武術空手研究帳・増補(23)- 首里手のセーシャン(前編)
[ 私が復元に成功した武術空手の内、近代空手については既にその全貌を極めて詳細に公開しているが、古伝空手についてはそのほとんどを未だ秘密にしている。
そこで今回は特別に、古伝空手に属するある一つの型を取り上げて、その型について現時点で公開可能な情報をほぼ全て記しておくことにした。
以下に述べることは、現代空手の諸流派で現在指導されている内容とは大幅に異なるが、本稿の内容こそが真実なので、読者も心して読まれたく思う。]
激動の時代
今回本稿で取り上げる古伝空手の型は「首里手のセーシャン(松涛館流では半月。なお以下本稿では、格別の場合を除き単にセーシャンと記す)」である。
さて、この「セーシャン」だが、これは松村宗棍が、幕末の頃に創作した「初伝レベルの用の型」なのである。
まずは、その成立の経緯について簡略に記そう。
松村宗棍が指導的立場にあった首里手以外の古伝空手としては、他に泊手と那覇手があったわけだが、この両流儀にはかなりの昔から「初伝レベルの用の型」があった。
泊手の「初伝レベルの用の型」は「ワンカン」だったのであり、那覇手の場合は「セイエンチン」だったのだ。
泊も那覇も、共に港町であり、船員等が多く滞在していた場所でもある。
当時、航海はかなりの命懸けだったのであり、海賊による襲撃もしばしばだったのだ。
従って、普通の船に乗っている船員自体もかなりの荒くれ男達だったのであり、また、そうした彼らが港で下船すれば、やっと危険な航海・仕事から開放されて、飲めや歌えやの騒ぎになったとしても不思議はなかったであろう。
そうなれば、ケンカ沙汰もそれなりに生じたはずである。
泊も那覇もそうしたエリアであった以上、そこで古伝空手を習う初心者も、最低限の護身術的な技は身に付けておく必要があったわけだ。
だから、泊手や那覇手には、古くから「初伝レベルの用の型」が存在したのである。
これに対して、首里は琉球の首府であり、常に警備の者もおり、当然ながら治安は良かったわけで、従って、首里手では長い間、初伝の者に対しては「ナイファンチ」という「体の型」のみを指導することとし、そもそも「初伝レベルの用の型」というのは存在していなかったのである。
しかし、江戸時代も終わり頃になってくると、西洋列強がアジアを植民地化すべく活発な活動を開始したため、新しい時代のうねりを敏感に感じ取った松村宗棍は、こうした激動の時代には首里手にも「初伝レベルの用の型」が必要と判断するに至ったわけである。
かくて松村によって生み出されたのが「セーシャン」という型だったのだ。
* 「セーシャン」は、「初伝レベルの用の型」なのであるから、この型の「真の分解」の中には当然ながら「当破」は登場してこない。
なお、念のために述べておくが、松村宗棍が創作し今日まで残っている型は、上記の「セーシャン」だけではなく、他にも複数あることを記しておく。
体の型の要素
上記のように、松村は「セーシャン」を「初伝レベルの用の型」として創作したわけだが、実はそれとは別に、松村は、それまでの首里手の教育プロセスに一つ不満を持っていたのである。
松村自身が修行した首里手では、「初伝」でナイファンチ型を習い、次の「中伝」ではパッサイ型を習ったわけだが、このナイファンチからパッサイへと進んで行くときに、「ある技術」に関して少しの「飛躍」がある、と感じていたのだ。
さて、当時松村が新しく創ろうとしていた型は、「初伝レベルの用の型」なのだから、この型は、ナイファンチの後、パッサイの前、に修行する型になるわけである。
ということは、その「ある技術」に関する新しい鍛錬法をこの新しい型の中に挿入すれば、首里手の教育プロセスもより完全になる、と考えたわけだ。
以上の経緯から、松村は、「セーシャン」を、「体の型の要素を含む、初伝レベルの用の型」として創作したのである。
では、「体の型の要素」をどのようにしてこの型の中に含めるか、が工夫を要する点だったわけだが、ここで松村が採用したのが「那覇手特有の方式」だったのだ。
那覇手の知的財産権
ところで、読者もご存知のように“セーシャン”という型は本来は那覇手の型なのである。
そこで、当然ながら誰でも疑問に思うのが、本稿で取り上げている「首里手のセーシャン」と、その「那覇手のセーシャン」との関係についてであろう。
名称が同じである以上、これら二つの型には共通する要素等が多々あるに違いない、と誰もが考えるはずだ。
しかし、残念ながら、これら二つの型の「真の分解」等を比較してみても、技術的に見て特段の関連性は見出せないのである。(後に見るように、「首里手のセーシャン」の「真の分解」は、他の“首里手”の型の「真の分解」と深い関連があるのだ。)
つまり、これら二つの型には、「那覇手特有の方式」以外には特に共通する要素等は存在しないのである。
従って、松村がこの「首里手のセーシャン」を創るに際しては、「那覇手のセーシャン」という型それ自体を特に強く意識したり参考にしたわけではない、ということが分かるのだ。
そもそも「那覇手のセーシャン」は「奥伝レベルの用の型」なのであり、その点からも、「初伝レベルの用の型」である「首里手のセーシャン」との直接的かつ具体的な関係を問うのには無理があるのだ。
では何故、松村はこの型に「セーシャン」という名前を付けたのだろうか?
