武術空手研究帳・増補(3)「”チャンミーグヮー” 今野敏著(集英社)を読んで」
[ 今野敏氏の武術や格闘技を扱った小説は、面白いのでよく読む。
表題の”チャンミーグヮー”(集英社)もその一つで、船越義珍や本部朝基と同世代の古伝空手家である喜屋武朝徳を主人公にした小説だ。
さすがに今野氏はベテランの小説家なので、小説としては、いつも通り楽しく読書出来たが、如何せん空手に関しては、氏は現代空手家ではあっても、古伝空手に関係する箇所では、読んでいて首を傾げざるをえない場面がいくつかあったのも事実だ。
そこで今回は、同書の中から、記述に疑問を感じる所を二箇所ほど取り上げて、論評を加えてみることにしたい。
合わせて、古伝空手の型の「真の分解」の一部を公開しようと思う。]
その場突き
まずは、喜屋武朝徳が十四歳になって、初めて父親から古伝空手を習う場面である。引用してみよう。
『翌日からさっそく稽古が始まった。早朝に起こされ、庭に来るように言われた。
朝弼とともに、庭に裸足で立つと、父も庭に下りてきた。「やってみせるから、そのとおりにやりなさい」
父は膝を張って腰を落とし、左手を前に突き出し、右手を胸の脇に引き付けた。
鋭い呼気の音を発すると、胸の脇の右拳を突き出した。同時に左の拳を胸の脇に引いている。それを交互に繰り返した。』 同書 - P.31~32
見られるとおり、喜屋武朝徳の父親が指導しているのは、紛れも無く現代空手の「その場突き」である。しかも、引き手は胸の高さだ。
「武術空手研究帳」の読者ならもうお分かりとは思うが、「その場突き」等のいわゆる「その場基本」というのは、現代空手に特有の稽古法なのであって、古伝空手の時代には、そもそも存在しなかった稽古法なのである。
さらに、引き手が胸の高さ、というのは、これも「武術空手研究帳」で指摘した如くに、宮城長順が現代空手の剛柔流で初めて採用した引き手の方式なのであり、喜屋武朝徳が古伝空手を始めた頃には存在しなかった引き手の方式なのである。
結局の所、上記の引用部分は、喜屋武朝徳が行ったであろう稽古法について、あくまで現代空手を基にして推測しているにすぎず、決して古伝空手の稽古をリアルに描写しているわけではない、と言えよう。
喜屋武朝徳のエピソード
今度は、喜屋武朝徳にまつわるかなり有名な、村の暴れん坊を一瞬で背後の川に叩き込んだエピソードについて、である。
これも、引用してみよう。
『二人は、朝徳の自宅のそばの、比謝川のほとりにやってきた。
比謝川には船着き場があり、さらに比謝橋は、その船着き場から坂を登ったところにある。比謝橋のたもとに立てば、川面は、はるか下だ。石積みの河岸は切り立っており、橋には欄干もない。
様子を見に来ていた村の住民がぞろぞろとついてきて、朝徳たち二人を遠巻きに囲んだ。朝徳はさらに人が集まるのを待った。見物人が多ければ多いほど効果がある。
やがて、朝徳は、その河岸を背にして立った。一歩後ろに下がれば、二間ほど下の川面に真っ逆さまだ。
松田は、朝徳の正面に立った。
「ふん、そんな場所に立つとは、やはり喧嘩を知らぬようだな」
向かい合ってみると、松田は朝徳よりもはるかに大きい。筋骨も逞しい。
松田は、手小のように構えた。だが、見よう見まねらしく、理に適った構えとは言い難い。
朝徳は何も言わず、松田の出方を見ていた。
松田が腰を落とす。次の瞬間、一歩踏み出し、右の拳を朝徳の腹に打ち込んできた。
朝徳は落ち着いていた。いつも稽古している動きだ。相手の右側に転身し、脇をすり抜ける。同時に、相手の右の大腿部に足刀を放っていた。
「あっ・・・」
声にならない声が上がった。
松田の巨体は宙を舞い、大きな水音を立てて川に落ちた。』 同書 - P.283~284
上記の喜屋武朝徳が放った技についてだが、今野氏は、伏線として、上記の記述に先立ち次のように記している。
