武術空手研究帳・増補(22)- 武術の常識・非常識(Q&A)
[ およそ武術について考え語る大前提として、絶対に押さえておかねばならない「常識」というものがある。
しかし、現在では、この「武術の常識」とでも言うべきものを、ほとんど理解していない者が、平然と武術について語っているケースに結構頻繁に出くわすのである。
そこで、本稿では、今更ながらではあるが、この「武術の常識」について、改めて確認する機会を設けることにした次第である。]
武術の常識「質問(Q)」
まず、以下の各問いに自力で答えを出してもらいたい。
答えは、原則として「はい」か「いいえ」で答えてもらいたいが、例外的に、そのいずれでもない答えが正解の問いもある。
では、早速始めよう。
Q-1)「真剣白羽取り」は、真っ当な武術の技であり、厳しい修練を積めば実現可能な技術である。
Q-2)武術においては、「前傾姿勢」を採ってはならない。
Q-3)武術においては、「順体」が正しいのであって、絶対に「逆体」を採用してはならない。
Q-4)武術とは、「最小の努力で、最大の効果をあげる技術」である。
Q-5)武術(特に体術)は、「小よく大を制する技術」である。
Q-6)武術とは、「不利な立場の者が、より有利な立場の者を制する技術」である。
武術の常識「1- 答え」
“Q-1)「真剣白羽取り」は、真っ当な武術の技であり、厳しい修練を積めば実現可能な技術である。”
正解は、もちろん「いいえ」である。
「真剣白羽取り」は、いわゆる「講談本」に登場する架空の技術であり、如何に修行しようとも人間に可能な技術ではない。
これが正解であり、これが分かっている人が、常識を心得た真っ当な武術家たり得るのである。
しかるに、広い世間には、「真剣白羽取り」を真っ当な武術の技と勘違いし、これを習得可能な技術と思い込んでいる人達がいるのである。
それが武術のシロウトであれば、まぁたいした問題ではないのだが、自身を武術家と称して本などを出版している者がそう思っているのだから、空いた口が塞がらないのだ。
そうした者達は、おそらく、過去に行われた極真空手の「真剣白羽取り」の演武などを見てそのような考えに至ったのであろうが、演武と実戦は全くの別物である。
その演武自体、私もこの目で直接見たが、小太刀で打ち込む演者の認識を探るならば、相手を切り殺す意思などはもちろん全くなく、あくまでその演武を成功させることに全力で臨んでいたのである。
つまり、最終的に相手が「真剣白羽取り」で我の小太刀を両手で挟むその位置に向って、正確に小太刀を打ち込んだにすぎないのだ。
別言すれば、もし相手が何もしなければ、小太刀は「真剣白羽取り」が成功するであろう位置で止まるのであり、決して相手の頭部に切り込んでいくわけではないのである。
だから、この演武を成功させるポイントは、小太刀が止まる時と全く同時にその小太刀を両手で「白羽取り」するところにあるわけだ。
小太刀が止まってから「真剣白羽取り」をしたのでは、もろにヤラセとバレてしまうし、小太刀が止まる前に「真剣白羽取り」をしてしまったら、手に大怪我を負ってしまうからである。
よって、この演武を成功させるためには、「真剣白羽取り」が完成する「時間と空間の完璧な一致」が必要になるわけだが、まず「空間の一致」のためには、演武する両者が、立つのではなく床に正座して準備し、その後、片膝のみを立てて「小太刀の打ち込み」と「真剣白羽取り」を行うこととしたのである。こうすれば、立って演武を行う場合よりも、格段に「間合」即ち「空間」のズレが起こり難くなるからだ。
あとは、「時間の一致」だが、これは、演武する二人で繰り返し稽古を行うしかあるまい。
もちろん、タイミングを一致させるための、観客には分からず演武する二人だけが知っている「動作開始のサイン」なども決めておいたことであろう。
以上が、「真剣白羽取り」という「演武」の実態である。
このくらいは、当然に見抜けなければ、真っ当な武術家にはなれない。
それにだ。
そもそも、剣術家が打ち込んでくる真剣を両手で挟もうとしても、明らかに真剣のスピードの方が速いのであって、両手がバチっと合わさったときには、もう真剣はその人の頭上に深く切り込んでいるのだ。
また、相手が真剣を上段に構えたからといって、それがそのまま「唐竹割り」に(即ち「垂直」に)斬り込まれるとは限らないのであって、例えば僅かに「袈裟斬り」に斬り込まれたら、ただそれだけで、「真剣白羽取り」の両手はあっさりと切断されてしまうのである。
いずれにせよ、繰り返すが、「真剣白羽取り」などは、「天狗翔飛び切りの術」などと同様に、「講談本」に登場する架空の技にすぎないのである。
従って、このQ-1)で「はい」と答えてしまった人は、深刻に反省し、「真剣白羽取り」などは真っ当な武術家が取り上げるものではない、ということを、しっかりと肝に命じてもらいたいと思う。
