武術空手研究帳

武術空手研究帳・増補(2)「大石進は何故強かったのか?」

 [ 増補(1)で解説した「異なる二つの戦闘方式」という論点は、「当破」にも匹敵するくらいの重大な発見と自負しているので、別のテーマに移る前に、書き残した点を本稿において幾つか補っておきたい。]

増補(1)「異なる二つの戦闘方式」への追記

 まず確認しておきたいのは体術についてであるが、現代空手のような「G方式」の体術は、確かに武術としての体術本来の戦い方(即ち「B方式」)ではないが、一定の条件下では実戦にも使いうる、という点だ。

 つまり、敵が我に比して「明らかに弱い」という場合などでは、この「G方式」という戦い方で簡単に決着を付けることも出来るわけだ。

 実際、「武術空手家(即ち、近代空手家、又は、古伝空手家)」であっても、敵が「明らかに弱い」場合には、「打突技」のみで勝負することも可能なのである。

 しかし、敵がそれなりに強くなってくると、もう「G方式」の戦い方であっさりと片付けるというわけには行かないのであり、「B方式」で戦う技術が不可欠になってくるのだ。

 このことを昔の武術家達は良く分かっていたので、日本の武術の体術である柔術は「B方式」を採用したのである。(「B方式」の体術でよく登場する「投げ技」というのも、本来は、敵の体重と重力及び地面(又は自然・人工の構造物)を利用した「強烈な打突技」だったのであり、決して「柔法」などというような言葉でイメージされるようなマイルドな技ではなかったのだ。)

 いずれにせよ、武術としての体術は「B方式」と「G方式」のいずれを採用すべきか、という論点については、敵がナイフで襲ってきた場合を想定してみれば、容易に判明することである。

 危険回避の点からしても、そのナイフを持った敵の腕を払うことが出来たら、直ちに敵のその腕を掴むなりして、ナイフの働きを封じるべきであり、これこそまさに「B方式」の戦い方になるわけだが、あくまで「G方式」で最後まで戦うとするならば、絶対に敵の腕等を掴んではならないことになるわけで、やはり「G方式」はスポーツ的な戦い方と言えよう。

 次に、いわゆる「中国拳法」についてだが、中国拳法の「単独型」の中には、「対打(対練)」の我の動き(即ち、「仕手」の動き)のみを取り出して創ったような単独型もあるが、それは「稽古相手がいない時に便宜的に行う一人用の対打(対練)」に他ならないのであり、「武術空手の単独型」のような完全に独立している稽古法とは意味合いが全く異なる点に注意願いたい。

大石進は何故強かったのか?

 さて、本稿の最後として、前稿の増補(1)に対する反論を想定し、それに対する再反論を示しておくことにしよう。

 まず、増補(1)で述べた極めて重要な結論(の一つ)は、“「単独形」は、B方式の武術でしか採用出来ない”ということであった。

 この結論も、武術(研究)史上における重要な発見と密かに自負しているのだが、いずれにせよ、このような結論を記すと、次のような反論が予想されるのである。

 それは、幕末に剣術界を震撼させた「大石進」に関するエピソードのことである。

 ご存知の方も多いと思うが、念のために簡略に記しておくと、柳河藩士であった大石進は、愚鈍と評されていたが、ある試合で惨敗を喫して以来一念発起し、石(鞠との説もある)を縄(紐)でつるし、これを突くこと三年、遂に天下無敵の突きの一手を完成させたという。この時、大石進十八歳。後に江戸に出て、得意の突き技で多くの道場を破り、江戸の剣術界を震撼させた、というエピソードである。

 つまり、「剣術(即ち、「G方式」の武術)は一人稽古で強くなれる」というわけで、“「単独形」は、B方式の武術でしか採用出来ない”という命題は成立しないのではないか、という反論が予想されるのである。

 実際、私が若いころは、この大石進のエピソードは結構有名で、私自身もこの稽古法を実践していた時期もあったほどである。

 しかし、結論から言うと、以上の反論は、以下の二つの点で反論にはなっていないと言える。

 まず、第一点としては、“単独形は一人稽古の一種だが、一人稽古は単独形とは限らない”ということだ。

 つまり、大石進が行っていた「動いている石を竹刀等で突く稽古」は、確かに一人稽古ではあるが、単独形の稽古ではないのであって、従って、“「単独形」は、B方式の武術でしか採用出来ない”という命題に対する反論には全くならないことになる。

 さらに、もう一点、ここで指摘しておきたいことがある。

 この大石進のエピソードを基にして、大石と同様の稽古を積めば誰でも三年ほどでトップレベルの剣士になれるかのように主張する意見も過去にはあったのだが、残念ながら、通常それは無理、という点だ。