結論から言うと、松村はこの型の名称に「那覇手」の意味を込めたかったのだ。
つまり、松村は、「体の型の要素」をこれから創作する型の中に含める方法として「那覇手特有の方式」を採用したのだが、その「方式」は、現代風に言うならば「那覇手の知的財産権」に相当するわけである。
だから、那覇手とは無関係にこの型を命名してしまえば、現代風に言うならば那覇手から知的財産権の「盗用」を指摘されることになってしまう。
もちろん、当時は知的財産権などという権利自体は無かったが、それでも一定の礼儀は必要だったわけだ。
そこで松村は、那覇手に対して一定の敬意を表す意味で、この型の名称に「那覇手」の意味を込めたかったのである。そうすれば、誰が見てもこの型は那覇手を参考にして創作されたことがはっきりと分かるからだ。
ただ、型の名称を「ナハテ」にするわけにもいかず、結局、当時那覇手で一番流行していた型である「セーシャン」の名前を、那覇手を代表する型名として、そのまま採用した次第だったのである。
だから、繰り返すが、「首里手のセーシャン」と「那覇手のセーシャン」との間には、特別に深い関係は無いのであって、「首里手のセーシャン」が「セーシャン」と命名されたのは、“この型は「体の型の要素」を型の中に含める方法(やその他幾つかの点)について「那覇手特有の方式」を採用しています”ということを表明するためだったのであり、それ以外の意味は無かった、ということをしっかりと押えておいてもらいたい。
* 「首里手のセーシャン」と「那覇手のセーシャン」の、それぞれの練武型を比較すると、「両開手を半円形に上下に動かす動作」が共通して登場してくる。従って、人によっては、それこそが両者の名前が同じになった理由だ、と考えるかも知れない。
しかし、その部分の「真の分解」は両者では全く異なるし、また、その動作が練武型全体に占める割合も微々たる量であり、そのような僅かな動作の類似をもって「首里手のセーシャン」の命名がなされたとするのは、いささか以上に無理がある。
やはり、より本質的な要素である「那覇手特有の方式」に着目してのネーミングと考えるのが妥当なのである。
なお、人によっては、これら二つの練武型の一番冒頭にある三歩前進の際の上体の動作が似ていることを、ネーミングの理由に挙げるかも知れないが、それが根本的に間違いであることは、この「前篇」の最後のあたりの注で明らかになるであろう。
掛け手
さて、「増補(20)」で述べたとおり、那覇手は、中国武術の姿勢を採用してしまったために、首里手のようには素直に「当破」を使えなかったわけである。そこで、特異かつ人工的な立ち方である三戦立ちを編み出すなど、色々な工夫を凝らすことで流儀を形成してきたのであった。
つまり、首里手では当たり前に可能だったことも、那覇手では様々な工夫を経て初めて首里手と似た様なことが実現可能になったのであり、そのために、首里手の空手家は、那覇手を首里手より劣る流儀と位置付け、那覇手に対してはあまり興味を示さなかった、という伝統があった。
しかし、そうした中で、聡明な松村宗棍は、他とは少し異なる意見を持っていたのだ。
松村は、“確かに、那覇手には首里手より劣る一面はあろう。しかし、そうした短所を補うべく様々な「工夫」をしてきたのも事実である。とすれば、そうした「工夫」こそは、首里手には無い那覇手の長所と言えるのではないか”と考えたわけだ。
こうした観点から、松村は、那覇手独自の「工夫」にスポットを当てて那覇手を研究し、その結果、
