわけだ。
(なお、現在に残る剣術流派の中に、居合術や抜刀術等の名称で抜刀型が含まれている場合が、上記のケースに該当するが、それらの抜刀型の全てが、昔からある抜刀型とは限らない。例えば、立位から始まる型が座位から始まるように変形している場合もあれば、中には、元々はそのような型は伝承されていなかったのだが、昭和のあたりで、その流派の指導者が「抜刀術」の流行を見て、新たに型を創作して流派の体系に加えたのかも知れない。)
以上、a)からc)と考察してきたが、現在の「抜刀術」の誕生には、c)が最も寄与したはずだ。
林崎流系統の居合術が大いに変形して現在のような「抜刀術」が生まれたのだが、その際には、上記のc)の存在が、その「抜刀術」の正当性を保障するような役割を果たしてしまったのである。
あるいは、林崎流系統の居合術が、そういうc)のような抜刀型の影響を受けて、型が大いに変形してしまった、という可能性も考えられる。
なお、全く別の可能性だが、江戸時代末期にそのような剣術流派に付随する抜刀型のみを学んだ後、明治維新を迎え、いったん剣術修行を止め、その後、その抜刀術を(剣術に付随する稽古法としてではなく)独立した「何々流抜刀術」として、他者に指導した者などもいたかも知れない。
さらには、流儀ごと全く新たに捏造された「抜刀術」というのもあるだろう。(空手界で、流儀や型や口伝の捏造を数多く見てきた経験からすれば、そういうことも十分にあり得ると確信している。)
以上のような諸過程を経て、現在の「抜刀術」が誕生したと考えられるのである。
幕末の暗殺剣及び戸山流抜刀術
さて、ここまで「古伝剣術の流派に付随的に含まれる居合・抜刀系統の技術」について見てきたが、ここでついでに、歴史上存在したその他の「居合・抜刀系統の技術」についても、以下のd)とe)とで、概観しておくことにしよう。
d)まずは、幕末の頃の「暗殺剣」についてだ。
当時、「人斬り何某」と呼ばれた「暗殺剣」の使い手としては、土佐の岡田以蔵や薩摩の田中新兵衛がいたが、彼らは「居合・抜刀系統の技術」とは関係ない。その技術と関係があるのは、肥後の河上彦斎と薩摩の中村半次郎(後の桐野利秋)の二人だ。
まず、佐久間象山を暗殺した河上彦斎だが、彼は独学で抜刀技を磨いたと伝えられている。その抜刀技は、伝えられる所から察するに、現在の「抜刀術」の初一手の素早い抜刀技(いわゆる「スッパ抜き」)と基本的に同じような技術だったと思われる。
これに対し、中村半次郎については、次のような暗殺シーンが語り継がれている。
半次郎が、往来で、暗殺のターゲットとすれ違い数歩過ぎたあたりで、そのターゲットは首から血を噴出してその場に倒れ、半次郎の方は、何事も無かったかのように、そのまま歩き去った、ということだ。
さて、これは、どのような技だったのであろうか?
まず、当時は、武士は左側通行であった(右側通行だと、鞘同士が当たりやすくなり、もしそうなったら、武士の面目を掛けての斬り合いになり兼ねず、それを避けるために左側通行になった)。よって、ターゲットは半次郎の右側を通過したことになるが、このターゲットが、正面を向いて歩いている半次郎の視界から消えたその瞬間、半次郎は素早く抜刀するや、切っ先を自らの右後方に降ろし、そのまま素早くターゲットの右首筋を引き斬りして、それから静かに素早く納刀したものと思われる。
おそらく、この場面を近くで目撃した町人でもいれば、彼の目には、二人の武士がすれ違うときに、何かキラッと光ったように感じたもののそれが何かは分からず、その後両者がそれぞれ数歩ずつ歩んだあたりで、一方の武士が首から血を噴出して倒れた、と写ったことであろう。
この技は、先の河上彦斎のような剛剣と比較すると、むしろ柔剣とでも評すべき日本刀の使い方である。
中村半次郎は薩摩藩士であり、薩摩と言えば示現流(あるいは自顕流)である。だから、イメージとしては剛剣が相応しいのだが、上記のような刀の使い方は、どう見ても剛剣ではない。
では、半次郎は、一体どうやって、そのような柔らかい剣技を身に付けたのであろうか?
それについては、半次郎にまつわるある有名なエピソードがある。
彼は、雨垂れが軒から落ちるのを抜刀して斬る稽古を重ね、遂には、雨粒が地面に落ちるまでに三回切れるようになった、とのことである。
人によっては、半次郎はこのとき、抜刀から納刀までを三回繰り返した、などと記しているが、そうした技は、天狗ならばともかく、およそ人間に出来るものではない。物事には限度というものがあるのだ。
(念のために述べておく。
抜刀と納刀を繰り返しながら、地面に落ちる雨粒を三回斬る、となれば、「抜刀、納刀、抜刀、納刀、抜刀」で三回斬ったことになる。
さて、現実にはあり得ない想定だが、この内の納刀二回分を計算から外し、抜刀だけを行ったとしよう。つまり、抜刀して雨粒を斬ったら、次の瞬間、再び、刀は鞘に入っており、右手は柄を掴んでおり、直ちにまた抜刀を行う、という想定だ。
この想定のもと、雨粒が地面に落下するまで、果たして何回抜刀出来るであろうか?
