武術空手研究帳

武術空手研究帳・増補(24)- 首里手のセーシャン(後編)

 [ 私が復元に成功した武術空手の内、近代空手については既にその全貌を極めて詳細に公開しているが、古伝空手についてはそのほとんどを未だ秘密にしている。

 そこで今回は特別に、古伝空手に属するある一つの型を取り上げて、その型について現時点で公開可能な情報をほぼ全て記しておくことにした。

 以下に述べることは、現代空手の諸流派で現在指導されている内容とは大幅に異なるが、本稿の内容こそが真実なので、読者も心して読まれたく思う。(なお、本稿は「後編」なので、未読の方は一つ前の「増補(23)」の「前編」からお読みいただきたい。)]

半月

 さて、古伝首里手の「セーシャン」では、「冒頭部」では「セーシャン立ち」で型を行ったわけだが、それ以外の場面では、本来の「前屈立ち」を採用しており、「セーシャン立ち」が登場するのは「冒頭部」のみである。

 なお、この「セーシャン立ち」を使ってどのように鍛錬をしていたのかについては、ここでは伏せさせていただく。

 ただ、この「セーシャン立ち」による運足の「軌跡」については一言しておこう。

 この「セーシャン」の「冒頭部」での運足も、以前「増補(20)」の注で解説した古伝の三戦型の運足と同様に、足を直線的に動かしたのであって、決して半円形に動かしたのではない点に注意願いたい。

 そうすると、松涛館流の「半月」という型名の由来が問題になってこよう。

 と言うのは、「半月」という名前は、この「冒頭部」の運足が半円形であることに由来する、とするのが通説のようだからだ。

 これも結論から言うと、「半月」の由来は運足ではなく、「冒頭部」の後半における両手の動きなのである。

 船越の時代の人達にとって、「足」というのは不浄なのであり、間違っても足の動きから型の名前を付けるなどということは有り得ない。(それに、古伝首里手の「セーシャン」では、そもそも半円形の運足は行わなかった。)

 これに対して、「冒頭部」の後半では、両手を上下に動かす際に、まさに半円形に動かすのであり、従って、ここでの手の動きが空中に描く形こそが、「半月」の由来なのである。

 * 「セーシャン」の「冒頭部」の「前半」と「後半」とで、動作のスピードを変えて鍛錬することについて、ここで追加の情報を提供しておこう。

 「鍛錬」と聞くと、読者の多くは、例えば「筋トレ」等を思い浮かべると思うが、この「セーシャン」の「冒頭部」に松村宗棍が仕込んだ「鍛錬」というのは、そうした「筋トレ」のように“成果を出すのに長い時間が掛かるもの”ではなかったのだ。

 分かりやすく言うと、「注意深く意識的に行えば大体正しく出来るのだが、注意しないでいるとつい間違ってしまう技術」を鍛えさせたのである。

 そういう技術であったからこそ、松村宗棍以前の首里手の指導者達は、この技術についてはあまり気に掛けることもなく、弟子達にはパッサイ型の稽古の中で身に付けさせていたのだ。

 ただ、松村宗棍という人は、相当に頭が良く、かつ、完璧主義者だったようで、そうした僅かのギャップであってもそれを見逃さず、それを鍛錬する方法を考案して、その鍛錬法を「セーシャン」に仕込んだわけだ。

 そうした技術であったればこそ、「前半」と「後半」とでスピードを変えて行うことが可能になったのである。

 つまり、「前半」では、「注意深く意識的に実行」出来るようにスピードを通常よりも少し遅くして運足させたのであり、「後半」では、「前半」で掴んだ要領を守りながら通常のスピードで運足させる、というように、「セーシャン」の「冒頭部」を構成したわけだ。

 こうした「鍛錬」を繰り返していけば、その内に、「注意深く意識的に実行」しなくても、自然に正しい運足の技術が実行出来るようになるからだ。

横幅二つ分のズレ

 さて、この「セーシャン」だが、この型の特徴の一つに、その「練武線」の複雑さがある。

 ここに「練武線」とは、「型の開始から終了までの主に踵の移動を記録した図」のことを言う。

 現代空手では、前屈立ちに横幅が生じてしまった関係で、各種の型の練武線も異常に複雑になってしまったが、古伝空手(首里手・泊手)や近代空手(武術の平安)では、前屈立ちには横幅はなかったため、各種の型の練武線もかなり単純な線で表現出来るのが通常なのだ。

