武術空手研究帳・増補(7)「一歩と二歩のパッサイ」
[ 現代空手において、パッサイという型の第一挙動には、異なる二種類の運足が残っている。
些細なことのように思うかもしれないが、今回は、この点に着目した論考を披露してみよう。]
二種類のパッサイ
「パッサイ」は大変ポピュラーな型である。よって、首里手系か泊手系の現代空手を習っている人達ならば、まずは必ず知っている型と言えよう。
(冒頭からいきなり余談になってしまうが、重要なことなので記しておく。
上記に「知っている型」と書いたが、現代人にとっての「知っている型」とは、その型を一度は習ったことがある程度でも「知っている」と言えるのであり、さらには、一度も自分ではやったことはないが、動画等で一通り手順を見たことがある場合でも、「知っている型」と言えるのである。
さて、古伝空手にも初伝・中伝・奥伝の三段階がしっかりとあったわけで、先生から計5~6個の型を教わることでこの三段階を終了し、それで漸く一人前になったのだが、では、沖縄に残る「昔の人は型を一つか二つしか知らなかった」という伝承は、どう解すべきなのであろうか?
もうお分かりと思うが、これは、現代と古伝空手の時代とでは、「知っている」という言葉の意味が根本的に違っていたのである。
古伝空手の時代に、自分はこの型を「知っている」と言えるためには、その型を練りに練り込んで己が得意型にまで高めて、初めて言えるセリフだったのだ。そして、誰であれ、自分の得意型というのは、一つかせいぜい二つなのであって、だからこそ、このような伝承が残っているわけだ。
上記の伝承を現代人の感覚で解釈し、古伝空手家達は現代的な意味で「型を一つか二つしか知らなかった」と思い込んでいる人達がいるようだが、誤解もはなはだしいと言える。
もしそうなら、古伝空手には初伝・中伝・奥伝のようなマトモな上達過程が全く存在しなかったことになるわけで、古伝空手をバカにするのもいいかげんにして欲しいものである。)
さて、その「パッサイ」であるが、現存する種々の「パッサイ(大小を含む)」を観察すると、その第一挙動の運足の前半、即ち、右足を一歩前に進める場面で、「素直に右足を一歩前に進める」やり方と、もう一つは、「まず左足を軽く前に進めてから、右足を大きく一歩前に進める」やり方とがあるのが分かるのである。
ここでは便宜上、前者を「一歩のパッサイ」、後者を「二歩のパッサイ」と呼ぶことにしよう。
以上の二つの「パッサイ」のどちらであっても、第一挙動終了時のポーズは基本的に同じになるのであり、結局、第一挙動に関しては、上記の運足だけが特に異なるわけだ。
さて、ここで生ずる疑問は、同じ「パッサイ」の型なのに、何故、二種類の運足が存在するのか、という点だ。
しかし、古伝空手を復元した私から言わせていただければ、確かに「パッサイ」には「誰々のパッサイ」等複数の「パッサイ」が存在するが、それらは全て「一歩のパッサイ」なのであり、「一歩のパッサイ」こそが、分解等の観点から見ても、正しい「パッサイ」なのである。
従って、私の立場から言えば、上記の疑問は、結局のところ、“何故「二歩のパッサイ」という変形が誕生したのか”という疑問になるわけだ。
そこで、これら「二歩のパッサイ」についてさらに調査していったのだが、これら「二歩のパッサイ」というのは、糸洲安恒の空手近代化以降の弟子達の中から誕生したことが分かるのである。
それが分かれば、もう答えは一つしかない。
では、「二歩のパッサイ」という変形が如何にして誕生したのか、これから解説していくことにしよう。
* 上記本文で、「一歩のパッサイ」こそが正しい「パッサイ」である旨記したが、その理由の一つをここで簡略に述べておくならば、「二歩のパッサイ」だと、最初の左足の踏み出しが、まさに「気配」になってしまうから間違いなのである。
この左足の軽い踏み出しは、正面の敵に対する「これからそっちに跳び込んで行くよ」という合図そのものなのだが、このことを理解出来る現代空手家が果たして現在どれほどいるのか、はなはだ疑問である。
特に最近では、この左足の踏み出しを、わざと勿体をつけてゆっくりと行う型演武も見かけるが、そこまで酷くなると、時代劇やアクション映画には向いている動作かも知れないが、もう武術とは完全にかけ離れてしまっていると言えよう。
** 良い機会なので、ここで「気配」について、その要求される水準には二種類(二段階)あることにつき触れておこう。
これは、特に体術に関して言えることなのであり、また、戦闘方式に対応していることなのであるが、要するに、体術においては、「G方式」における「気配」と、「B方式」における「気配」とでは、要求される技術水準が全く異なる、ということなのだ。(異なる二つの戦闘方式である「G方式」と「B方式」については、「増補-1」を参照願いたい。)
