武術空手研究帳・増補(25)- 【大発見!】剛柔流の型の伝承経路 - 宮城長順は誰から型を伝授されたのか?
[ 剛柔流の型の中には首里手の型が紛れ込んでいる。
かなり以前からその事は分かっていたのだが、最近になって、さらにもう一つ別の型がやはり首里手の型であることが判明し、さすがにこれには驚いたのだが、しかし、よく考えてみれば、これは全く起こるべくして起こったことだったのだ。
そしてまた、そのことが、伝承の系統・経路が不明とされてきた剛柔流の型の秘密を解き明かしてくれたのである!]
セーパイ
拙著「武術の平安」の中で、“剛柔流の型の中に首里手の型が紛れ込んでいる”と記しておいたのだが、ここでその詳細を説明しよう。
まず、「武術の平安」を執筆する以前に、私は、十数個の古伝首里手の型の「真の分解」の解明を一通り終えていた。
そして、その解明が終わった後に、剛柔流の型をザッと見てみたのだが、一つだけ仲間はずれの型があることが分かった。
「セーパイ」である。
というのは、他の全ての型の最初の所には「三歩前進」の動作が共通して存在するのだが、「セーパイ」にだけはそのような動作が無かったからだ。
そこで、古伝首里手の型を一通り解明した勢いをもって、一つこの「セーパイ」も解明してみようか、と挑戦してみたわけである。
すると、割と短期間に「真の分解」が分かったのだが、驚いたことに、この「セーパイ」という型は、紛れも無く古伝首里手の型だったのだ。
ただ、「セーパイ」には他の古伝首里手の型にはない興味深い特徴があった。
というのは、他の古伝首里手の型の「真の分解」は、それぞれが皆オリジナルなのであって、他の型の「真の分解」とダブルような技は基本的に無いのだが、この「セーパイ」の「真の分解」は、オリジナルの技が約半分で、残りの半分ほどは、他の古伝首里手の型の「真の分解」に登場してくる技で成り立っているのだ。
そして、その“他の古伝首里手の型”には、「松涛館七つの型」に含まれている型や、幕末の頃に松村宗棍が創作した型が含まれているのである。
ということは、この「セーパイ」という型は、間違いなく「松村宗棍の弟子の誰かが創作した型」ということになるわけだ。
何故なら、松村自身が、自分で創った型の「真の分解」を、他の自作の型で再び利用するなどということは、するはずが無いからだ。
「セーパイ」がそのようなユニークな型であることは分かったが、それよりも問題なのは、何故、古伝首里手の型が剛柔流の中に紛れ込んだのだろうか?という疑問についてである。
ただ、そのような疑問を持ってはみたものの、答えについては皆目見当も付かず、結局のところ、宮城長順は古伝空手を知らなかったのだから、何かの間違いで紛れ込んでしまったのだろう、と結論付けて、当時はそれで終わりにしてしまった次第なのである。
もう一つの型
さて、それから何年も経ち、つい最近のことなのだが、私はもう一つ気になっていた剛柔流の型の解明に取り組んだ。
そもそも、私の修行対象は古伝首里手(含む泊手)なのであり、姿勢からして根本的に異なる古伝那覇手は修行対象ではない。
さらに、剛柔流の型は、松涛館流の型以上に、古伝空手からの乖離が激しいために(その理由については、今までにも少しは述べてきたが、本稿を含む今後数稿の内により一層明らかとなるであろう)、「真の分解」の解明も決して容易ではなく、結局私は、剛柔流の型については、古伝那覇手の基本的な解明にとって必要にして十分な範囲のみの研究しか行っていない。
しかし今回、どうしてもある型が気になったので、その型の「真の分解」を解明しようとした次第なのである。
私事になるが、型の分解に取り組むと、私は他のことを放り出しても分解の解明に没頭してしまうので、仕事等につき事前にある程度余裕を設けておかないと、とんでもないことになってしまうのだ。
そこで、今回は、一週間ほど分解の解明に集中しても困らない程度に準備をしておいた上で、その「ある型」の分解の解明に挑んだわけなのだ。
では、その「ある型」とは何か?
それは「サイファ」なのである。
「サイファ」の一体何が、そんなに興味を引いたのか?