* ついでなので、「縮地法(しゅくちほう)」なる用語についても、ここで一言しておく。
この「縮地法」を、“武術の勝負において瞬時に間合を詰める技術”かのように解説している現代空手家の著作や雑誌の特集記事があったが、そもそも「縮地法」というのは、日本武術の用語でもなければ、日本の講談本に登場する言葉でもない。
そもそもこの「縮地法」という用語は、シナの仙術に端を発し、その後はシナの講談本とも言うべき「武侠小説」に登場する用語なのであって、しかも、その意味するところは、武術の勝負における間合の詰め方に関する技術ではなく、例えば「一夜にして千里を走る」的な技術を意味する用語なのである。
昨今では、こうした外国の講談本用語が、意味も全く変えられた上で、真面目に日本の武術関係の書物や雑誌に登場するのであるから、本当に呆れてものが言えないレベルなのである。
現在の日本のメディアの水準は異常なレベルにまで劣化が進んでいる、と慨嘆せざるを得ない状況と言えよう。
武術の常識「2- 答え」
“Q-2)武術においては、「前傾姿勢」を採ってはならない。”
正解は、「はい」でも「いいえ」でもない。つまり、「前傾姿勢」を採って良いときもあれば、採ってはいけないときもある、というのが正解である。
武術空手で言えば、糸洲安恒が創った「武術の平安」では、基本姿勢として「前傾姿勢」が採用されているが、それは本サイトの読者であればもうお分かりのとおり、「倒木法(倒地法)」を発力原理として採用しているからに他ならない。
しかし、その「武術の平安」でさえ、「前傾姿勢」を採らない場面もあるわけだ。(詳細は、拙著「武術の平安」を参照のこと。)
他方、「当破」の空手であった「古伝空手」を見ると、原則的には「前傾姿勢」は採用されてはいないが、場面によっては「前傾姿勢」を採るときもあるのが分かる。
例えば、「クーシャンクー」の中ごろに「地面に伏せる姿勢」が登場するが、その場面では明らかに「前傾姿勢」(それも非常に極端な「前傾姿勢」)が採用されているわけだ。
空手ではなく、古伝剣術を見ても、流派によっては基本的に「前傾姿勢」を採用していないところもあるが、例えば柳生新陰流を見ると、柳生石舟斎が師の上泉伊勢守の教えを書き残した伝書「新陰流截相口伝書事」の冒頭に記してある「身懸五箇之大事」などは、再現してみれば明らかに「前傾姿勢」そのものである。
このことから、上泉伊勢守や柳生石舟斎は「前傾姿勢」を基本姿勢にしていたことが分かるのである。
以上を要するに、武術においては、「前傾姿勢」が正しいとかあるいは間違っているとか、一概には結論を出せない、と知るべきである。
武術の常識「3- 答え」
“Q-3)武術においては、「順体」が正しいのであって、絶対に「逆体」を採用してはならない。”
正解は「いいえ」である。
人によっては、この質問のように、「順体」のみを絶対に正しいとし、「逆体」を極端に嫌う人もいるが、武術の世界にそのような法則などは無い。
武術空手を見ても、「倒木法(倒地法)」を発力原理として採用した「武術の平安」の場合、「倒木法(倒地法)」が「順体」に馴染みやすいことから、そこではもちろん「順体」が見られる一方、「逆体」もちゃんと採用されているのである。
例えば、平安初段(松涛館流では平安二段)の四方向への手刀受けが終わった後に登場してくる「前蹴り」「逆突き」の「逆突き」は、まさに「逆体」そのものだが、それは変形でも何でもなく、その「逆突き」が正解なのである。
古伝空手の場合にも、やはり「順体」「逆体」の双方が登場してくるのであって、いずれの一方のみが正しく他方は誤り、ということは無いのだ。
ただ、わが国では、江戸時代までは「順体」が基本だった身体操作の仕方が、明治時代以降現代に至るまで、西洋式の「逆体」に馴染むように作り変えられてしまったという現実がある。
その点を踏まえるならば、例えば、「順体」一色で創られた型である「武術の平安」の「体の型」である「平安二段」を繰り返し稽古するなどして、より一層「順体」に馴染む体創りに励む必要性などは、それなりに強調されても良いことではある。
武術の常識「4- 答え」
“Q-4)武術とは、「最小の努力で、最大の効果をあげる技術」である。”
正解は「いいえ」である。
世間には、上記をあたかも武術の定義かのように主張している人もいるようだが、それは「武術の本質」を理解していないことから生じる誤りである。
ここに「本質」とは物事の核心と言ってもいいが、そもそも「本質」を離れてしまったら、それはもう「その物自体」ではなくなってしまうのである。
例えば、「芸術の本質」は、と言えば、それは「表現」なのだ。
つまり、「表現」を離れた「芸術」は、すでに「芸術」ではないのである。
では「武術の本質」とは何か?