「G方式」の体術の戦闘の場合には、お互いに相手の自由な活動を常に許しながら戦闘が続くために、敵の姿を(「目付」という技術を駆使して)常に観察し続ける必要があり、よって、敵に己が「気配」を悟られぬように、慎重に動作していくことが求められるわけだ。
(現代空手の世界では、「目付」すらマトモに指導されておらず、とてもではないが、そのような高度なレベルでの「気配」隠しなどはほとんど全く見られないが、「G方式」の戦いである以上は、本来は、真剣に「気配」を消す必要があるのだ。)
これに対し、「B方式」の体術の戦闘の場合には、特に我の取手技によって敵の姿勢が崩れて以降は、敵が視覚によって感知する「気配」については、それ程気にする必要が無くなるのである。何故なら、敵は我の動作を視覚的に正しく認識出来なくなるからだ。
(この事に関し、拙著「武術の平安」を例に取るならば、例えば平安四段に登場するいわゆる「掻き分け」の所の分解などは、好個の例と言えよう。この二回ある「掻き分け」の分解はそれぞれ異なるのだが、一回目の「掻き分け」の分解では、敵は我を見ることが出来なくなるわけで、よって、我としては視覚的な「気配」については全く気にする必要が無くなるのである。そして、二回目の「掻き分け」の分解では、敵は我を視覚に収めること自体はそれなりに可能なのだが、拙著で詳しく解説しておいたとおり、糸洲安恒の工夫により、敵は我の動作を極めて認識しづらい状態に陥ってしまうために、やはり、我としては視覚的な「気配」については、大して気にする必要が無いわけだ。)
もっとも、「B方式」の戦いであっても、その冒頭部辺りでは、(「増補-5」で述べたように)「G方式」の戦い方になるのが通常なので、その部分に限っては、上記の「G方式」と同レベルでの「気配」を消す能力が要求されるわけで、結局、直前の注(*)のように、左足を軽く踏み出せば、それは「気配」になってしまうわけである。
*** 直前の注(**)につき、くどいようだが、重要なことなので追加して解説しておく。
そもそも「気配」というのは、圧倒的に「視覚」によって認識されるのであり、よって、視覚的な「気配」こそが、もっとも消さねばならない「気配」になるわけだ。
さて、この視覚的「気配」だが、我がそれを発し、敵がそれを認識して、初めて敵は我の発する「気配」を悟ることになる。
そこで、こうした「気配」を消すには、主に二つの方法が存在することになる。
まず一つは、我が「気配」そのものを発しない方法であり、もう一つは、敵が「気配」を認識出来ないようにする方法である。
「G方式」の体術の戦いにおいては、敵は我の身体や動作を視覚的に常にしっかりと見ることが可能である以上、「気配」を消したければ、基本的には、我が「気配」そのものを発しないようにする以外に方法は無いことになる。
これに対し、「B方式」の体術の戦いの場合で、その冒頭部以外の場面では、敵の身体を崩すことで、敵が我の身体や動作をマトモに見ることが出来ないようにしてしまえば、たとえ我が「気配」を発しようとも、結果的に「気配」を消したことになるわけである。(後は、敵の体を掴んでいる我の手を通して、敵に「触覚」的な「気配」を悟られないように注意すれば良いわけだ。)
以上のような見方からすれば、「B方式」の体術の戦いの場合で、その冒頭部以外の場面では、“敵の体を崩す「取手技」によって、我の「気配」を消している”と考えることも出来るのである。
パッサイ小の第一挙動
「二歩のパッサイ」誕生の経緯を解明するためには、その前にまず、糸洲が創作した「パッサイ小」の型について述べておく必要がある。
「武術空手研究帳」に記した通り、小系統の型というのは、糸洲安恒が空手近代化に際して創作した型なのだが、要するに、古伝系の型の動作を、近代空手的な動作に変えて創作したのである。
つまり、糸洲は、こうした小系統の型を「体の型」と捉えており、分解等は全く考慮せずに、あくまで動作だけを近代空手的にすることで、「武術の平安」の中の平安二段という「体の型」の上級者版を創ろうとしたわけだ。
以上の詳細は、拙著「武術の平安」に詳述してあるので、興味のある方はそちらを参照願いたいが、結局の所、「パッサイ小」という型も、分解は全く関係なく、純粋に「体の型」として創られたのであって、その第一挙動もまた当然に、近代空手的な「動作」を鍛えるように創作されていたのである。
では、糸洲が創ったオリジナルの「パッサイ小」の第一挙動とは、どのような「動作」であったのだろうか?