『そうした研究と同時に、背水の陣からの転身に、ますます磨きをかけた。
相手の一瞬の隙をついて、脇に転身する。そこから、拳を打ち込むだけでなく、蹴りも出せるように稽古した。
朝徳にとって蹴りは重要だった。体が小さいので、相手の攻撃をかわしながら遠い間合いから攻撃できる、足刀による横蹴りを特に稽古した。
横蹴りは、朝徳の得意技となった。』 同書 - P.228
さて、今野氏も、現代空手を基にして、喜屋武朝徳の技を考案しなければならなかったのであり、その結果生み出されたのが上述のような技、というわけだ。(もっとも、上記の内容からすると、今野氏は、長嶺将真著「史実と口伝による沖縄の空手・角力名人伝」(新人物往来社)に記載されている喜屋武朝徳のエピソードを基にして、上記を執筆した可能性もあるが、とりあえずここでは今野氏考案による見解として取り扱うことにしよう。)
しかし、結論から言って、上述のような技には無理があると思う。
敵の脇をすり抜けて素早く敵の側面・背後に回り込んだ瞬間には、移動に伴う慣性が朝徳の体全体に働いているわけだが、それを一瞬で止めるのみならず、今度は概ね反対の方向に向けて横蹴りを放つわけだ。
以上のことを、敵が正拳突きを放つのとほとんど同じ時間枠で実行しなくてはならず、まぁ、天狗でもない限り、かなりすばしこい人間でも、現実には不可能な技と思う。
それに、そもそも、喜屋武朝徳は古伝空手家なのである。現代空手家ではないのだ。
だから、朝徳が横蹴りを使った、というのもおかしな話しになる(そもそも横蹴りという技は、空手近代化に際し、「蹴りの名手」と言われた安里安恒が、「倒木法を使わない最も強力な大衆的蹴り技」というテーマの下で開発し船越義珍に伝授した技だからだ)。
それに、何よりも、朝徳が古伝空手家である以上は、彼がその時どのような技を使ったのか、という問いに対する答えとしては、「どの型の第何挙動の(真の)分解の技」を使って戦った、というように答えるのが、正しい答えになるのである。
さて、以前に述べた通り、私は武術に関しては秘密主義者であり、古伝空手の型の「真の分解」を(特にネット上で)公開することなどはまずあり得ないのであるが、諸般の事情を鑑み、今回のみは例外中の例外として、特別に公開することにしよう。
では、喜屋武朝徳は、その松田という暴れん坊と戦った時に、一体、「どの型の第何挙動の(真の)分解の技」を使ったのであろうか?
結論から述べる。
「ワンシュウ(松涛館流では“燕飛”)」の「第一挙動」の分解を使って戦ったのだ。
ワンシュウ(燕飛)
私は、現在までに、十八種類の古伝首里手及び古伝泊手の型の復元を完了している。
その内、「体の型」の二種を除く十六種類の型が「用の型」であるが、これだけあれば、喜屋武朝徳が習得していた「用の型」も、まずはこの中に全て含まれていると言えるであろう。
そして、その十六種類の型の「真の分解」に登場する全ての技を考察してみても、一瞬で敵を背後の川に叩き込める技というのは、「ワンシュウ(燕飛)」の「第一挙動」の分解が示す技をおいて他にはないのである。
従って、喜屋武朝徳がそこで使った技というのも、この技に間違いない、と自信を持って断言出来るわけだ。
さて、現在、どの空手流派の如何なる型も、全て大なり小なり変形している。
それは「ワンシュウ」とて例外ではない。
中には、変形に変形を重ねて、オリジナルとは似ても似つかない「ワンシュウ」になってしまった型すらある。
しかし、結局の所、現存する「ワンシュウ」の中で最もオリジナルに近いのは、やはり船越義珍が伝えた松涛館流の「ワンシュウ(燕飛)」なのである。
そこで、その松涛館流の「ワンシュウ(燕飛)」の第一挙動の動作を、ここで簡単に確認しておきたい。