それは「勝負」なのだ。
最終的に「勝負」を離れてしまったら、「武術」は「武術」ではなくなってしまうのだ。
このことはもちろん、常に「勝負」そのものを実行しろ、という意味ではない。
例えば、生涯に一度も「勝負」そのものはしなくとも、武術家たりうるのであって、要は、根本的なところで「勝負」を離れて武術を考えてはいけない、ということなのだ。
さて、以上を踏まえて、改めてQ-4)を考えてみると、そこで言っているのはあくまで「エネルギー効率」の話にすぎないのである。
つまり、車に例えると燃費の良い「エコカー」を目指すべき、という話なのだ。
しかし、武術的な車と言っても良い「F1カー」を見ると、燃費はむしろ「悪い」のであって、しかし、「勝負」のためにスピードを最優先で追求した結果、優秀な「F1カー」は生み出されたわけだ。
武術の世界も全く同じなのであって、例えば「当破」などは大層なエネルギーを消費する。その点から言えば、決して「エコ」ではない。
しかし、「勝負」にとっては有利な技術だからこそ、古人はその技術の獲得に努力したのだ。
結局のところ、以上からもお分かりと思うが、このQ-4)のように、一見すると正しいかのように見えて実は「大間違い」という命題も結構あるので、十分に注意してもらいたいと思う。
* 武術の各種の「技」を見れば、それらはもちろん合理的に出来ており、例えば「テコの原理」なども応用されたりもしているわけである。
だから、そうした「技」のメカニズムを検討すれば、確かにそこには「最小の努力で、最大の効果をあげる技術」が含まれているのも事実である。
従って、武術において、「最小の努力で、最大の効果」という発想自体が間違っているわけでは無いし、また、そのような発想を全く持つべきではないなどと主張しているのでもない。
あくまで、上記本文では、「本質」的な観点から武術を捉えた場合には、「最小の努力で、最大の効果」というのは武術における第一義的な目的たり得ない、との見解を述べた次第である。
武術の常識「5- 答え」
“Q-5)武術(特に体術)は、「小よく大を制する技術」である。”
正解は「はい」である。
もし「大よく小を制する技術」であるならば、それはもう「技術」の意味すらなくなってしまう。
つまり、動物的に見て、体の大きい者は体の小さい者よりも強いのが当たり前なのであるから、「大よく小を制する」のは動物的には当然の結果なのである。
そして、およそ人間が工夫して編み出した「技術」であるならば、それは、本来の動物的な自然な結論を覆すほどの効果がなければ、存在意義が無いのである。
だから、武術特に体術は、「小よく大を制する技術」でなければならないのであり、よって、Q-5)は正解なのである。
武術の常識「6- 答え」
“Q-6)武術とは、「不利な立場の者が、より有利な立場の者を制する技術」である。”
正解は「いいえ」である。
このQ-6)は、一見するとQ-5)に似ているようだが、実は大いに異なる命題なのだ。
この問題を間違えた人は、その事に良く気付いて欲しい。
では、詳しく解説しよう。
この問題で「はい」と答えた人は、例えば、前問のQ-5)のように、小柄な者が武術としての体術を使って大柄な者を倒す場面などを想起したかもしれない。
確かにその場面では「小よく大を制して」はいる。
しかし、それは「不利な立場の者が、より有利な立場の者を制している」場面なのであろうか?