まず、冒頭にある「三歩前進」の動作が、三戦型類似の動作では無いことから、この「サイファ」は、「セイエンチン」と同様に「初伝」の型と思われるのだが、それにしては、その「三歩前進」の動作の意味が全く分からなかったからだ。
詳しく言うと、以前「増補(23)・首里手のセーシャン(前編)」の稿で記したように、那覇手の型の冒頭にある「三歩前進」の所は「(純粋な)体の型」なのであり、従って、「セイエンチン」の冒頭にある「三歩前進」の動作も「体の型」なのだが、私にはその「セイエンチン」の冒頭部で何を鍛えさせていたのか、が昔からちゃんと分かっていたのである。
これは私が二十代の頃に解明していたことなのであるが、「セイエンチン」の冒頭部は、那覇手はもちろんだが、やり方を少し変えれば首里手の修行者にも効果的な鍛錬が出来るのだ。
実際、私はこの「セイエンチン鍛錬法(の首里手版)」を当時からずっと続けており、それが「当破」の習得に一役買ったことは確かなのである。
それに対し、「サイファ」の冒頭部にある「三歩前進」の動作は、いかに工夫してみても全く何の鍛錬にもならないのだ!
さらに、これも以前「増補(24)・首里手のセーシャン(後編)」の稿で記した事なのだが、古伝空手の「初伝」の型には本来蹴り技は無いはずなのだが、「サイファ」では冒頭に「前蹴り」が登場してくるのである。
これらのことが、いたく私の興味を引いたのだ。
武術の平安
さて、十分に日数に余裕をもって「サイファ」の「真の分解」に挑んだのだが、一日目に大体の所が判明し、二日目には、開始してから小一時間ほどで、一通り解明を終わらすことが出来た。
力んで開始したわりには、比較的あっさりと解明出来たために、ちょっと拍子抜けした私ではあったが、とりあえず「真の分解」が分かった以上、まずは前々日からやり残したままになっている仕事等を片付けようと、しばし空手の研究から離れた。
2~30分ほど経ち仕事が一段落したときに、ふと今さっき発見したばかりの「サイファ」の「真の分解」を思い出してみたのだが、その時に考えたのは、“那覇手というよりも、首里手っぽいな・・・”というような感想であった。
その後も仕事を続け、やはりまた30分ほど経った頃であろうか、今度は「サイファ」の「真の分解」を、“首里手というよりも、武術の平安っぽいかな・・・”と思ったのだった。
さらにその後も仕事を続け、また少し時間が経った頃、「サイファ」の「真の分解」につき次に考えたのは、“仮に武術の平安とすれば、初段か四段に似てるかな・・・”であった。
その後暫らくして、また同様なことを考えたのだが、今度は、“やっぱり、初段よりは四段の方に似ているかな・・・”であったのだが、さらに、“いや、ちょっと待てよ!「サイファ」の「真の分解」は、その開始は、敵があれをしてきた時の対応から始まるし、その最後は、古伝のあの技が登場してから終っている。そして、その間に登場する種々の技は、あれと、あれと・・・。おい、何だこりゃ?これって「武術の平安(真の分解:勝負形)」の四段の第2業技と全く同じ技だらけじゃないか!「サイファ」の「真の分解」は、「武術の平安(真の分解:勝負形)」の四段の第2業技の「別法」だったのか!?”
とにかく大いに驚いたのである。
何故なら、「サイファ」の「真の分解」を解明した直後では、何しろ、両者の全体の印象は全然違っていたために、それがまさか「武術の平安(真の分解:勝負形)」の四段の第2業技と極めて深い関係があろうとは夢にも思わず、約二時間ほども経過してから、やっと初めてそのことに気付いたからだ!
原型(プロトタイプ)
さて、それから冷静になって、改めて「サイファ」の「真の分解」について考えてみた。
確かに、それは「武術の平安(真の分解:勝負形)」の四段の第2業技と極めて密接な関係がある。
まず、一番最初に敵が仕掛けてくることも同じだし、その後に登場する我が行う種々の技についても、順番は全く異なるのだが、出てくる技は基本的に全て同じなのだ。
業技の最後の辺りについては、「武術の平安(真の分解:勝負形)」の四段の第2業技では、「古伝首里手のある型に登場する技」を元ネタにした技が登場するのだが、「サイファ」の「真の分解」では、その「古伝首里手のある型に登場する技」そのものが登場してくるのだ。しかも、その後に、さらに過激な技まで付け加えられている。
次に「倒木法(倒地法)」を見ると、「サイファ」の「真の分解」ではほとんど使われていない。このことは、そもそも「倒木法(倒地法)」が無いのか、あるいは、元々あった「倒木法(倒地法)」が消されたか、のどちらかだが、後者であれば復元出来るわけだ。しかし、どのように試みても復元は不可能であった。つまり、そもそも「倒木法(倒地法)」がほとんど無かったことになる。
さらに、「サイファ」の「真の分解」の中には、「武術の平安(真の分解:勝負形)」には登場しない古伝系の技術がほんの少しだが登場している。
以上の諸点から考えると、「サイファ」の「真の分解」は、「武術の平安(真の分解:勝負形)」の四段の第2業技の、「別法」なのではなく、「原型(プロトタイプ)」であることが分かるのだ!