用意の閉足立ちから始まり、まず、左足を左方に一歩移動させつつ(この時、左足つま先は左方に向ける)、急速に上体を左足の方に向けて沈め、右足は閉足立ちの位置でつま先を左方に向けて上足底を床につけ(右足踵は上げて)、右膝は床に付け、右拳は床に突き刺すかのような格好で右腕を伸ばし、左拳は右方に向けて小さくアッパー・カットを行ったようなポーズになる。以上が、松涛館流の「ワンシュウ(燕飛)」本来の第一挙動の動作である。
大雑把に言えばこの動作で大体間違いはないのだが、一箇所、変形を正しておくと、オリジナルとは右足の動きが少し違っているのだ。
右足は、上記では、閉足立ちの位置でつま先立たせるのだが、正しくは、一足分ほど右方にずらしてつま先立たせるのである。
では、オリジナルの「ワンシュウ(燕飛)」の「第一挙動」の動作が判明したところで、今度はその「真の分解」について解説しよう。
今野氏によれば、松田という暴れん坊は、一歩踏み出しながら右拳を突き出してきたことになっているが、真実は異なる。
その暴れん坊が喜屋武朝徳に向けて放った技は、「ぶちかまし(体当り)」だったのだ。
「ワンシュウ(燕飛)」の「第一挙動」の「真の分解」とは、我に向けて「ぶちかまし(体当り)」を仕掛けてくる敵をギリギリまで引き付けておいて、最後は素早く身をかわすことで、敵の足を我の右脚のスネにつまずかせて、敵を我の後方に倒す、という技だったのである。
(敵が「ぶちかまし」を行ってくる時、通常は、両腕は胴体の前辺りに置いているものだが、人によっては腕を動かしながら「ぶちかまし」を行う場合もあり、その時に不覚のパンチ等を食らわないために、第一挙動では我の両前腕を我の正中線上に「盾」のように配置しているわけだ。つまり、第一挙動終了時の我の両腕のポーズは、念のための受け技(ブロック技)なのである。
よって、細かく言えば、先の第一挙動の動作の内、左前腕については、もっと上方まで動かして、我の顔を大体カバーするように配置するのが正しいことになる。この様にすると、左右の肘同士が近づくわけだが、右足の動作同様、この左腕の動作も、「真の分解」の発見を困難にする目的で、船越義珍によって変形させられた動作なのである。)
ここで一応注意しておくが、この「ワンシュウの第一挙動の分解」という技は、あくまで、敵が「ぶちかまし」という「体当り」をして来た時の対処技なのであって、他の種類の「体当り」には通用しない、ということだ。
「ぶちかまし」それ自体は相撲用語だが、この技は要するに、肩(や頭部)を敵の体(主に胸)にぶつけて、打突技的なダメージを与えると共に、敵を体ごと突き飛ばす技なのである。(この技は、宮本武蔵も「五輪の書」の「水の巻」の中で、「身のあたりといふ事」と題して述べているほど、古くからある攻撃法なのだ。)「ぶちまかし」は、相手に向かってダッシュしながら掛ける技であるため、相手が上述のように「ワンシュウの第一挙動の分解」の技を巧みに掛けて来た場合には、高い確率でつまずいてしまうことになるわけだ。
これに対し、「体当り」の中には、他に、例えば「タックル」がある。
これも、ラグビーの「タックル」のように、宙を飛んで相手の腰あたりに抱きついて共倒れになって相手を倒すやり方もあれば、レスリングのように、相手の脚を抱えて相手を倒す方法もある。いずれにせよ、同じ「体当り」でも、「タックル」に対しては、この「ワンシュウの第一挙動の分解」という技は通用しないので、注意願いたい。
* この「ワンシュウの第一挙動の分解」という技は、「ぶちかまし」に対して巧みに掛けることが出来れば、高い確率で成功する技ではあるが、敵自身の「自爆」に依存する技なので、敵がつまずきながらも何とかバランスを保つなどすれば、失敗する可能性も若干はある。ただ、失敗した時は、「第二挙動以降の分解」へと繋げていけば、敵を確実に制圧出来るように「ワンシュウ」という型は設計・構成されている。