現在でも、この糸洲の「パッサイ小」を継承している沖縄の流派もあるので、その「パッサイ小」を見れば、基本的なことは分かる。
要するに、前方に倒れ込むような第一挙動だったわけである。
分解は全く関係なく、あくまで近代空手的な身体操作法を鍛える目的で創られた「パッサイ小」であったわけだから、本来は、つまり糸洲のオリジナルでは、その「前方に倒れ込む」ような動作も、現存する「パッサイ小」以上に激しいものであったはずだ。
つまり、「倒木法(倒地法)」を体現するかのような動作こそが最も望ましかったのであるから、糸洲オリジナルの「パッサイ小」の第一挙動では、まず、閉足立ちの直立姿勢から前方に向かって体を一本の棒のようにしたまま倒していくのである。
そうすると、段々加速がついて来て、もうこれ以上は耐えられない、つまり、これ以上我慢したら床に倒れてしまう、という限界が来るが、そうなったら直ちに、右足を大きく一歩前に(床を蹴らずに)進め、次に素早く左足を右足に引き寄せる、という動作だったはずである。
何故なら、これこそが、まさに「倒木法(倒地法)」を体現するかのような動作そのもの、と言えるからだ。
* 上記本文中に“「武術空手研究帳」に記した通り、小系統の型というのは、糸洲安恒が空手近代化に際して創作した型なのだが、要するに、古伝系の型の動作を、近代空手的な動作に変えて創作したのである。”と記した。
しかし、読者の中には「松涛館流の“パッサイ(抜塞)小”や“クーシャンクー(観空)小”は、大の型とは大分動作が違うが」との意見をお持ちの方もいらっしゃることと思う。
もちろん、私とて、松涛館流の“パッサイ(抜塞)小”や“クーシャンクー(観空)小”が大の型とは動作が大いに異なることくらい知っている。
簡単に説明すると、松涛館流の“パッサイ(抜塞)小”や“クーシャンクー(観空)小”の型は、糸洲が残したオリジナルの小の型そのものではなく、船越義珍が新たに創作した型なのだ。だから、大の型とは動作が大いに異なっているわけである。
この点については、拙著「武術の平安」の中の一章である「近代空手の上達過程 - 初伝・中伝・奥伝」の中で極めて詳細に解説してあるので、興味のある方は、そちらを参照願いたい。
「用の型」と誤解した
さて、オリジナルの「パッサイ小」の第一挙動は上記のような動作だったわけだが、ここで問題になるのは、弟子達は「パッサイ小」を「体の型」とは思っていなかった、ということだ。
糸洲はもちろん昔のタイプの指導者だったので、一々あれこれと弟子達に解説していたわけではない。「パッサイ小」にしても、これは「体の型」だ、などと説明して指導していたはずがないのである。
しかし、弟子達からすれば、「パッサイ小」のような複雑な手順の型は、当然に、敵と戦う技を教える型、即ち「用の型」と思い込んでいたことは間違いないところであろう。
すると、当然ながら、第一挙動の、敵が存在するであろう前方に向かって、体を一本の棒のようにして倒れ込むように進んでいくという運足は、どう考えても奇妙な動作に思えてくるのも、致し方の無いところであったと言えよう。
そこで、一部の弟子は、糸洲没後のことだが、この第一挙動につき、前方に強く倒れこむようなことはせずに、しかも、糸洲が残した「パッサイ小」のように「大きく」前方に移動するにはどうしたら良いか、と考えたわけである。
そして生まれたのが、まず左足を軽く前に出し、次にその出した左足を利用して、言わば前方に駆け込むように大きく右足を移動させる、という「二歩のパッサイ」だったわけだ。
このようにすれば、仮想敵に向かって、いかにも実戦的に飛び込んでいくような動作になるのであり、かくて、「二歩のパッサイ」が誕生したわけだが、古伝空手特有の鍛錬を全く積んでいない現代空手家としては、「一歩のパッサイ」より、この「二歩のパッサイ」の方が動きやすいために、流派によっては、この二歩の運足が、「パッサイ小」のみならず「パッサイ大」にも採用されるようになってしまったのである。
* 「首里手は左から」という格言が空手界にはある。
この格言を不当に拡大解釈してしまい、“全ての型について、左側から動き始めるのが首里手系の型である”などと勘違いしてしまうと、右足から動き出す「一歩のパッサイ」は泊手なのであり、左足から動き出す「二歩のパッサイ」こそが首里手のパッサイだ、などととんでもない間違いを犯してしまうことになる。
そもそも、「首里手は左から」という格言は、「ナイファンチ」に関する格言なのである。
首里手と泊手の「ナイファンチ」は左右反対になっているため、どちらが首里手でどちらが泊手かを区別するために、この格言が生まれたのだ。
ただ、古伝空手の時代には、首里手や泊手で先生に入門して最初に習うのが「ナイファンチ」なのであり、首里手の空手家も泊手の空手家も、「ナイファンチ」を知らないという事はありえず、よって、左右反対の二つのナイファンチの内、どちらが首里手でどちらが泊手か分からない、などという事はありえなかったわけで、結局、この格言が生まれたのは、空手近代化以降のことに間違いはないのである。
例えば、松涛館流系統の「ナイファンチ初段(鉄騎初段)」と、玄制流系統の「ナイファンチ(初段)」の両者を見て、昔の空手のことなど全く知らない世代の者が、どちらが首里手系でどちらが泊手系か、区別出来なくなってしまったことから、それを知らしめるために誕生した格言なのだ。
つまり、「首里手(のナイファンチ)は左(足)から」という意味なのである。
間違えないでもらいたい。
武術空手研究帳・増補(7) - 完 (記:平成二十八年一月)