武術空手研究帳・増補(26)- 【重要情報公開!】古伝空手の蹴り技について
[ 本稿では、今まで誰も知らなかった、古伝首里手及び泊手の蹴り技の一大秘密を公開しておく。
さらに、それらの古伝の蹴り技が、現代空手の蹴り技とどれ程異なるのか、についても記しておく。
最後に、古伝那覇手の蹴り技についても、本邦初公開の情報を提供しておこう。]
軸足を切るな
私が現代空手を最後に修行した流派では、その場基本の前蹴りは、前屈立ちから後足で前蹴りを行ったのだが、その際「軸足を切るな」と指導された。
「軸足を切る」とは、前蹴りを放ったときに、軸足のつま先が外側に開くことを意味する。
つまり、「軸足を切るな」ということは、前蹴りを放った時でも、軸足は前屈立ちの前足の状態を保て、ということなのだ。
この流派の前蹴りは、蹴るや否や蹴り足を引き戻すいわゆる「スナップ前蹴り」ではなく、むしろ「倒木法(倒地法)」を使ったような全力で蹴り込むタイプの「前蹴り」だったのである。
しかも、この流派の前屈立ちは、前足の外側(つまり足刀部)を正面に向ける方式だったので、前足はやや内向きになっていたのだが、その前足の状態を変えずに、そのような蹴り込むタイプの前蹴りをしろ、というわけだ。
はっきり言って、これはかなり困難なことだった。
何しろ、現代空手の前屈立ちには横幅がある。従って、前屈立ちの前足の状態を一切変化させずに自分の「真正面」に向かって前蹴りをすると、軸足は体の真下には来ないわけだ。
これでは、蹴るたびに体が左右に(つまり、蹴り足の側に)倒れてしまうのである。
さらに困ったことに、この蹴り方を続けていくと、両足首が痛くて耐えられなくなってしまうのだ。
つまり、蹴るたびに、骨盤が回転するわけだが、その回転が軸足の脚にも及ぶわけだ。
そこで、蹴る時に、「軸足を切れば」その回転は開放されるのだが、「軸足を切らない」と、その回転の圧力が一気に軸足の足首に掛かって来るのである。
これが何回も繰り返されると、やがては足首の損傷へと繋がっていくわけだ。
私は、当時、その流派内で三つの道場に通っていたために、一日辺りの練習量もかなりのものだったため、この足首の負担も半端ではなかった。
結局、他の人はどのように対処しているのか、と思って、指導者や先輩に訊ねたり、講習会の時に観察したり、と色々調べたのだが、要するに、他の人々は全員(この流派のトップも含めて)、主観的にはこの教えを守っているつもりではあったが、客観的には全く守っていなかったのである!(つまり、自分自身では「軸足は切っていない」と思い込んでいたのだが、実際はしっかりと「軸足を切っていた」ということだ。)
まぁ、当然と言えば当然であろう。
今から考えれば、この教えは、「現代空手」の教えとしては完全に間違っている。
現代空手の前屈立ちには横幅があるのだから、前屈立ちの後足で前蹴りを行う場合には、前足の上足底を軸にして前足踵を内側に入れて(要するに、軸足を切って)、その前足踵を身体の真下に位置するようにして前蹴りを行うべきなのだ。
こうしてこそ、(左右の)バランスの取れたまともな前蹴りが可能になるのであり、かつ、足首への過度な負担も消えるのだ。
しかし、私は当時、あくまでもこの「軸足を切らない」という技術にこだわっていた。
何故なら、「軸足を切る」ことは、即ち「気配を見せる」ことに他ならない、と考えていたからで、武術的に見てこの教えは絶対に正しい、と確信していたからだ。(「気配を出さない」については、「武術空手研究帳(第1回)」を参照願いたい。)
しかし、両足首の苦痛も限界に達しており、歩くことさえままならなくなっていたので、結局は、この技術も断念せざるを得なかった次第なのである。
私にとって、現代空手の技術には、昔から色々と「解けない疑問」があったのだが、この軸足の問題は、私の現代空手修行時代の一番最後の「解けない疑問」なのであった。
花城長茂の蹴り技
その後、十数年以上経過したある日のことである。
私は、一枚の写真を見る機会を得た。
ヒゲを生やした老人が蹴り技を行っている写真である。
現在では、「空手道大観」の「花城長茂の蹴り技の写真」として、わりと有名になっている、その写真だ。
その写真を見た瞬間、私は「おぉー、古伝空手の蹴りの写真だ!」と感動した。
何しろ、私が長年に渡り疑問に思っていた「軸足を切らない蹴り技」を、その写真は見事に捉えていたからだ!