 例えば、松涛館七つの型の一つである「チントウ(松涛館流では岩鶴)」のオリジナルの練武線は、ナイファンチ立ちの足幅(これは、前屈立ちや後屈立ちの足幅とも同じである)三つ分の縦線一本で表現出来るのである。

 つまり、「立ち方の足幅三つ分の直線一本」の上を行き来するのが本来のチントウの運足なのだ。

 このように、首里手系武術空手の型の練武線はかなり単純なのが普通なのだが、「セーシャン」の場合には相当に複雑になってしまうのである。

 では何故「セーシャン」の練武線は複雑になってしまうのか?

 その理由は、「前編」の「増補(23)」で解説した「セーシャン」独自の立ち方である「セーシャン立ち」にある。

 つまり、冒頭部において、「三歩前進、反転、三歩前進」が終了した瞬間の右足踵の位置を見ると、「セーシャン立ち」の横幅二つ分だけ、型の開始地点より左方にズレることになってしまうのである。

 もし、「セーシャン」の冒頭部が全て横幅の無い「前屈立ち」で行われていれば、冒頭部終了時には、右足踵が開始地点に戻ってくることになり、型全体の練武線も単純な形になってくれるのだが、冒頭部の「セーシャン立ち」のせいで、どうしても複雑にならざるを得ないわけだ。

 そこで、「セーシャン」の練武線を考える際には、この型を便宜上三幕に分けると非常に分かりやすい。

 第一幕は今までに解説してきた冒頭部であり、第二幕はその後に三方向に向って内受け・連突きを行う場面、そして第三幕は、正面と後方を結ぶ一直線上で、まず一連の手技・蹴り等を行って進み、次にその左右反対の動作を行いながら戻ってきて、最後は三日月蹴り(あおり蹴り)を含む一連の動作を行って終了する場面である。

 結局、「セーシャン」という型の練武線では、第一幕終了時に、「セーシャン立ち」という特殊な立ち方のせいで、他の型には無い「左方向にセーシャン立ちの横幅二つ分のズレ」が生じてしまうわけであった。

 この「ズレ」をどこで回復するか、ということなのだが、第二幕では行わず、第三幕で行うのだ。

 つまり、第三幕では、合計三回、正面と後方を結ぶ一直線上で移動するのだが、それぞれの直線は同じ直線ではなく、毎回、一連の動作を開始するために「閉足立ち」になる時に、上足底を軸に踵を90度回転させることで、「上足底から踵までの距離」だけ右方に向って型の開始地点に近寄ることを繰り返すわけである。

 それを都合三回行う結果、最後には型の開始地点に(踵が)戻ることになるわけだ。

 以上、複雑な説明にはなったが、実際に体を動かしてみれば、大して複雑なことではない。

 結局のところ、「セーシャン立ち」の横幅は、第一幕でその二つ分左方に移動してしまった分を、第三幕での三回の「閉足立ち」で帳消しにするわけだから、

「セーシャン立ち」の横幅の2倍 =「上足底から踵までの距離」の3倍

 となるわけで、よって、

 「セーシャン立ち」の横幅 =「上足底から踵までの距離」の1.5倍

 ということになるわけである。

 * ここで念のために述べておくが、松涛館流の「半月」の開始(用意)の立ち方は「自然体(八字立ち)」になっているが、それはもちろん変形なのであって、古伝の首里手(及び泊手)の型の開始(用意)の立ち方は必ず「閉足立ち」だったのである。

 なお、松涛館流の「半月」では、上記の第三幕における「閉足立ち」自体が消えてしまっているが、この事の詳細は後ほど解説しよう。

 ** 読者も良くご存知のように、現代空手では、転身に際しては「上足底」を軸にして回転している。

 これに関して、“昔の空手では転身に際しては足底に「軸」を作らなかった”との主張が以前空手雑誌に掲載されていたが、それは間違いで、古伝空手や近代空手でも、転身に際しては足底に「軸」を作って回転したのだ。