(このように記すと、「では、ワンシュウの第二挙動以降の分解という多数の技は、第一挙動の技に失敗した時でなければ、使うチャンスがないのか?」と思う人もいるかも知れない。しかし、それは「砕き」を知らないからそのように考えるのであって、「砕き」さえ分かれば、第二挙動以降は、第一挙動に失敗した時のみならず、その他の様々な場面でも使用・応用可能であることが理解出来るようになる。「砕き」については、拙著「武術の平安」の中で、具体例を挙げながら非常に詳しく解説してあるので、是非そちらを参照願いたい。)
** 上記では、正しい第一挙動の右足の動きは“一足分ほど右方にずらしてつま先立たせる”と簡略に記したが、もう少し詳しく説明すると、「ぶちかまし」という技は、ほぼ真半身になって行われる技であり、よって、敵の両足はほぼ一直線上を動いてくるのであるから、その直線の延長が我の右スネの中央辺りにぶつかるように、右足を配置すれば良いわけである。
*** 上記の正しい「ワンシュウ」の第一挙動というのも、ここでは古伝空手の「ワンシュウ」そのものを意味しているのだから、「左足を左方に一歩」についても、古伝空手の立ち方の足幅での一歩を意味することに注意してもらいたい。
そもそも、古伝空手の立ち方の足幅とは、基本的に言えば歩くときの「歩幅」程度の広さだったのだが、糸洲安恒が「武術の平安」を創るときに、「倒木法(倒地法)」の威力を増加させるために、立ち方の足幅をより広くして「肩幅の二倍弱」程度にしたのである。
後に糸洲は、「武術の平安」を元に「体育の平安」を創作したが、子供達の運動効果を考えて、立ち方の足幅は「武術の平安」と基本的に同じにした。この「体育の平安」の立ち方が、現代空手にそのまま採用されたのである。だから、現代空手の立ち方の足幅は(古伝空手よりも)広いわけだ。
(もっとも、現代空手の「前屈立ち」については、自然体からそのまま真後ろに後退するという約束組手の影響で、肩幅程度の横幅を取るように変形してしまったが、「体育の平安」の前屈立ちは、昔の沖縄の学校での集団稽古の写真を見ても分かるように、古伝空手や「武術の平安」と同様に、両足踵を一直線上に並べる方式だったのだ。)
結局のところ、正しい「ワンシュウ」の第一挙動とは、左方に左足を(歩幅程度)一歩移動させ、右方に右足つま先を一足分ほど動かすことになるので、第一挙動終了時の両足の幅は、現代空手の立ち方並みの広さくらいになるわけである。
**** 拙著「武術の平安」の受講者の方ならもうお分かりとは思うが、確認のために記しておく。糸洲安恒は、後に船越義珍が「松涛館七つの型」として選定した型を元にして「武術の平安」を創作したわけだが、その「松涛館七つの型」の一つであったこの「ワンシュウ」の第一挙動の運足もまた、古伝空手のDNAの一つとして、例の「開き足」の開発へとつなげていったわけである。
***** 上記本文でも記した通り、現在、どの空手流派の如何なる型も、全て大なり小なり変形しており、この「ワンシュウ」の第一挙動についても、やはり色々な変形が見られる。最近では、松涛館系でも、右腕を下段払いのように動かす団体もあるようだが、こういう勝手な変形が加わると、その分「真の分解」を発見するのも困難になってくる。
しかし、もっと酷い変形は、「敵は正面に一人」という古伝型の開始に関する「例外なき一大鉄則」を捻じ曲げ、明らかに正面とは別の方向に敵を定めて動作を開始する「ワンシュウ」が存在することだ。つまり、第一挙動についても、左方に顔を向け、左方に向かって受け技や突き技等の動作を行うのであり、ここまで変形が進んでしまうと、オリジナルへの修復は完全に不可能であり、「真の分解」は永遠に不明のままとなってしまうのである。