A)「体の型の要素」を型の中に含める方法に関する「那覇手特有の方式」や、
B)それ以外の技術等に関する「那覇手特有の方式」
を発見・抽出することに成功し、それらをこの「セーシャン」の中に取り込んだのである。
良い機会なので、ここで、“B)それ以外の技術等に関する「那覇手特有の方式」”の一例を挙げておこう。
例えば、現在の剛柔流には「掛け手」という技術がある。
これは、敵の腕を払う際などに、我の開手の小指と薬指の二本を使って敵の腕を引っ掛ける技術なのだが、もちろんこれは古伝那覇手から継承した技術に他ならない。
貫手の空手であった古伝那覇手であってみれば、指は異常なくらいに強く発達していたために、小指と薬指の二本を使うだけで、たやすく敵の腕を引っ掛けることも出来たわけである。
さて、この「掛け手」だが、細かく研究・分類してみると、この技術は以下の二種に分けることが出来る。
1)「掴む掛け手」
2)「押える掛け手」
以上の二種である。
ところで、首里手だが、首里手で例えば敵の腕を掴む際には、このような「掛け手」という技術は使っていなかった。これは、首里手では砂等を入れたカメの口を掴むなどして握力を鍛えることはしていたが、那覇手ほどは指を鍛えていたわけではなかったからだ。しかし、敵の腕等を掴む際には、ただ五本の指でしっかりと掴めばそれで足りたわけで、那覇手の「掛け手」に相当するような技術を特に開発する必要はなかったのである。
しかし、「掛け手」という技術には、もう一つ別の2)「押える掛け手」という技術があったわけだが、残念ながら首里手にはこれに相当する技術は特に無かったのだ。
そこで松村宗棍は、この「押える掛け手」という技術の首里手版を創造して、「セーシャン」の中に挿入したのである。
「セーシャン」の始めのあたりで、前方に数歩進んだ後に後方に向きを変え、後方に向かって進みながら両開手を半円形に上下に動かす動作の中で、上に運んで来た手を返して「掛け手」のような動作を行うのがそれである。
但し、那覇手の「掛け手」は五指がバラけているが、首里手の「掛け手」は、首里手の手刀を傾けた形になる。
首里手の手刀とは、親指は掌の横に付け、四指は真っ直ぐに伸ばして互いを密着させる手形のことである。
この首里手の手刀から、手全体を外小手(小指側の小手)の方にしっかりと傾けると、手刀と外小手の間が約135度になるが、その部分を使って「掛け手」を行うのが、「セーシャン」のその部分の動作なのである。
現在では、那覇手のようなバラ手の手形で「セーシャン」を行っている流派が主流のようだが、それは間違っている。
* 上記の「セーシャン」の「掛け手」についてだが、船越は「半月」の中で、人差指のみを伸ばし他の四指は軽く曲げるという手形を登場させている。
しかし、武術空手研究帳でも述べたように、古伝の首里手の手形は単純で強固なのであり、船越が「半月」に登場させたそのような複雑で構造的に弱い手形は、本来首里手には存在しない。
さらに、そのような手形では、そこの挙動の「真の分解」にも馴染まないのだ。
船越は、「半月」に限らず他の型の中でも、時折変わった手形を登場させているが、全ては船越の創作であり、目的は一種のカモフラージュなのである。
注意願いたい。
三歩前進
今度は、“A)「体の型の要素」を型の中に含める方法に関する「那覇手特有の方式」”についてだが、それは一体如何なるものだったのだろうか?