「やはり、俺は正しかったんだ」とその時確信した。
昔の本物の武術の蹴り技では、絶対に「気配を消す」即ち「軸足を切らない」はずだった、との私の考えは、間違ってはいなかったのである。
では、私があれほど憧れて、それでも困難だった、「軸足を切らない」という技術は、一体何故、花城には可能だったのか?
私は、さらに詳細に写真を観察した。
軸足の左足のつま先は、確かに正面を向いている。
では、一体・・・
「そうか!そういうことだったのか!」
この写真を見た人は、今では結構な人数になっていると思うが、私と同じ発見をした人は、ほとんどいないのではなかろうか。
では、私は一体何を発見したのか?
ポイントは、花城の蹴り足である右足にある。
ズバリ言えば、右足の指だ。
写真で見る彼の右足の(親指を除く)四指の先は、ほぼ一直線上に縦(垂直)に並んでいるのである。
そもそも、人間の足の四指の先は、つま先を正面に向けて立っている時に上から見れば、人差指から小指にかけて、大体斜め45度に並んでいるわけだ。
しかし、その四つの右足指の先が、花城の写真では縦に一直線上に並んで見える。
ということは、そうである、花城の右足は、つま先が、真上を向いているのではなく、(花城から見て)右斜め45度上方に向いているのだ!
つまり、写真をパッと見ただけでは分かりづらいが、花城の蹴り脚である右脚は、膝もつま先も右斜め45度上方に向いていたわけだ。
これが「軸足を切らない」ための、古伝首里手(及び泊手)の蹴り技の一大秘密だったのである!
当破
私は、現在までに古伝首里手及び泊手の代表型全ての復元を終えているが、それらの型に登場する全ての(前方への)蹴り技に共通しているのは、「軸足を切らない」即ち「軸足を外に開かない」点と、「蹴り足のつま先を約45度外側に開く」点なのである。
これこそが、古伝首里手及び泊手の蹴り技の一大秘密だったのだ。
但し、この事は、あくまで古伝首里手及び泊手の蹴り技の「形式的(即ち、骨格的)」な特徴に過ぎないのであって、古伝首里手及び泊手の蹴り技の「実質的(即ち、筋肉的)」な蹴り方は、また全く別の問題である。
つまり、この「形式的」な特徴を真似たところで、「実質的」な蹴り方を知らなければ、まともな古伝首里手及び泊手の蹴り技にはならない、ということだ。
そして、その「実質的」な蹴り方というのは、はっきりと言っておけば、「当破」が出来るレベルの身体能力を持っていないと実行不可能なのである。
要するに、古伝首里手及び泊手の蹴り技というのは、「当破」が出来るレベルに到達していないと出来ない技なのだ。
従って、本稿で古伝首里手及び泊手の蹴り技の「形式的」な特徴を知ったからといって、それだけを単純に真似ても、「実質的」な蹴り方が現代空手レベルであれば、それは決して古伝首里手及び泊手の蹴り技にはならないのであり、極めて珍妙な蹴り技(?)が誕生してしまうだけなのだから、変なモノマネは慎んだ方が身のためである。
広い世の中には、他人の業績・発表をパクッては奇妙な技や理論を発表する人達もいることなので、念のためにクギを刺しておく次第である。
外側へ開くメカニズム
このようにして古伝首里手及び泊手の蹴り技の「形式的」な特徴を発見した私ではあったが、当時は未だ「当破」が出来るレベルの身体能力は有していなかったので、古伝首里手及び泊手の蹴り技が実際に出来たのは、もっとずっと後のことだったのだ。
ただ当時、古伝首里手及び泊手の蹴り技の「形式的」な特徴が分かっただけでも、大きな進歩ではあった。
その点を、もう一度分かりやすく実地に解説しておこう。
まず、閉足立ちになり、それから、右足を(つま先を正面に向けたまま)真っ直ぐ大きく前方に踏み出す。すると、骨盤が(上から見て)反時計回りに回転し、そのせいで左脚も半時計回りに回転するので、左足のつま先が真っ直ぐ正面を向いたままだと、左足首が苦しくなる。そこで、左足踵を軸にして左足つま先を左方へ約45度開いてやると、左足首の負担はなくなることが分かる。