* 上記のことから、糸洲安恒がどのように「武術の平安」の「真の分解(勝負形)」を創作していったかが分かるのである。
糸洲は、個々の業技(ぎょうぎ;連続した複合技のこと)を創る際には、まず、1)敵がどのような攻撃をしてくるのか、2)それに対して我が行う各種の技、3)業技の最後の技、以上の3点を決定してから、創作に取り掛かったのだ。
その際、1)と3)は基本的に変更せずに、2)の各種の技の「順番」を変更しながら、最適な業技を模索していく、という方式で、「武術の平安」の「真の分解(勝負形)」を創っていったのである!
難から易へ
さて、読者は習い事の経験はあるだろうが、指導経験についてはいかがであろうか?
特に、自分で指導内容を創作した経験はおありだろうか?
もしあるのならば分かると思うが、習い事の原則は「易から難へ」と進むのだが、指導内容を創作する際にはその正反対の「難から易へ」が原則なのであり、まずもって最も難しいところから創っていくのである。
つまり、スタート部分から創作を開始するのではなく、ゴール部分の指導内容から創作していくわけだ。
だから、糸洲安恒が「武術の平安」を創り始めた時には、決して(より易しい)初段や三段ではなく、まずもって(より難しい)四段や五段から創作を開始したはずなのだ。
そして、五段は、「武術の平安」の伝授を受けた人にとっては常識であろうが、いきなり創るにはちょっと難度が高いのである。
となると、四段の業技のうち最も短いものとして、その第2業技が一番最初に創作すべき業技として選ばれたとしても何ら不思議では無い。
結局のところ、「サイファ」の「真の分解」というのは、糸洲が「武術の平安」の創作を開始して、一番最初に完成させた業技と考えられるのである。
では、何故、そのような業技が、「武術の平安」とは全く異なる型である「サイファ」として創作され、しかも剛柔流の型の中に紛れ込んだのであろうか?
これは極めて興味深い疑問ではあるが、この疑問はいったん棚上げしておいて、その前に、ここでもう一度改めて、「空手の近代化」とは一体いかなるものであったのか?という点について、しっかりと確認しておくことにしたい。
空手の近代化とは?
さて、「空手の近代化」について考察していくわけだが、ここではまず、それを「首里手の近代化」と「那覇手の近代化」に分けて、より細かく検証してみよう。
まず「首里手の近代化」だが、これは以下の3段階から成り立っている。
第1段階:武術空手としての近代化、即ち、「武術の平安」の創造。
(この第1段階では、主に軍隊での訓練のために、古伝武術空手(古伝首里手)から近代武術空手が創られたのだが、この近代武術空手とは、「ナイファンチ初~三段」も含まれるが、主には「武術の平安」のことを意味する。)
第2段階:体育空手である「体育の平安」の創造。
(この第2段階では、学校体育のために、「武術の平安」から「体育の平安」が創られた。)
第3段階:古伝首里手の型を、「体育の平安化」した。
(最後の第3段階では、数多くある古伝首里手の型を、「体育の平安」をモデルにして、変形させた。)
以上の三点が「首里手の近代化」なのである。
この「首里手の近代化」は、主に糸洲安恒によって行われたわけだが、より詳しく言うと、まず、上記の「第1段階」と「第2段階」は糸洲自身が行った。
そして、上記の「第3段階」の内、「パッサイ大」と「クーシャンクー大」は、近代武術空手に必要であった「パッサイ小」と「クーシャンクー小」を創らねばならなかった関係から、糸洲によって創作されたが、残りの多くの古伝首里手の型については、それらの「体育の平安化」は、糸洲の古伝首里手の弟子達によって行われたと言ってよいであろう。(因みに、本稿とは直接関係のない話題なので結論だけを記すが、「五十四歩(ウーセーシー)」の「大」と「小」は、まず間違いなく屋部憲通が創作した型である。)
では、次に「那覇手の近代化」だが、これは「首里手の近代化」とは大分異なり、上記の「第3段階」のみが行われたのである。
即ち、“古伝那覇手の型を、「体育の平安化」した”という段階しか行われなかったのである。
つまり、「那覇手の近代化」には、上記「首里手の近代化」の「第1段階」即ち近代武術空手の創造は無く、従って、それを前提とする「第2段階」も存在しなかったのだ。