結論から言うと、それは二種に分かれる。
まず第一種目について解説すると、那覇手の型は全て、その一番冒頭に三歩進む箇所があるが、その「三歩前進」の場面こそがまさに「(純粋な)体の型」の部分なのである。
これは那覇手の型「全て」に共通する那覇手の一大特徴なのだ。
だから、例えば「セイエンチン」を見ると、その一番冒頭で、四股立ちのように立ち、双手で下段払いをし、次に前手で内受け、そして受けた手で掛け手をしてから手前に引き寄せつつ後手で手甲下向きの貫手を差し出す、という動作を右左交互に三回繰り返すが、その「三歩前進」の場面は完全な「体の型」なのである。
つまり、その三回の動作には「分解は無い」のであって、逆に、何をどのように鍛えていたのか、を探らなければならないのだが、以前「増補(11)」でも述べたとおり、現代空手家は本当に「体」を「用」と考えてしまうために、「セイエンチン」の「三歩前進」の場面についても色々な分解を考えては発表してしまうのだ。
当然ながら、それら発表された分解は全て間違いである。
本来は逆に、その「三歩前進」の場面では如何なる鍛錬を行っていたのかが追求されねばならないわけだが、そもそも「体の型」という自覚が全く無いために、そうした鍛錬の要素は全然発見されないままなのである。
そのため、私は今までに数多くの現代那覇手の本を読んだが、この「セイエンチン」の「三歩前進」の場面の動作の仕方についても、正しい解説は一度も見た記憶が無い。
* 上記の「セイエンチン」の「三歩前進」の「体の型」の部分について補足しておくが、例えば、「受けた手で掛け手をしてから手前に引き寄せつつ後手で手甲下向きの貫手を差し出す」動作について、現行の空手指導書などでは、「(胴体は動かさず)両腕のみを動かしてこの動作を行う」か、あるいは「両腕を動かすのみならず、同時に腰も回転させながらこの動作を行う」かの、いずれかの解説しか見たことが無いが、いずれも古伝空手から見たら間違った動作なのである。
古伝空手の時代にはこの動作を通して一体何を鍛錬していたのか、が分からなければ正解には辿り着けないのであるが、詳細については拙著「武術の平安」の中の「口伝解説・その5」を読めば、その中で「古伝ナイファンチ型での鍛錬」について解説してあるので、「セイエンチン」でもそれと基本的に同じ鍛錬をしていたことが理解出来ると思う。(但し、古伝のナイファンチでは「90度」が要求されたのだが、セイエンチンでは「45度」で良かったわけで、角度の点だけは異なるのである。)
** 上記本文のように“那覇手の型の一番冒頭にある三歩前進の箇所は、まさに「体の型」の部分”などと記すと、“現代那覇手の剛柔流にある「クルルンファ」や「セーパイ」と言う型の一番冒頭には、その様な三歩前進の動作は無い。よってお前の主張はおかしい”という意見をお持ちの方もおられよう。
しかし、まず「クルルンファ」だが、この型の一番冒頭に右左二回登場する猫足立ちになって前足で関節蹴りを行うという動作は、「体育の平安」が成立して以降に誕生した典型的な非武術的動作なのであり、よって空手近代化以降に余分に付け加えられた動作であることは間違いの無いところである。従って、その動作の直後の「三歩前進」からが、本当の「クルルンファ」の始まりなのだ。
次に「セーパイ」についてだが、結論から言うと、「セーパイ」は那覇手の型ではなく首里手の型なのだ。
剛柔流の型の中には、「セーパイ」の他にも首里手系の型が入ってしまっているのだが、それらについての詳細には「大発見」レベルの内容が含まれるために、今回は省略することとし、また後日稿を改めて論じることにしよう。
運足
では次に、“A)「体の型の要素」を型の中に含める方法に関する「那覇手特有の方式」”の、残るもう一種(第二種目)とは、一体どのようなものであったのか?
それは、那覇手の型の中には、上記の「三歩前進」のような「(純粋な)体の型」の場面も存在する一方で、「体の型」であると同時に「用の型」でもあるという、いわば「体&用の型」という場面も存在した、ということだ。
こうした「体&用の型」という方式は、首里手や泊手には全く存在していなかったわけで、その点で、これもまさしく「那覇手特有の方式」の一種と言えるのである。
さて、それではここで、松村が創作した「セーシャン」を見てみることにしよう。
そのために、ここではとりあえず、本来の松涛館流の「半月」を取り上げることにする。