 ただし、その際、古伝の首里手や泊手及び近代空手(武術の平安)では必ず「踵」を軸にしたのだが、古伝の那覇手では「踵」のみならず「上足底」も軸にしたのである。

 そのことは、現在にも残る三戦型の開始部分(結び立ちから三戦立ちになる部分)を見れば、「上足底」も軸にしていたことが良く分かると思う。

 とすると、上記本文に記した如く、松村が創作した「セーシャン」では、首里手本来の「踵」軸以外に「上足底」軸も登場するわけであるから、この点もまた、「前編」で述べた“B)それ以外の技術等に関する「那覇手特有の方式」”を採用している、と指摘することが出来るわけである。

予行練習

 では今度は、「セーシャン」の「真の分解」の内容に少し踏み込んでみよう。

 これも結論から述べると、「セーシャン」の「真の分解」は、「パッサイ」と「クーシャンクー」の「真の分解」の予行練習になるように創られているのである。

 細かく言うと、上記の第二幕の「真の分解」が「クーシャンクー」の「真の分解」の予行練習になっており、最後の第三幕の「真の分解」が「パッサイ」の「真の分解」の予行練習になっているわけだ。

 では何故、松村宗棍は、「セーシャン」の「真の分解」の構成を「パッサイ」と「クーシャンクー」に合わせるように設計したのか?

 それは、古伝首里手における「パッサイ」と「クーシャンクー」の歴史的・技術的意義を知れば了解出来る。

 そもそも、古伝空手は首里手から始まったわけだが、首里手が誕生した時の型は「ナイファンチ」と「パッサイ」と「クーシャンクー」の三つだったのだ。

 これらが、それぞれ「初伝」「中伝」「奥伝」の型に相当するわけである。

 この三つの型からなる古伝首里手を元にして、古伝の泊手や那覇手が後に誕生したのだ。

 そして、古伝の首里手自体も、その後型が増えていくことになるのだが、型が増えた後の時代でも、師に弟子入りして師から習うのは大体五~六個の型だったわけだが、その際、上記の三つの型は必修だったのである。

 つまり、古伝首里手においては、たとえいつの時代に誰に弟子入りしようとも、「体の型」である「ナイファンチ」以外には、「用の型」としては「パッサイ」と「クーシャンクー」は必ず習う型だったのだ。

 だから、松村宗棍は、「セーシャン」の「真の分解」の構成を「パッサイ」と「クーシャンクー」に合わせるように設計したのである。

 * 以前「武術空手研究帳」で、古伝首里手の時代には、卒業論文として自分自身の「パッサイ」や「クーシャンクー」を創作する旨述べたが、その理由ももうお分かりのことと思う。

 もちろん、「パッサイ」や「クーシャンクー」以外の型を題材にしても良いのだが、この二つの型であれば、首里手の修行者ならば全員が理解可能であったし、最も伝統的な型でもあったわけだから、通常は、この二つの型を使って卒業論文としての型を創作したのである。

 ** 現在の沖縄には「昔の人は型を一つか二つしか知らなかった」という伝承が残っており、これを信じる人からすれば上記の私の見解には疑問を感じると思うが、この伝承の真意については既に「増補(7)」で明快に解説をしてあるので、興味のある方はそちらを参照願いたい。

蹴り技

 さて、ここで「武術空手研究帳 - 第4回」で述べたことを思い出してもらいたい。

 “しかし、古伝空手の蹴り技というのは、現代空手や近代空手で行なわれているような蹴り技とは、実質的にも、形式的にも、全く異なる技だったのである。

 古伝空手の蹴り技の具体的な詳細については省略させていただくが、ただもう一つ指摘しておくならば、その習得が著しく困難だ、ということだ。

 現代空手および近代空手というのは大衆化された空手なのであり、従って、蹴り技一つとってもすぐに習得できる技であるわけだが、それに対して古伝空手の蹴り技というのは、かつての古伝首里手の世界では、初伝段階では全く教えてもらえず、中伝段階で初めて教わるのであり、何とか蹴り技らしくなるのも中伝段階の後期に至ってのことだったのである。それほど、古伝の蹴りというのは難しいのである。“