以上が、現代空手や近代空手で、前方への(蹴り込むタイプの)前蹴りを行った時に軸足が外側へ開くメカニズムなのである。(現代空手や近代空手では、前方への(蹴り込むタイプの)前蹴りに際しては、軸足は外側へ開くのが人体の構造上自然なのであり、自らの足首を守るためにも開かねばならないのだ。)
これに対して、古伝首里手及び泊手の蹴り技は、ちょうど次のようになるのである。
まず、閉足立ちになり、それから、右足踵を軸にして右足のつま先を約45度右方へ開いて、ちょうど右足のみは結び立ちみたいにする。それから、その約45度開いた状態を保ったまま右足を真っ直ぐ大きく前方に踏み出す。すると、この場合は(先程とは異なり)骨盤は回転せず、従って左脚も回転しないので、左足のつま先が真っ直ぐ正面を向いたままでも、左足首は特に苦しくない。
以上が、古伝首里手及び泊手の蹴り技の「形式的」な特徴の、分かりやすい解説なのである。
蹴り技の相違点
さて、以前の増補でも少し触れたことだが、現代空手家は、昔の空手というものを「現代空手とほんの少し違う空手」程度にしか考えていない。
どうしてそうなるのか、というと、昔の空手について何を考えるにしても、空手と言えば現代空手しか知らないが故に、自分では意識せずに、常に現代空手を元にして考えてしまうからなのである。
例えば、以前ある雑誌で、昔の空手の蹴り技はこういうものだ、という発表があったが、そこで紹介・解説されていたのは、現代空手の三大基本蹴りである「前蹴り」「回し蹴り」「横蹴り」を変形させた蹴り技だった。
もちろん、そんな変形された蹴り技は昔には存在しなかったのであり、その発表は大間違いなのであるが、発想の出発点が常に現代空手であることが良く分かる例ではあった。
丁度良い機会なので、ここで、「現代空手」と「古伝首里手及び泊手」とで、蹴り技がどれ程異なるか、思いつくままに少し列挙してみようと思う。
まず、現代空手には、上記のように「基本の蹴り技」というのが存在するが、古伝首里手及び泊手にはそのような「基本の蹴り技」なるものは存在しない。何しろ、「その場基本」などという稽古法自体が存在しなかったのだから、古伝首里手及び泊手には「基本の蹴り技」などあったはずがないのである。
古伝首里手及び泊手の世界では、蹴り技というのは、各型ごとに異なる蹴り技が登場するのであって、その蹴り技の内、どれが基本でどれが応用、などという決まりはなかったのだ。
それらの蹴り技の全てが、基本と言えば基本だったのである。
従って、次の特徴としては、古伝首里手及び泊手では、蹴り技の種類は現代空手よりもずっと豊富だったことである。
例えば、現代空手で「金的蹴り」と言えば「前蹴り」類似の一種類だけだが、古伝首里手及び泊手の「金的蹴り」には何種類もあったのだ。
ザックリと言ってしまえば、古伝首里手及び泊手の蹴り技というのは、型の数(以上)あったとも言えるのである。
それ程、種類が多かったのだ。
蹴り技の相違点(続き)
古伝首里手及び泊手の蹴り技のさらなる特徴としては、蹴り技を行うのがかなり「難しい」という点が挙げられる。
現代空手を修行していた頃の私は蹴り技が非常に得意で、アクロバティックな蹴り技を含めて、まず出来ない蹴り技というのは無かった。
しかし、古伝首里手及び泊手の蹴り技となると、事情が全く異なるのである。
例えば、「クーシャンクー(観空)」の最後と「チントウ(岩鶴)」の始めの方にそれぞれ「二段蹴り」が登場するが、現代空手の型では、これらの「二段蹴り」は、左右が反対なだけで、蹴り技としては同じ蹴り技になっている。
しかし、古伝首里手及び泊手では、それぞれの「二段蹴り」は全く別の種類の「二段蹴り」になる。
そして、私の場合、「クーシャンクー(観空)」の「二段蹴り」は、初めて実行した時から問題なく出来たのだが、「チントウ(岩鶴)」の「二段蹴り」はそうではなかったのであって、こちらの「二段蹴り」には、今でもある種の苦手意識がある。