その「半月」の「冒頭部」では、まず「前半」で、左右左の順で「前屈立ち」で三歩追い足で前進し、次に「後半」では、右足を大きく左斜め前方に進めながら後方に向き直り「(左足前の)左前屈立ち」になり、今度は右左の順でやはり「前屈立ち」で二歩追い足で(後方に向かって)前進している。
しかし、この後半での右左二歩の前進は変形なのであって、本来の「セーシャン」では、あと一歩右足の追い足前進が最後に加わった右左右の三歩前進だったのである。この点の詳細は、本稿の「後編」で触れることにするが、以下本稿では、後半の前進は三歩が正しいとして論を進めることにする。
さて、松村の「セーシャン」では、以上の「冒頭部」の場面全体が「体の型」に相当するわけで、この中に上記の二種の「那覇手特有の方式」が存在しているのだが、より詳しくは以降の「注」を参照してもらうことにして、ここでは次に、松村はこの「冒頭部」で一体何を鍛錬させようとしたのか、について話を進めよう。
現代でも、この場面(特に前半あたり)には何らかの鍛錬が含まれていた、との伝承がそれなりに伝わっている関係もあって、色々な流派で様々な解釈が行われているようだが、多くは剛柔流の型などを参考にして「息吹」を行ったりしているわけである。
しかし、「首里手の呼吸は自然」が正しいのであって、古伝首里手の時代に「息吹」などしていたわけが無いのだ。(ちなみに、古伝の那覇手の型にも現在のような「息吹」は無かった。)
では、本物の古伝の松村の「セーシャン」では一体何を鍛錬していたのか、というと、それは「運足」だったのである。
この「冒頭部」の三歩前進、反転、三歩前進の場面では、「運足」を鍛錬していたのだ。
初伝で習うナイファンチ型では横方向の運足のみであり、それが中伝のパッサイ型では正面方向への運足へと変わるが、この両者の技術の間には少しのギャップがあったために、松村は、自身が創作した「セーシャン」の「冒頭部」に、このギャップを埋める目的で鍛錬を仕込んだのである。
そのために採用したのが「セーシャン立ち」という立ち方だったのだ。
* 松村が創作した「セーシャン」は、「冒頭部」の全体が「体の型」なのだが、さらに、「冒頭部」の「後半」は「用の型」にもなっているのだ。
つまり、「冒頭部」の「前半」の「三歩前進」の場面は「(純粋な)体の型」になっているわけで、その点で、「那覇手特有の方式」の第一種目と完全に一致する。
そして、「冒頭部」の「後半」は、「体の型」でもあり「用の型」でもある点で、「那覇手特有の方式」の第二種目がここで採用されているわけだ。
なお、「セーシャン」の「冒頭部」は、このように「前半」と「後半」とで意味が異なるために、「前半」では、「(純粋な)体の型」である以上、主に「運足」に集中しながら比較的ゆっくりと動作するのに対し、「後半」では、「用の型」でもあることから、通常のスピードで動作しなければならず、また、「体の型」でもあることから、そのような通常のスピードでも「前半」と同様な正しい「運足」が出来なければならない、というように、「前半」と「後半」とで異なるやり方で型を行うように設計されていたわけである。
セーシャン立ち
現代空手界にも“昔は「セーシャン立ち」という立ち方があった”という伝承が残ってはいるが、その具体的な立ち方は不明のままであった。
そこで、現代空手の流派ごとに独自の「セーシャン立ち」を考え出しては“これがセーシャン立ちだ”などと発表・指導してきたわけだが、多くは、「那覇手のセーシャン」の一番冒頭に登場する「三戦立ち」を参考にして「セーシャン立ち」を考案してしまったために、非常に珍妙かつ歩きにくい立ち方になってしまっている。(「増補(20)」で既述の如く、そもそも「三戦立ち」という立ち方は、「那覇手」の「当破」のためだけに特別に作られた極めて人工的な立ち方だったのだから、基本的に「首里手」には不向きな立ち方なのである。)
これに対して、古伝空手を熟知していた船越義珍が指導した本来の松涛館流の「セーシャン」即ち「半月」には、全く不思議なことに、「セーシャン立ち」などという立ち方はそもそも登場してこないのである。
これは一体どうしてなのか、と疑問に思う人々も結構いたわけだが、ではここであっさりと「正解」を公開しておこう。
実は、古伝首里手の時代に、松村宗棍が創作した「セーシャン立ち」という立ち方は、「前屈立ちに横幅を付けた立ち方」だったのだ!(古伝空手の時代の「前屈立ち」は、両足踵を縦に一直線上に揃える立ち方だったわけだが、その左右の踵の間に一定の横幅を付けた立ち方こそが「セーシャン立ち」だったのである。)
つまり、古伝首里手の「セーシャン立ち」というのは、結局のところ、足幅(=両足踵の間隔)には違いがあるが、現代空手の「前屈立ち」そのものだったわけだ。