 上記の中で、特に注目してもらいたいのは、最後より少し前あたりにある“かつての古伝首里手の世界では、初伝段階では全く教えてもらえず”の部分だ。

 ここで“かつての古伝首里手の世界”と言っているのは、本稿で取り上げている「セーシャン」が生まれる前の古伝首里手を意味しているわけで、その時代においては初伝型は「ナイファンチ」のみだったのだから、蹴り技などは全く指導されていなかったのである。

 もっとも、こうした事情は泊手や那覇手でも同様だったのであり、それぞれの「初伝の用の型」である「ワンカン」や「セイエンチン」にも蹴り技は無かったのだ。(「セイエンチン」の場合は、現在に残る型を見ても蹴り技は無い。これに対して、現在の「ワンカン」には蹴り技が含まれているが、それは変形なのであって、空手近代化以降、「体育の平安」を参考にして「ワンカン」を大幅に作り変えた過去があったのだ。とにかく、本来の古伝の「ワンカン」には蹴り技は無いのである。)

 さて、松村宗棍が「セーシャン」を創作するまでは、首里手の初伝では蹴り技は一切教えなかったのだが、やはり幕末の激動期を迎えて、たとえ初伝と言えども最低限の蹴り技くらいは身に付けさせる必要がある、と判断したために、松村は「セーシャン」の中に蹴り技を加えたのだ。

 ただ、第二幕には蹴り技は入れていない。(現代空手の諸流派の中にはこの第二幕に蹴り技を含んでいる「セーシャン」も存在するが、それは変形である。)

 松村が蹴り技を挿入したのは第三幕なのだ。

 この第三幕の蹴り技は、合計三回登場するが、一回目と二回目は左右反対なだけで、実質的には同じ蹴り技である。

 よって、一回目&二回目の蹴り技と、三回目の蹴り技の計二種が登場するのだが、これらの蹴り技が、それぞれ「パッサイ」の二つの蹴り技に対応していたわけだ。

 松涛館流の「半月(セーシャン)」と「抜塞(パッサイ)」の蹴り技を比べてみると、「半月(セーシャン)」の二種の蹴り技は、「前蹴り」と「三日月蹴り(あおり蹴り)」であり、「抜塞(パッサイ)」の二種の蹴り技は、「関節蹴り」と「三日月蹴り(あおり蹴り)」になっている。

 よって、二番目の蹴り技である「三日月蹴り(あおり蹴り)」については対応していることが分かるが、一番目の蹴り技は完全に異なっている。

 このことは、松涛館流を興した船越義珍が、「半月(セーシャン)」と「抜塞(パッサイ)」との関連性を隠したかったことを示している。一番目の蹴り技も「前蹴り」か「関節蹴り」で統一していたら、これら二つの型の関連性に薄々ながらも気が付く現代空手家もいたかも知れないからだ。

 なお、古伝空手の時代には「前蹴り」も「関節蹴り」も存在しなかったのであり、従って、本来の「パッサイ」の一回目の蹴り技も「関節蹴り」ではなく全く別の蹴り技であったし、本来の「セーシャン」の一&二回目の蹴り技も、「前蹴り」ではなく、その「パッサイ」の蹴り技に似ている初心者にも蹴りやすい蹴り技が採用されていたのであった。

型の変形

 今度は、船越義珍が伝えた松涛館流の「半月」に含まれる「変形」について一言しておこう。(これは、以前「増補(3)」の注で予告しておいた「古伝空手家による型の変形」についての解説でもある。)

 現在までに残っている空手の型は、如何なる型であっても必ず一定の変形はあるのだが、船越が伝えた「半月」には、非常に大きな変形があるのだ。

 具体的に言うと、まず、冒頭部の後半で、上半身と下半身の動作にズレが生じてしまっているのである。

 どういう事かと言うと、冒頭部の後半の前進動作では、本来は、前足側の手が上段になり、後足側の手が下段に来るのが正しいのだが、船越が伝えた「半月」では、完全に正反対になってしまっているのだ。

 そして、冒頭部終了後の第二幕や第三幕にも、冒頭部後半での変形が色々と尾を引いてしまっているのであって、その結果、型の最後まで変形が続いてしまっているのである。

 さて、実は「型の変形」と一口に言っても、現代空手家が恣意的に行う変形と違って、古伝空手家が行う変形にはそれなりのやり方があったのだ。

 その一つに「上半身のみを裏に変える」というやり方があった。

 つまり、本来の動作の内、上半身の動作だけを本来の動作の左右反対の動作に変えてしまうのだ。

 こうすると、「型全体の大雑把な見掛け」は本来の型と良く似ているのだが、動作の詳細は大幅に変形してしまうために、どう考えても分解等は絶対に分からないようになってしまうわけである。