結局、古伝那覇手の型を元にしていきなり体育空手が創られたわけである。
そして、この体育空手を創るという作業は、同時に「体育の平安化」でもあったわけで、従って、単に「体育化」が行われたのみならず、同時に「首里手化」も成し遂げられたわけだ。
この「那覇手の近代化」には「体育化」だけではなく同時に「首里手化」も含まれていた、ということは、東恩納寛量門下で宮城長順のライバルであった許田重発が起こした「東恩流」の動作を見ても確認出来るし、また、宮城長順が起こした「剛柔流」の動作でも同様に確認出来ることなのだ。
具体的には、例えば「引き手」等に現れているわけで、古伝那覇手の本来の「引き手」は、以前からこのサイトで度々述べているように、肘を下に向けて腕を畳むようにして(開手で)構える方式だったのだが、それが首里手と同様に、肘を後方に突き出して(拳で)構える方式に変更されているのである。
「那覇手の近代化」に必要な能力
さて、ここまで「空手の近代化」について、それを「首里手の近代化」と「那覇手の近代化」に細分化して詳しく見てきたわけだが、それに基づいて、ここでは、「那覇手の近代化」を行うのに必要とされる能力を列挙してみよう。
それは、
A)古伝那覇手の型を熟知していること。
B)「体育の平安化」という作業が、型の個々の動作のレベルで具体的かつ正確に行えること。
以上の二点が要求されることが分かる。
では、ここで問題である。
古伝那覇手の空手家達は、果たして上記の二つの能力を持っていたであろうか?
答えは、否、である。
古伝那覇手の空手家達は、確かにA)の能力は持っていたものの、B)の能力は持っていなかったからだ。
このB)の能力というのは、「首里手の近代化」の「第3段階」を実際に経験した者でなければ習得しえない能力なのであって、当時、この能力を持っていた者は非常に限られるのである。
有体に言えば、糸洲自身を除けば、糸洲の古伝首里手の直門下生に限られるわけだが、その中でもさらに絞られるのだ。
例えば、本部朝基は、「空手の近代化」には反対していたわけで、実際にも、「体育の平安」の誕生や指導などには全くと言ってよいほど関係していなかったのである。
船越義珍はどうか?
彼は、本部よりは関係していたであろうが、糸洲門下としては、やはり安里安恒からの預かり弟子だったわけで、「首里手の近代化」についても、糸洲から一通り指導は受けていたことは確かだが、関与の程度はそれ程深くはなかったと思われる。
結局、「首里手の近代化」に深く関わり、中でも「第3段階」を実際に主導していたのは、花城長茂と屋部憲通の二人であったと言えよう。
* 東恩納寛量は、「那覇手の近代化」を行ったことにはなっているが、東恩納自身には上記のB)の能力は全くと言ってよい程無かったため、結局は、細部にわたって糸洲のアドバイスを受けての「那覇手の近代化」だったのである。
従って、現在「東恩流」として残っている近代那覇手にしても、その成立に関しては、例えて言えば、東恩納寛量が主演であったとしても、監督・脚本は糸洲安恒と言っても過言ではなかったのであり、実質的には糸洲が創ったようなものなのだ。
ただ一人の人物
さて、段々と問題の核心に近づいて来たわけだが、ここで、本件に関わる人々の時間的かつ空間的な関係を整理しておこう。
宮城長順が剛柔流を正式に起こしたのは彼が42歳の時なので、彼が何者かからその剛柔流の型を伝授されたのは、彼が30代の時、特にその後半辺りが重要な時期になろう。
ここで念のために確認しておくが、糸洲が85歳で世を去った時、宮城はまだ20代後半なので、古伝那覇手の使い手でもあった糸洲から剛柔流の型を直接伝授された可能性はまずゼロである。
次に、本部と船越だが、この二人は、宮城が30代前半の頃に本土に移っており、よって、この二人も、宮城に型を伝授した可能性は極めて低いと言える。
そして、宮城が30代の頃に、ちょうど屋部憲通は渡米しており、よって、屋部が宮城にじっくりと型を指導した可能性もほぼゼロとなる。
結局、宮城に型を伝授出来たのは、花城長茂ただ一人なのだ。
この二人は、摩文仁賢和が作った空手の研究会にも参加していたので、間違いなく接点はあったことになる。