「小が大を制している」場面では、例えば、「小」は柔術の心得があり、「大」は体格は大きく力はあっても柔術は素人、とかの想定になる。なぜなら、両者ともに柔術の経験者であれば、そう簡単に「小が大を制す」にはならないのであり、さらに、両者の柔術経験が同程度であれば、まず「大」の方が勝つ可能性の方が高いからだ。
結局、「小よく大を制す」と言っても、それは、「小」の側のみが柔術を習得しているなどという「有利」な条件があったから実現した結果なのであって、「小」が「不利」な場合はもちろんのこと、「有利」でも「不利」でもなく「平等」だった場合でも、まずは「大」が勝つ結果になるのである。
以上から分かるとおり、「不利な立場の者が、より有利な立場の者を制する」というのは、「小よく大を制する」とは、全く異なる命題なのだ。
そして、「不利な立場の者が、より有利な立場の者を制する」というのは、通常は、つまり、大抵の場合には、「成立し得ない命題」なのである!
武術家と称する人達の内、実に多くの人達が、この点を大いに誤解しているのだ!
この命題はとても重要なことなので、他の例でも考えてみよう。
「不利な立場の者が、より有利な立場の者を制する」例として、他に思いつくものを少し挙げてみると;
A)小太刀で太刀と戦う
B)太刀で槍と戦う
C)素手で太刀と戦う
などが挙げられるだろう。
そして、このQ-6)で「はい」と答えた人達は、以上のA~C)などはまさに武術の技術そのものと思っていることであろう。
しかし、以上のA~C)は全て、本来の正しい武術的判断からすれば「負けて当たり前」の状況なのだ。
ただ、何もしないで「負け」を認めるのではなく、例え少しでも可能性があるなら「勝って」生き延びる道を探るべき、という考えから、上記のような技術が開発されたのである。
その点を誤解してはならないのだ。
例えば、A)だが、小太刀と太刀とでは、明らかに太刀が「有利」なのだ。
従って、両者の剣術の実力がほぼ同じであれば、まず太刀が「勝つ」のである。
しかし、小太刀側の剣術の腕が、太刀側の腕を上回れば、小太刀が「勝つ」ことも不可能ではない。
よって、小太刀術というのも考案・修行されたのだ。
余談だが、小太刀の名手と言えば名人と謳われた冨田勢源がいたが、彼が一尺程度の薪で勝負に勝ったエピソードは結構有名だが、それも相手がそれ程強くなかったから可能だっただけで、相手がもっと強ければ、例えば勢源自身に肉薄するくらいの剣術の技量を持っている相手であったなら、さすがに薪での勝負は出来なかったわけである。
人によっては、名人であれば例えどんな相手であっても薪だけで勝てる、などと思っている人もいるかもしれないが、それはとんでもなく素人的な間違いなのだ。
以上述べたことは、B)やC)についても全く同じである。
太刀と槍では、槍が「有利」なのであって、また、素手と太刀では、言うまでも無いことだが、太刀が圧倒的に「有利」なのだ。
このように言うと、“では、柳生新陰流の無刀取りはどうなんだ”と意見を言う人もいるかと思う。
しかし、マンガではあるまいし、いくら「柳生新陰流の無刀取り」と言っても、魔法や超能力ではないのだから、やはり、「有利」な状況下になければ「負け」は必定なのだ。
実際、石舟斎のひ孫にあたる柳生連也の残した書き物によれば、「無刀取り」の成功率は「十中に六~七」程度と記されており、要するに連也ほどの剣術家でも、「無刀取り」の成功率は約三分の二なのであり、三回に一回は斬られて死ぬことになるわけだ。
これが現実なのである。
ただ、それでも、何もせずにむざむざ斬られるよりはずっとマシであるだけでなく、何よりも、素手で太刀に対抗する訓練を積めば、太刀を手にした時により一層自信と落ち着きを持って勝負に臨める、という大きなメリットがあったわけで、そういう意味でも「無刀取り」のような技術の訓練が行われたのである。
結局のところ、この設問を通して読者に良く理解してもらいたいのは;
1)武術は、魔法ではない。
2)そして、武術の勝負(に限らず全ての戦い)は、まず「有利」な方が勝つ。
3)よって、武術においても、「有利」さを求めるべし。
という武術における「リアリズム(現実主義)」のことなのだ。
以上のことは、非常に重要なことなので、頭をフル回転させて良く理解しておいてもらいたいと思う。
現代空手とリアリズム
「リアリズム」が登場したついでに、最後にここで、「現代空手」に関する「リアリズム」の応用問題として、何点か追加で取り上げておこう。