 では、何故このような変形の仕方が存在したのか、についてだが、まず、封建時代には身分の上下があったわけだ。

 そして、古伝空手家達にとって何よりも困ったことは、自分より身分の高い人から古伝空手の型を所望されることだったのである。

 何故なら、本物の型は絶対に部外者に見せるわけにはいかなかったし、さりとて、身分の高い人からの依頼を断ることはかなり困難だったからだ。

 では、そういう時のために「ニセの型」でも作っておいて、それを覚えておけば良かったかというと、そうもいかなかったのである。

 わざわざそんな事をしておくのも極めて面倒であるし、また、そんな事をしたら、本物の型への悪影響も懸念されるわけだ。

 さらに、例えば「ニセのパッサイ」を作っておいても、所望されたのが「クーシャンクー」であったら対応出来ないことになる。(つまり、そういう「古伝空手の型に興味を持つ身分の高い人」というのは、例えば複数の古伝空手家の「クーシャンクー」を既に見ている可能性もあるわけで、そうすると、最低でも「型全体の大雑把な見掛け」くらいは「クーシャンクー」に似ていないと、“明らかにニセ物を見せられた”として激怒する可能性もあったからだ。)

 そこで、古伝空手の時代には、「即興で型を巧みに変形させる方法」が複数考案されていたのだ。

 上記の「上半身のみを裏に変える」というのも、その方法の一つだったのである。

 船越は、まずはその方法で「半月」の冒頭部後半を変形させたのであり、さらに、その冒頭部後半の最後の右足での追い足一歩前進の動作も省略し(これもまた「手抜き」という名の型の変形法なのである)、その後の動作も、その流れを利用して、ずっと最後まで変形させていったのだ。

 従って、松涛館流の「半月」は、本来の「セーシャン」とは大いに異なる動作になってしまっているのだが、それらの変形は一定のルールに基づいているために、私のように古伝空手を熟知している者であれば、比較的容易に変形を正すことも可能なのである。

 * 上記のとおり、船越は、「半月」の冒頭部後半の前進動作を追い足二歩で止めてしまい、そこから第二幕に入ったために、その次の内受け・連突きの動作が本来の動作の左右反対になってしまい、以後型の最後まで、結局全ての動作が「裏」の動作(つまり左右反対の動作)になってしまったのが、松涛館流の「半月」なのである。

 となると、第三幕における「閉足立ち」になる際の上足底軸の転身は、本来は(つまり「表」の型であれば)練武線の「右」方向への移動だったわけだが、それが「裏」の動作になってしまったということは、そこで「閉足立ち」になる転身を行うと、今度は練武線の「左」方向へ移動してしまうことになるわけだ。

 これでは、ますます型の開始地点から左方へ遠ざかってしまうことになるため、結局、船越は、第三幕での「閉足立ち」になる動作そのものを消さざるを得なかったわけである。

 ** 松涛館七つの型の中でも、この「半月」の変形度合いは群を抜いている。

 では、船越は、何故それ程までに「半月」を変形させたのか?

 それは、この型は「当破」を使わない空手だったからである。

 つまり、「当破」を使う空手の型ならば、そう簡単には分解等を見破られることも無い、と安心出来たのだが、「半月」の場合には、ひょっとしたら誰かが分解等を解明するかも知れないと考え、ことさらに激しく変形させたわけである。

武術の平安

 最後に、「セーシャン」と「武術の平安」との関連についても論じておこう。

 そもそも「セーシャン」という型は「初伝レベルの用の型」なのであった。

 ということは、空手の近代化を行おうとしていた糸洲安恒にとっても、この「セーシャン」という型は大いに参考になったわけである。

 何故なら、糸洲は、「当破」を使わない新しい空手(近代空手)を創造しようとしていたのであり、そして、この「セーシャン」もまた、「当破」を使わない空手として師の松村宗棍が創造した空手だったからだ。