一回や二回は出来るであろうし、鍛錬すれば三回も可能ではあろう。
しかし、これに一回でも納刀という動作を加えてしまったら、雨粒が地面に落ちるまでに全ての動作を終えるのは、絶対に不可能になる。何故なら、納刀一回は、抜刀一回分以上に時間が掛かるからだ。
よって、抜刀から納刀までを三回繰り返した、というのは、明らかな間違いである。)
では、一体どのように雨粒を斬ったのであろうか?
おそらく、まず素早く抜刀し雨粒を斬り(一回目)、次に素早く切っ先を反転させるや再び雨粒を斬り(二回目)、最後に再度切っ先を反転させてもう一度雨粒を斬った(三回目)、と思う。
つまり、二回目と三回目は、雨粒が落ちるのに合わせて切っ先を下げながら斬ったはずだが、その間、切っ先は、左右の方向には短い距離しか動かなかった、と考えられる。(映画「怪傑ゾロ」の中で、主人公のゾロは剣先で「Z」の文字を刻むが、それと同じような技術を、半次郎は日本刀を使って、軽やかに、素早く、かつ、正確に行ったということだ。)
そもそも、この稽古は、力強さは関係なく、素早さと正確さを磨く稽古であったことは明らかであり、さらに、上記のように刀を操作すれば、右手首を柔軟かつ強く鍛えることが出来る。
上記の一回目終了後の右手首の反転のさせ方は、先述のターゲットの右首筋を引き斬りした直前の右手首の反転のさせ方と、基本的に同じである事がお分かりになると思う。
中村半次郎は、このような稽古を通して、やはり独学で暗殺剣を磨いたのだ。
以上が、幕末の頃の暗殺剣についてなのだが、これも、歴史上存在した「居合・抜刀系統の技術」には違いないものの、残念ながら日本の武術の範疇には入らない。
中国武術などは、暗殺技術などもその範疇に数えるようだが、日本の武術では、暗殺剣のような技術は「卑怯」な技術故に、決して武術とは認めないのである。
よって、上記の二人も、その技術は独学で稽古したのであり、また、二人共、そうした技術は後世には残さなかったはずだ。
従って、上記の暗殺剣の技術は、現在の「抜刀術」とは一切関係がないことになる。
e)では今度は、他の歴史上存在した「居合・抜刀系統の技術」について述べてみよう。
それは、陸軍戸山学校で制定された抜刀術のことである。
現在では戸山流抜刀術と称されているこの武器術は、白兵戦時における軍刀での戦闘術を短期間に兵士に叩き込むために考案されたものだ。
敵に向かって、鋭い抜刀技を行った後に、さらに数度攻撃を加える、という短い型(形)が、前後左右それぞれの方向に向けて構成されており、かつ、試斬(試し斬り)も行うのだが、日本の軍隊の武器術である以上、仮想敵は当然に日本剣術家であるはずがなく、また、いきなり抜刀技で斬り付けるのも、外国の兵士に対してなら十分に効果的、という配慮もあったと思われる。
いずれにせよ、武術というレベルで考案された武器術ではなく、短期速成の軍刀戦闘術であったわけだ。
この軍刀による戦闘術は、時代的に見て、本件で考察している「抜刀術」に影響を与えた可能性よりも、むしろ、既に成立していた「抜刀術」が、この軍刀戦闘術の誕生に関与していた可能性の方が大きい。
ただ、この軍刀戦闘術は、「一足一刀」の間合での抜刀技というものを、対人戦闘術として現実に採用したことで、本件で扱っている「抜刀術」に対しても、それなりの正当性を与える役割をしたことは事実であろう。
以上から分かるとおり、残念ではあるが、やはり、本件で取り上げている「抜刀術」というのは、本来の「居合術」の「単独型」の意味(分解)が失伝してしまったために、その「単独型」を、通常の剣術の間合、即ち、「一足一刀」の間合で解釈してしまった結果生まれた似非剣術なのである。即ち、武術(剣術)ではなく、有体に言ってしまえば「一人殺陣」のようなものなのだ。
では、この「抜刀術」には全く何の価値もないのか、というと、上記のa)~e)から分かるように、幾つかの意義は見出せる。
まず、帯刀時に突然襲い掛かられた場合の、咄嗟の「護身術」が学べる、という意義。(但し、「スッパ抜き」で抜刀技を稽古していなければ、この意義は無くなるが。)
次に、「日本刀の基本的操作方法」が習得出来る、という意義。
最後に、武術(剣術)とまでは言えないが、戸山流抜刀術のように、一定レベルの日本刀での武器術・戦闘術が学べる、という意義。(但し、このためには、ある程度の「試斬」の経験が必要になろう。)
以上の三つが、この「抜刀術」の意義と言えよう。
さて、本稿では、「様々な戦闘術における、異なる二つの戦闘方式」というテーマを主軸にして論を展開してきたが、合わせて、組形と単独型(単独形)、武器術と体術、という論点も絡めて見てきたわけである。
その結果、空手以外の領域でも、今まで疑問を感じてきた事柄にメスを入れることが出来、当初の予想を上回る成果を出すことが出来た。
もちろん、このテーマに関しても、まだ他に述べるべき論点はあるが、それらはいずれ機会があれば、また改めて論じることにしたいと思う。
本稿が、読者諸兄の武術等の研究・思索の一助になれば幸いである。
武術空手研究帳・増補(1) - 完 (記:平成二十六年六月、公開:平成二十六年七月)