現代空手の書物によっては、「現代空手で剣術(真剣)を制する」というテーマで、対太刀の約束組手などが紹介されているが、結論から言えば、まず全てがマンガ・レベルの絵空事である。
例えば、敵が日本刀で上段から唐竹割に切り込んで来るのに対して、我は左方の床に身を倒しつつ右回し蹴りを敵の下段に入れる、などの技法が紹介されているが、現実にこんなことをしたら、その蹴りの一撃で敵を完全にKO(昏倒乃至死亡)させない限り、直ちに切り殺されるのは必定であり、そして実際には(ある程度のダメージは与えられるものの)一撃完全KOの可能性はかなり低いので、結局のところ、ほとんどの場合、我はむなしく死を迎えることになるわけである。
まぁ、そこまで突飛な話ではなくとも、やはり「リアリズム」の観点から見ておかしな技術は、現代空手の普通の基本技の中にも堂々と存在している。
「下段払いで前蹴りを受ける」などという技術も、やはりその一つと言えよう。
はっきり言って、脚には腕の何倍もの力があるのだ。
従って、敵の脚による攻撃に対しては、原則として我の(一本の)腕で応じるべきではない。
武術空手であった古伝空手や近代空手では、「脚には脚」の発想がしっかりと存在していたのだが、現代空手では平然と「脚には腕」の発想で受け技が作られてしまっている。
「リアリズム」の観点から言って、全くもって稚拙かつ不合理な技術体系と言わざるを得ないのである。
最後に、「現代空手」において、「リアリズム」の観点から見て最も問題があると言えるのは、「一撃必殺」というスローガン(あるいは願望)それ自体であろう。
端的に言って、この「一撃必殺」という用語には、威勢の良さはあるものの、知性のきらめきは全くと言って良いほど感じないのである。
以前にも述べたと思うが、打突技というのは、その結果が偶然に支配される要素が結構強く、そして、決着が付くまでに意外と長い時間が掛かったりもするのである。(例えば、ボクシングの試合を見ても、力量の差が歴然としているか、あるいは、どちらかが非常にラッキーな場合を除いては、1ラウンドで一発KOというのはまず無理で、試合の多くは最終ラウンドまで行ってから判定で決着が付いている。この点から見ても、むしろ柔道やアマチュア・レスリングの方が、よほど早く決着が付くと言えよう。)
そういう性質を持っている打突技であるにも関わらず、必ず「一撃」で決着を付けようとするのは、「リアリズム」の観点から言えば、極めて「無謀」と評価せざるを得ない。
分かりやすくするために、ここでは「狩り」を例に採ってみよう。
「一撃必殺」という思想は、「狩り」に例えたら、「一発捕獲」みたいな発想と言える。つまり、獲物を見付けたら一気に走り寄って手掴みで捕まえようとするに等しく、およそ「狩り」としては極めて稚拙な方法と言わざるを得ないわけだ。
幸いなことに、我々人類の祖先達はもっとずっと「知的」に行動したのであって、獲物としての動物の種類ごとにその習性等を研究しては、より効果的な「ワナや捕獲法等」を工夫・開発し、それらを蓄積することで「狩猟法」を確立して来たからこそ、生き延びて来れたのであって、上記の如くに「一発捕獲」をスローガンにして獲物に飛び掛ったり、それでもダメなら、今度は「コンビネーションだ!」と叫びつつ、何度も獲物に飛び掛ろうとしていたら、人類はとっくに絶滅していたであろう。
要するに、人類も頭を使って「巧妙なワナや捕獲法等」を工夫・開発したからこそ生存出来たのであるから、我々武術家も、水準の高い「巧みな技術等」を工夫・開発し、また、そうした技術等を学び習得することで、初めて武術家としてまともに進歩していけると理解すべきなのである。
読者のほとんどは、現代空手しか知らないために、「一発捕獲」的な行動しか取れないわけだが、武術空手(古伝空手や近代空手)では、「一撃必殺」というギャンブル的な夢に己が生命を掛けるような危ない発想は一切持たず、敵を確実に制圧するために、冷徹な「リアリズム」に基づいて、「取手技」や「打突技」の巧妙な組み合わせによる複合技等が数多く開発されて来たのだ。
つまり、武術空手には、上記の「狩り」の際の「巧妙なワナや捕獲法等」に匹敵するような様々な工夫が詰め込まれているのである。
現代空手家の武術的発想が色々とゆがんでいる原点は、まさに「一撃必殺」にこそあると言えるので、まずはそこを正すことで、現代空手家も「リアリスト」へと変身して欲しいと切に望む次第である。
武術空手研究帳・増補(22) - 完 (記:平成三十年三月)