 実際、古伝空手(首里手・泊手)と近代空手の双方の解明が終了した後に初めて分かったことなのだが、私が復元した「武術の平安」の「真の分解」には、この「セーシャン」の「真の分解」に登場する技や技術が数多く活用されていたのである。

 拙著「武術の平安」の受講者のために、ここで少しばかり具体的に解説しておこう。

 例えば、平安四段・勝負形の第2業技の一番最初の技は、この「セーシャン」の「真の分解」に登場するある技を元に創作されている。

 さらに、「武術空手研究帳(12)」にも記した平安五段・勝負形に登場する「平安シリーズ中の最高傑作」とも評すべき「必殺技」もまた、その元ネタの技はこの「セーシャン」の中に登場するのだ。

 「技術」の例としては、例の「秘訣」の技術も「セーシャン」に登場しているのであり、また、平安初段・勝負形の第1業技の中に二回も登場する「打突技の威力を高める重要技術」にしても、やはりこの「セーシャン」に登場しているのである。(これら二つの「技術」は、元々は伝統的な古伝首里手の型の「真の分解」の中にあったのだが、松村宗棍がそれらに目を付けて「セーシャン」の中に取り込み、それを糸洲がさらに「武術の平安」に採用したわけだ。)

 他にも、「前編」で述べた“首里手の「掛け手」”とか、まだ色々あるのだが、あと一つ興味深いものを挙げるならば、「セーシャン」の最後のあたりで、三日月蹴り(あおり蹴り)終了後に、上体を前方に傾けて低目の正拳突きを行う動作があるのだが、その「上体の前傾」こそはまさしく「倒木法(倒地法)」そのものなのである。

 「セーシャン」は古伝空手の型である以上、いくら「当破」の無い空手とは言っても、露骨に「倒木法(倒地法)」を多用するわけには行かなかったのだ。

 さりとて、全ての技を腕力や脚力だけで行わせるのもどうか、と考えた松村宗棍が、一つの妥協案として、最後の所に一回だけ明確な「倒木法(倒地法)」を使った技を挿入したのである。

 それを見た糸洲が、その「倒木法(倒地法)」を縦横に活用した近代空手を創作しようと思い立ったのも、必然的な流れであったとも言えよう。

 以上、幾つか見てきたが、この他にも様々な関連性が「武術の平安」と「セーシャン」との間には見られるのである。

 * もうお分かりと思うが、「セーシャン」という型は、首里手と那覇手、そして、古伝空手と近代空手とが、そこでクロスオーバー(交差)している非常に珍しい型なのである。

 だから、この型を取り上げれば色々なことが見えてくることから、今回は「セーシャン」にスポットを当てて論じてみた次第なのだ。

 本稿では、初公開の情報も多々あり、また、現代空手で指導されている事とは大分異なる内容になったが、これこそが真実なのであり、他所では絶対に入手不可能な貴重な情報の公開なのであるから、「前編」「後編」合わせて細部にわたりしっかりと理解してもらいたいと思う。

武術空手研究帳・増補(24) - 完 (記:平成三十年八月)

(=> 増補(25)「【大発見!】剛柔流の型の伝承経路 - 宮城長順は誰から型を伝授されたのか?」へ進む)

*** プロフィール ***

プロフィール

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 長谷川光政

 昭和33年(1958年)、東京生まれ。

 中学生(12歳)の時に剛柔流の空手を習ったのが、空手との最初の出会い。

 それ以来、首里手系の空手や、フルコン系、防具系の各流派等でも空手を学ぶ。

 しかし、いくら修行をしても、どうしても既存の空手に納得がいかず、最終的には自分一人での研究・修行を続けることとなった。

 それから十五年以上が経過した四十歳台後半に至って、遂に、失伝していた古伝空手の核心的技術である「当破(アティファ)」を発見することに成功。

 それ以降は、その発見をきっかけに、古伝空手の型に関する様々な謎も解明出来るようになった。

 また同時に、糸洲安恒の創始した近代空手の代表型である平安(やナイファンチ初段~三段)についても、その謎を解き明かすことに成功した。

 現在では、琉球の古伝棒術等の研究も一通り終了しており、新たな発見等については、漸次、この「武術空手研究帳」の「増補」等を通じて公開発表していく予定である。

 東京大学教育学部体育学健康教育学科卒。