ちなみにだが、安里安恒は「蹴りの名手」と言われていたが、中々に困難な古伝首里手及び泊手の蹴り技を、かなり易々と実行出来たからこそ、そのように呼ばれたわけだ。
それだけ、当時の古伝空手家達にとっても、古伝首里手及び泊手の蹴り技というのは、「難しい」技術だったのである。
* 念のために、「前蹴り」「回し蹴り」「横蹴り」について、ここで一言しておこう。
まず「前蹴り」だが、これは、今までにも何度も述べたように、空手の近代化に際して糸洲安恒が開発・創作した蹴り技なのであって、それ以前には存在しなかった蹴り技なのである。
次に、「回し蹴り」だが、この技は、現代空手で自由組手が発達するプロセスの中で自然・必然的に発生した技なのだ。
ムエタイの影響を云々する人もいるであろうが、ムエタイ以前に、「前蹴り」が自由組手の中では思ったほど使えなかったことから、半身の相手に対しても使いやすい蹴り技、そして、前蹴りの変化技として、この「回し蹴り」は誕生したのである。
そして、最後の「横蹴り」だが、これも以前述べたように空手近代化以降に安里安恒が創作し弟子の船越義珍にプレゼントした技なのであって、現代空手誕生の頃には「松涛館流空手の看板技」とも言われた蹴り技だったのだ。
とにかく、これら三つの「基本の蹴り技」は、全て空手近代化以降に誕生した蹴り技なのであり、よって、これらの「基本の蹴り技」を、古伝空手の時代の蹴り技に密接に関連する蹴り方として登場させることは、完全なる間違いなのであり、それはあたかも、水戸黄門が葵の御紋の付いた「スマホ」を取り出すようなもので、時代考証が完全におかしいのである。
十分に注意してもらいたい。
足技
では、古伝首里手及び泊手の蹴り技の解説の最後に、足技全般の整理をしておこう。
それは、次のようにまとめることが出来る。
“古伝首里手及び泊手の「広義の足技」”の分類
(1)古伝首里手及び泊手に特有の「本格的な蹴り技」
(2)「狭義の足技」
(A)「素朴な蹴り技」
(B)「取手系の足技」
以下、詳しく解説しよう。
まず、“古伝首里手及び泊手の「広義の足技」”だが、これは(1)古伝首里手及び泊手に特有の「本格的な蹴り技」と、(2)「狭義の足技」に分かれる。
この内、(1)こそが、本稿で今までに解説してきた「蹴り技」のことである。
それに対して、(2)は、(1)以外の足技のことなのだが、型の中では、これらの「狭義の足技」というのは「運足」として表現されており、普通に型を見ただけでは全く分からないようになっている。
結局、この(2)については、型の「真の分解」を知っている者にしか分からない技術なのであるから、現代空手家は、今まで誰一人と言えども、この(2)の存在は全く知らなかったと言って良い。
よって、この(2)が存在するとの発表は、本稿が本邦初という事になろう。
さて、この(2)も、(A)「素朴な蹴り技」と(B)「取手系の足技」に分かれるわけだ。
この内、(A)は、素人でも可能な素朴な蹴り技を意味するが、簡単に言ってしまえば、例えば「踏んづける」ような蹴り等のことを言うわけだ。
これに対し、(B)は、例えば“足(脚)を使った取手技”みたいな技を意味している。
足を使うのに取「手」技、というのもおかしな表現だが、読者でも知っているような例で言うならば、例えば、プロレスの「コブラツイスト」などは、自分の腕や脚で相手の体を痛めるように固める技だが、例えて言えばそのような技がこの(B)には含まれるわけだ(もちろん、古伝空手にコブラツイストは無いが)。
以上が、古伝首里手及び泊手の「広義の足技」の分類になる。
良く理解しておいてもらいたい。
古伝那覇手の蹴り技
さて、今度は「古伝那覇手」の蹴り技についてであるが、読者は驚くかも知れないが、結論から述べると、古伝那覇手には、上記の、(1)「本格的な蹴り技」は無く、(2)-(A)「素朴な蹴り技」のみがあった、ということだ。
では、何故、古伝那覇手には「本格的な蹴り技」が無かったのだろうか?