 つまり、このような一人稽古を三年ほど積めば、誰でも全日本剣道選手権大会でトップクラスの成績が収められる、というような事はまず起こりえないのだ。

 もちろん、このような稽古を積めば、それなりに突き技が得意にはなるであろう。

 しかし、通常はそこまでであって、それ以上の成果を望んでも無理、ということなのである。

 では何故、そのように断言出来るのか、というと、昔からこの大石進のエピソードを語る人達は、何故か「ある重要な事実」については等閑に付してしまうのである。

 では、その「ある重要な事実」とは一体何か、というと、“大石進は五尺三寸(約160cm)という超長竹刀を使用していた”という事実のことである。

 この事実は、大石進のエピソードにも大抵は登場してくるのだが、何故かこの点については、あまり重要視されないのだ。

 しかし、大石が江戸の道場破りで快進撃を遂げることが出来た最大の秘密は、この超長竹刀の使用にこそあったのだ。

 つまり、“「G方式」の武術の世界では、操作性に問題が生じない限り、一般に、長い武器の方が有利”という定理が成り立つのである。

 これは、「G方式」の武術の勝負では、武器の長さよりもずっと遠く離れた状態から勝負が開始されるのであり、従って、長い武器を手にした者の方が、先に攻撃可能となり、短い武器を持った者よりも勝負で有利な立場に立てる、ということなのだ。

 有利な立場に立てれば、十中八九は勝てるわけで、結局のところ、超長竹刀の使用こそが大石の強さの最大の秘密だったわけである。

 もちろん、超長竹刀を使ったとしても、三年間の一人稽古がなかったならば、その有利な超長竹刀を使いこなすことが出来なかったであろうが、他方で、三年間の一人稽古をしたとしても、その後大石が普通の長さの竹刀を使用していたならば、剣術史に残るような大活躍は無かった、と言えよう。

 もう一度言うが、大石の強さの「最大」の秘密は、三年間の一人稽古の方ではなく、超長竹刀の使用にこそあったわけだ。

 今日まで、この大石進のエピソードを評価する人達は、一人稽古の方を強調しすぎると同時に、この超長竹刀の有利さの方は、余りにも過小評価しすぎていたと思う。

 つまり、「剣術(即ち、「G方式」の武術)は一人稽古で強くなれる」という命題の根拠として大石進のエピソードは語られてきたのであるが、その命題には「有利な武器を持てるならば」という条件が付いていることを、忘れてはならないのである。

 *「増補(1)の第5回」で、いわゆる「抜刀術」というのは武術ではない、と断言したが、このことを理解出来る人が余りにも少ないことに愕然とせざるをえない。

 もう現在ではこの「抜刀術」という似非武術は十分に市民権を得てしまっているため、大勢に流されやすい人ほど、「抜刀術」は武術にあらず、などという意見は受け入れがたいのであろう。そしてまた、自ら「抜刀術」を稽古してきた人達は、時間やお金を掛けてせっせと習得したことを、今さら否定する勇気等は持ち合わせていないのであろう。

 ただ、もし自前で考えることが出来る頭を持っているのならば、林崎流に伝わる次のような言葉の意味をどう解釈するのか、自問自答してみてもらいたい。

 それは、「居合とは、三尺三寸の刀を以て、敵の脇差・小刀の攻撃を制する術也」というような言葉についてである。

 もしこれが、「G方式」の戦い方を前提としての言葉であるならば、まことにもって陳腐な言葉になってしまう。何故なら、上記本文でも記した通り、三尺三寸という長刀を以て、敵のより短い脇差・小刀の攻撃を制するのは、基本的に容易なことなのであり、さして自慢出来るようなことではないからだ。

 それにも関わらず、上記のような言葉が林崎流に残っているのは、「前提が正反対」だからなのであり、それ以外に、上記の言葉が正当に成立する可能性は無いのである。

 つまり、我と敵が、遠い間合いから近付きながら戦うという「G方式」の戦い方ではなく、いきなり極端な近間から勝負を開始するという戦い方であってこそ、上記の言葉の凄さが光るのだ。何故なら、そのような極端な近間では、明らかに、三尺三寸という長刀は不利で、より短い脇差・小刀の方が有利なのであり、その不利な状況を突破して敵を倒す術が林崎流居合術だったからである。

武術空手研究帳・増補(2) - 完 (記:平成二十七年十一月)

(=> 増補(3)「”チャンミーグヮー” 今野敏著(集英社)を読んで」へ進む)

*** プロフィール ***

プロフィール

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 長谷川光政

 昭和33年(1958年)、東京生まれ。

 中学生(12歳)の時に剛柔流の空手を習ったのが、空手との最初の出会い。

 それ以来、首里手系の空手や、フルコン系、防具系の各流派等でも空手を学ぶ。

 しかし、いくら修行をしても、どうしても既存の空手に納得がいかず、最終的には自分一人での研究・修行を続けることとなった。

 それから十五年以上が経過した四十歳台後半に至って、遂に、失伝していた古伝空手の核心的技術である「当破(アティファ)」を発見することに成功。

 それ以降は、その発見をきっかけに、古伝空手の型に関する様々な謎も解明出来るようになった。

 また同時に、糸洲安恒の創始した近代空手の代表型である平安(やナイファンチ初段~三段)についても、その謎を解き明かすことに成功した。

 現在では、琉球の古伝棒術等の研究も一通り終了しており、新たな発見等については、漸次、この「武術空手研究帳」の「増補」等を通じて公開発表していく予定である。

 東京大学教育学部体育学健康教育学科卒。