さて、このように述べても、読者の多くは、“何故、首里手の空手家であった花城長茂が、近代那覇手の型を宮城に伝授出来たのか?”と疑問に思うであろう。
しかし、それは十分に可能であったのだ。
何故なら、上述の如くに、糸洲安恒は、首里手のみならず、那覇手の使い手でもあったからだ。
そして、屋部や本部によれば、糸洲は、首里手の空手家として有名ではあるが、糸洲個人としては、むしろ那覇手の方をやや好んでいた、とのことである。
さらに、花城長茂は、屋部憲通と共に糸洲の最初期の弟子の一人だったわけで、糸洲直門の中でも、最も糸洲と長く接した弟子でもあったわけだ。
こうした事情から考えれば、花城が糸洲から那覇手の型に関する解説等を聞く機会はかなりの頻度であったことと思われるのである。
そして、先述の「那覇手の近代化」に必要な能力の内のA)については、何も古伝那覇手を実際に修行した過去がある必要は無く、少なくともそれらの「練武型」さえ正確に知っていれば、十分に足りたのだ。(もちろん、花城は、それらの型の「真の分解」も糸洲から教わっていたと思われるが。)
このように、花城長茂は、宮城長順に剛柔流の型を伝授出来る能力はもっていたであろうし、また、時間的・空間的にもそれが可能であった、ただ一人の人物なのである。
首里手の型
ここで、本稿の冒頭に戻って、「サイファ」の「真の分解」が「武術の平安(真の分解:勝負形)」の四段の第2業技の「原型(プロトタイプ)」であることに立ち返ってみよう。
こうした「極めて特殊な業技」を知っているのは一体誰であろうか?
もちろん、一人は、「武術の平安」を創った本人である糸洲安恒である。
そして、もう一人は、糸洲が「武術の平安」を創った時に、その相手役を務めた人物なのであるが、その人物こそが、誰あろう花城長茂なのである。
もう、これで完全につながったと言って良いであろう。
宮城長順に剛柔流の型を伝授したのは、間違いなく花城長茂だったのである!
花城長茂しかいないし、また、花城長茂なら可能だったからだ。
宮城長順が剛柔流を起こす前に、花城長茂は、近代那覇手の型を創作しては、それを宮城に伝授していたのだ。
それは、宮城が剛柔流を起こす暫らく前まで続いたであろう。
そして、宮城が剛柔流を起こす少し前には、屋部憲通が沖縄に帰ってきて再び空手の指導を開始していた。
花城は、大先輩の屋部に対し、こうした宮城への型伝授の事情を話し、最後に屋部にも一通り宮城の型を見てもらいたい、と告げたことであろう。
屋部も快くそれに応じ、これから一流を立てようとする後輩宮城の型を見て、幾つかのアドバイスなどもしたことであろう。
そして、この将来ある後輩のために、はなむけとして型を一つプレゼントしたのだ。
それが「セーパイ」だったのである。
思い出してもらいたい。この「セーパイ」というのは、先述したとおり、「松村宗棍の弟子の誰かが創作した型」なのであり、屋部憲通こそはまさに「松村宗棍の弟子」でもあったわけだ。
(屋部は、宮城長順のライバルであった許田重発にも、首里手の型である「ジオン」を伝授している。
このことは、近代那覇手は既に「首里手化」していることを屋部が確実に知っていたことを示している。
そして、宮城にも同様に首里手の型をプレゼントしたわけだ。)
また、花城もまた、糸洲亡き後は自分以外には誰も知らない「武術の平安(真の分解:勝負形)」の四段・第2業技の「原型(プロトタイプ)」を元にした型を創作し、それを「サイファ」と名付け、宮城にプレゼントしたのである。
以上が、剛柔流に、本来は首里手の型である「セーパイ」と「サイファ」が紛れ込んでいる理由だったのだ。
生涯沈黙を通した
さらに、屋部や花城は、宮城に対して、次のように釘を刺していたことは想像に難くないところである。
“我々は、糸洲先生から那覇手を教授して貰っているが、世間にはそのことは伏せてある。よって、世間は、我々を首里手の空手家としてのみ見ていることであろう。そこで、もし君がこれらの型を我々から伝授された、と発言したら、君の活躍を妬む者などは、それは正当な那覇手の型ではない、などと言い出しかねない。だから、我々から伝授を受けたということは、黙っていなさい。”