(機会があれば、いずれ「増補」の項目として取り上げて詳述するが、ここで簡単に記しておけば、「型の変形」であっても、船越義珍のような古伝空手家が行った変形には、一定の目的や節度があり、また、それなりのルール等があるために、見る人が見ればオリジナルに戻すことも可能なのだが、古伝空手を知らない者が行った変形の場合には、その変形の仕方や程度がメチャクチャなので、もうオリジナルへの復元は不可能になってしまう、ということなのだ。)
喜屋武朝徳の思惑
さて、真実が分かると、他にも色々と見えて来ることがある。
上述の喜屋武朝徳のエピソードだが、彼が川を背にして構えた理由も、もうお分かりのことと思う。
今野氏は「背水の陣」という言葉を出していたが、喜屋武朝徳が川を背にしたのは、決して自分自身を追い込むことで奮起しようとしたからではない。
そうではなく、松田という暴れん坊に「ぶちかまし」をさせるように仕向ける狙いで、川を背にしたわけだ。
喧嘩というのも、激しいものであれば、人間の存在そのものの否定、即ち、殺し合いレベルにまでエスカレートしうるが、通常は、単に相手を肉体的・精神的に貶めれば足りるのであって、さすれば、衆人環視の中で、相手を川などに突き落としてやれば、濡れネズミの惨めな姿を人々の前に晒すことになるわけだ。
従って、川を背にした喜屋武朝徳を見て、松田が「ぶちかましで、こいつを川に突き飛ばしてやろう」と心を決めたのも、実に自然な成り行きと言えよう。
こうして、この勝負では、最初から喜屋武朝徳のプラン通りに事が運んだ次第だったのである。
ところで、今回、「ワンシュウの第一挙動の分解」を公開したわけだが、「ワンシュウ」は中伝段階で習得する泊手の中級型であり、よって、その「真の分解」も、特に後半には結構危険な技も登場してくるとは言え、冒頭辺りの技であれば、たいして危険ではない。
さらに、「ワンシュウの第一挙動の分解」は、「当破」とは関係がない技であるし、また、他の古伝空手の「真の分解」の技とは毛並みの異なるユニークな技でもある。
そうした事情等もあって、今回は特別に公開した次第である。
このことは、喜屋武朝徳にあっても、同様な思惑であったと思う。
つまり、その松田との対決が、例えば原っぱで行われたとすれば、松田がどんな攻撃をして来るかは、その場になってみないと分からないわけだ。そうすると、それに対する朝徳自身の反撃も、咄嗟の場合であれば、古伝空手の型の「真の分解」に登場するかなり危険な技になってしまう可能性も否定出来ないことになる。
そのような危険な方向には向かいたくなかった朝徳は、最初から、川を背にして「ワンシュウの第一挙動の分解」で喧嘩を処理するプランだった、と容易に想像出来るのである。
* ここで読者に考えてもらいたいのだが、喜屋武朝徳は、上記の技、即ち「ワンシュウの第一挙動の分解」を、一体どのようにして「身に付けた」のであろうか?
どのような技も、一度や二度の稽古で身に付くわけもなく、それなりの回数の繰り返し稽古が必要になるが、誰か稽古相手でもいて、その稽古相手が「やられ役」を買って出てくれて、喜屋武朝徳がこの技を身に付けるまで、何度も何度も地面に倒れてくれたのであろうか?
それとも、ワンシュウを喜屋武朝徳に教えた先生が、その「真の分解」を指導するときに、繰り返し「やられ役」になって倒れてくれたのであろうか?
どちらも「否」であろうことくらい、容易に想像が付くと思う。
当たり前の結論だが、結局、喜屋武朝徳は、「型による修行」すなわち「敵を仮想しての一人稽古」を繰り返すことで、「ワンシュウの第一挙動の分解」やその他の分解(技)を身に付けていったのである。
そして、上記本文の如く、現実に実戦で戦い、勝利しているのだ。
だから、「型による修行」というのは、決して空理空論なのではなく、かつて実際に行われていた現実なのだ、ということを、もっと実感を持って理解してもらいたいと思う。
武術空手研究帳・増補(3) - 完 (記:平成二十七年十一月)