だから、船越は、「半月」の中でも、「前屈立ち」は登場させたが、特に「セーシャン立ち」なる立ち方は採用しなかったのである。現代空手の「前屈立ち」こそが本来は「セーシャン立ち」なのだから、これは当然のことだったわけだ。
結局のところ、古伝首里手の「セーシャン」では、「冒頭部」の三歩前進、反転、三歩前進の場面では、この「横幅の付いた前屈立ち」即ち「セーシャン立ち」で型を行ったのである。
* 現代空手家は、古伝空手を全く知らないために、「首里手のセーシャン」と「那覇手のセーシャン」との間には(名称が同じであることから)密接な関係があると思い込んできたし、また、実技の面で見ても、現在に残るこれら二つの型の一番冒頭の「三歩前進」の場面では、腕の動作が酷似していることから、それなら立ち方も似たようなものだったのだろう、と安直に考えて、三戦立ちに類似した独自の「セーシャン立ち」を考案してきたわけだ。
だが、既述の如く、「首里手のセーシャン」と「那覇手のセーシャン」との間には特別に深い関係は無いのであり、また、これら二つの型の一番冒頭の「三歩前進」の場面における腕の動作も、オリジナルでは全く異なる動きだったのである。即ち、「首里手のセーシャン」の場合は、古伝空手の時代でも、現在に残る正拳を握った状態での内受けと正拳突きだったわけだが、古伝の「那覇手のセーシャン」では、現代の剛柔流のセーシャンのような腕の動作ではなかったのだ。
古伝の「那覇手のセーシャン」では、まず、両手は開手であった。古伝那覇手は「貫手」の空手だったのだから、拳は握っていなかったのだ。
そして、「引き手」も違っていた。現在の剛柔流では、肘を後ろに出し、拳は胸の高さに引いてくるが、古伝那覇手では、肘は下に向け、腕を折りたたみ、開手(貫手)は肩の前辺りに置いたのだ。(この古伝那覇手の肘を下に向ける引き手については「武術空手研究帳・第2回」を参照願いたい。)
しかも、その肩の前辺りにある開手(貫手)は、(四指の先が上を向き)掌が概ね正面を向くように構えたのだ。これは、そもそも「当破」の空手では原則として腕の捻りは使わないからであり、また、貫手は、敵の体に当たる時に捻りを加えていると、指がその捻りに耐えられないからだ。
さらに、「那覇手のセーシャン」は、「初伝レベルの用の型」であった「首里手のセーシャン」とは異なり、「奥伝レベルの用の型」だったのだから、その一番冒頭の部分についても、「首里手のセーシャン」の冒頭部(の前半)のように比較的ゆっくりと動作したのではなく、実戦を想定した通常のスピードで動作したのである。
結局のところ、古伝那覇手のセーシャンの一番冒頭の腕の動作は、以上のような動作だったわけで、現在の剛柔流のセーシャンの一番冒頭の腕の動作とはかなり異なっていたのだ。
しかし、那覇手の近代化のプロセスの中で、古伝那覇手では主力技であった貫手突きは首里手風の正拳突きに変えられていったために、その結果、現在の剛柔流のセーシャンの一番冒頭の部分も、「首里手のセーシャン」の冒頭部(の前半)と同じ様な腕の動作になったわけである。
** 過去の空手を復元するにあたり、私は、徹底的に理詰めに考察する一方で、他方においても出来るだけ「証拠」を集めるように努力している。
上記の「古伝那覇手の貫手突きにおける引き手のポーズ」も、そうした例にもれない。
つまり、上記の結論は、もちろん理詰めに考察した結果なのだが、他方で、実際の「証拠」も存在するのだ。
現代空手の剛柔流に残る「回し受け」という技術の中に、その「証拠」はある。
「回し受け」とは、開手の両手でそれぞれグルリと上半身の前方で円を描き両手を体側に付けた後、両掌底で正面の上下段を同時に攻撃する、という動作である。
この動作の中で、両手で円を描いて体側に両手を付けた時に、四指が上を向いている方の腕こそが、まさに「古伝那覇手の貫手突きにおける引き手のポーズ」そのものなのである。
現在では、この後は「両掌底」で正面の上下段を同時に攻撃する、と指導されているが、本来は「両貫手」での攻撃だったのであり、従って、この四指が上を向いている方の腕のポーズこそが、まさに「古伝那覇手の貫手突きにおける引き手のポーズ」そのものだったわけだ。
(以上のように、現代空手の剛柔流の中にも、古伝那覇手を偲ばせる技術等が僅かに残ってはいるのだが、果たしてそれに気付く人がどれほどいることか、甚だ疑問である。)
(以下、増補(24)の「後編」に続く・・・)
武術空手研究帳・増補(23) - 完 (記:平成三十年八月)