当時は、首里手・那覇手という用語は使わずに、その代わりに糸洲が作った照林流・照霊流という造語で話したかも知れないが、いずれにせよ、以上のような趣旨の発言を、屋部と花城は、宮城に対して行ったはずだ。
宮城はこの教えを忠実に守り、剛柔流の型の伝承経路については、生涯沈黙を通したのであろう。
いずれにせよ、宮城長順は、花城や屋部からは相当に好かれていたと思う。
また、剛柔流の型が花城から伝授されたということが、今までいかなる方面からもバレなかったということは、花城と宮城の何度にもわたる型伝授のための接触自体が、相当に秘密裏に行われたことを示している。
いずれにせよ、以上が剛柔流の型の伝承経路の真相なのであり、その内実は、花城長茂・指導、屋部憲通・監修、と言っても良いと思う。
* 先述した「サイファ」の冒頭部の「三歩前進」の所が何の鍛錬にもなっていない理由も、もうお分かりのことと思う。
「武術の平安(真の分解:勝負形)」の四段・第2業技の「原型(プロトタイプ)」自体は、四段という型の一部であったため、それ自体の開始地点と終了地点はかなりズレてしまうのであった。
従って、その業技を元に創作した練武型も、やはり開始地点と終了地点がかなりズレるわけである。
花城は、その二地点間のズレを埋めるためだけの目的で、適当な「三歩前進」の動作を創作して「サイファ」の冒頭に挿入しただけだったのだ。
だから、その「三歩前進」には何の鍛錬法も隠れてはいなかったのである。
私が発見した「真の分解」は本物である
以上、剛柔流の型の伝承経路について、今回明らかになった経緯につき詳述してきたが、よくよく考えてみれば、「空手の近代化」というのは、糸洲の古伝空手の一門しかなしえなかったことなのだから、花城長茂が剛柔流の型を創作してそれを宮城長順に伝えたことは、理詰めに考えていけば分かるはずのことではあったのだ。
しかし、今回は、「サイファ」という型の「真の分解」が、何と「武術の平安(真の分解:勝負形)」の四段の第2業技の「原型(プロトタイプ)」であることが判明したことから、結果的に剛柔流の型の伝承経路が分かったのであり、証拠が先行し、その後に理詰めの結論が導かれる、という流れになったわけである。
ところで、この“「サイファ」の「真の分解」は、「武術の平安(真の分解:勝負形)」の四段・第2業技の「原型(プロトタイプ)」である”という事実は、私個人にとっても重大なる意味を持つのである。
即ち、こうしたことが判明したという事実は、私の「真の分解」の発見法が正しいことの強力な証明になるからだ。
もし、私の「真の分解」の発見の仕方が間違っているのならば、決してこのような「サイファ」と「武術の平安」の関係などは現れてくるわけがないのである。
「武術の平安」も「サイファ」も共に、正しく本物の「真の分解」を発見しえたからこそ、両者の関係が見えたのであって、それ以外に、今回のような発見が成立する余地はない、と断言出来る。
つまり、この「サイファ」の「真の分解」こそは、「武術の平安」を始めとする私の一連の「真の分解」の発見がまさに本物であることを示す重要な証拠になるのである。
その意味でも、この「サイファ」の「真の分解」は、いずれ近いうちに公開することを読者に約束しておこう。
「サイファ」の「真の分解」と「武術の平安」の「真の分解」の両者を知り、そして、「サイファ」の「真の分解」が、間違いなく「武術の平安」の「真の分解」の四段・第2業技の「原型(プロトタイプ)」であることが確認出来れば、私が本サイトで公開伝授している内容が間違いなく糸洲安恒が創った本物であることが、誰にとっても明らかになるからだ。
* ここで、既に「武術の平安」の伝授を受けた人達だけに向けて、ちょっとだけ記しておきたい。
この「サイファ」の「真の分解」を知れば、私が拙著「武術の平安」の中で「軍隊用の口伝」として記したことや、また、最後の「総括」で述べたことが、まさに「正解」であったことがはっきりと分かるはずだ。
詳しいことは、いずれ「サイファ」の「真の分解」を公開した時に明らかになるであろう。
乞うご期待、である。
(*後日注:「サイファの分解」は、2020年5月10日に公開伝授を開始しました!詳しくは、ここをクリック!)
武術空手研究帳・増補(25) - 完 (記:平成三十年十月)