先述の通り、古伝首里手及び泊手の「本格的な蹴り技」の「実質的」な蹴り方は、「当破」と密接な関係があったわけである。
そして、「武術空手研究帳」にも記した通り、古伝首里手及び泊手の「当破」は、エネルギーが大きく豪快な「当破」だったために、「手技」よりもずっと動作の大きい「本格的な蹴り技」にも対応可能なのであった。
これに対して、やはり「武術空手研究帳」に記した通り、古伝那覇手の「当破」はエネルギーがかなり小さかったのだ。
だから、古伝那覇手の「当破」では、肘を後方に出す首里手の引き手の方式では、満足に突き技が出来ず、肘を下に向け腕を折りたたむ方式のコンパクトな引き手でなければ、突き技が出来なかったくらいなのだ。
このように、かなり小さな動作にしか対応出来ない古伝那覇手の「当破」の技術では、もっとずっと大きな動作である「本格的な蹴り技」の動作には対応出来ないのも当然なのである。
以上が、古伝那覇手には、「本格的な蹴り技」はなく、「素朴な蹴り技」のみがあった理由なのだ。
結局のところ、本来の古伝那覇手の型には、蹴り技は一切登場せず、少しの「素朴な蹴り技」が運足に隠れていただけだったのである。(要するに、古伝那覇手は「手技」中心の体術だったわけだ。)
* 「増補(24)」で、「セイエンチン」は初伝の型なので蹴り技が無い、と記した。確かにそれはそれで間違いではないのだが、より根本的な観点から言えば、そもそも古伝那覇手には「本格的な蹴り技」が無かった、という方がより正しい表現とも言えよう。
** 「増補(25)」の中で、“糸洲安恒は、首里手の空手家として有名ではあるが、糸洲個人としては、むしろ那覇手の方をやや好んでいた”と述べた。
しかし、古伝空手の世界では、那覇手というのは、所詮は首里手の亜流に過ぎないのであって、当破のエネルギーもより小さいし、貫手を除けば技術的にも特に見るべきものもたいしてない。
従って、糸洲が那覇手をより好んだ、とすれば、その理由はただ一つしか考えられない。
それは、糸洲は首里手(や泊手)の「本格的な蹴り技」がかなり苦手であった、ということだ。
もちろん、糸洲であっても、「素朴な蹴り技」は難なくこなせたであろうから、近代空手の蹴り技の創造などは何の困難もなくやり遂げたわけだが、古伝の首里手(や泊手)の「本格的な蹴り技」は、どうしても苦手だったと思われるのである。
(那覇手の)セーシャン
さて、古伝那覇手には「本格的な蹴り技」は無かったわけだが、「増補(25)- 剛柔流の型の伝承経路」の中で、那覇手の近代化の過程で那覇手は「首里手化」された、と述べたことを思い出してもらいたい。
この「首里手化」には、「蹴り技の追加」も含まれるのである。
糸洲安恒が東恩納寛量に具体的にアドバイスする形で創作された近代那覇手は、現在では許田重発が起こした「東恩流」に残されているが、私は東恩流の詳細は知らない。
しかし、「武術空手研究帳」でも触れた通り、若き許田重発と宮城長順が組手をしているような写真で、許田重発は既に糸洲が創作していた「前蹴り」を実演していることから、糸洲は東恩納に前蹴りを指導し、この蹴り技を近代那覇手に含めるように助言したと見てまず間違いはないと思われる。
さらに、屋部憲通は許田重発に首里手系の型である「ジオン」を伝授しており、その「ジオン」が「東恩流」に残っているが、この「ジオン」は(松涛館流の「ジオン」と同様に)「体育の平安化」された首里手の型なのであるから、当然に「前蹴り」を含んでいるはずだ。
そして、その事実は、屋部もまた、近代那覇手には蹴り技(前蹴り)があっても良い、と判断していたことを示している。
結局のところ、現在の剛柔流の型にある数多くの蹴り技も、全ては空手近代化以降に付け加えられた蹴り技なのである。
ただ、花城長茂が宮城長順に型を伝授した時に含まれていた蹴り技は、現在の剛柔流の型の中の蹴り技の極一部であったろうと思われるのだ。(花城長茂が宮城長順に型を伝授したことについては、「増補(25)」を参照願いたい。)
その点について、ここでは「(那覇手の)セーシャン」を取り上げることで、具体的に検討してみることにしよう。
剛柔流の「セーシャン」では、(団体によって多少の違いはあるが)四回の「関節蹴り」と最後辺りに「前蹴り」が一回登場してくる。
結論から言うと、最後の辺りの「前蹴り」は、おそらく花城長茂が挿入したのであろうが、それ以外の「関節蹴り」は、全て宮城長順かその弟子達が挿入したと思われるのである。
花城は、師の糸洲に倣って、近代空手の標準的な蹴り技である「前蹴り」は挿入したはずだ。
つまり、花城も、古伝那覇手に「本格的な蹴り技」が全く無かったことは十分に承知していたわけだが、型を宮城に伝授するに際して、蹴り技が全く無い空手では、首里手系の型と比較して、やはり大きく見劣りしてしまうことから、せめて「前蹴り」を一回くらいは挿入したはずなのだ。
それに対して、「セーシャン」の「関節蹴り」は四回も登場してくるのであり、首里手と比較しても型一つあたりの蹴り技の数がかなり多いことになる。元々蹴り技の無い型であることを知っている花城ならば、さすがに四回も「関節蹴り」を挿入することはしないであろう。
さらに、「関節蹴り」というのは、軸足の上に身体の重心を「居付く」が如くにしっかりと乗せて、完全に蹴り足の脚力だけを使って蹴る技なのであり、まさに「発力法」が全く無く「脚力で蹴る」現代空手そのものの蹴り技なのである。よって、花城のような古伝空手家は基本的に好まない蹴り技なのだ。
以上のことから、これらの四回の「関節蹴り」は、宮城かその弟子達が挿入したと考えられるのである。
さらに、上記の結論については、もっと決定的な理由もある。
私は「セーシャン」の「真の分解」を解明済みであり、よって当然に、各挙動ごとに敵がどのような状態でどこにいるのかも知っているわけだが、実は、最後の「前蹴り」の場面では、確かに敵のいる方向へ蹴り技を放っているのだが、それ以外の全ての「関節蹴り」では、何と、敵が存在しない方向へ蹴り技を放っているのだ!
花城はもちろん「セーシャン」の「真の分解」を知っていたはずだから、さすがに敵のいない方向へ蹴り技を放つ、などという事はしなかったはずだ。
よって、その意味でも、「前蹴り」を挿入したのは、「真の分解」を知っていた者、即ち、花城長茂であり、それ以外の蹴り技である「関節蹴り」を挿入したのは、「真の分解」を全く知らなかった者、即ち、宮城長順かその弟子達にまず間違いないと思われるのである。
いずれにしても、剛柔流の型の中にある各種の蹴り技は、全て空手近代化以降に新たに付け加えられたものなのであって、オリジナル(古伝)には無かったものだ、ということは良く覚えておいてもらいたい。
* 「セーシャン」の最後辺りに登場する「前蹴り」は花城長茂によって挿入されたとする根拠にはもう一つあって、それは、その前蹴りが、花城が創作した「サイファ」に登場する前蹴りと密接な関連があるからなのだが、詳しいことは「サイファの分解」を公開する時に同書中で解説することにしよう。
武術空手研究帳・増補(26) - 完 (記:平成三十年十一月)