武術空手研究帳

武術空手研究帳・増補(27)- “猫足立ち”誕生の秘密

 [ 剛柔流等でよく見かける後足に体重のほとんどを掛ける「猫足立ち」という立ち方は、古伝空手の昔から存在した立ち方だったのだろうか?

 もしそうでないのならば、では一体いつどのようにして誕生したのか?

 本稿では、その謎を解き明かしてみよう。]

浮き足の一種

 私が「猫足立ち」なる立ち方を実際に習ったのは、最初に学んだ現代空手の流儀である「剛柔流」においてであり、その後は、「極真空手」でも「猫足立ち」を使った記憶がある。

 しかし、それ以外の流派、即ち、「松涛館流」や「玄制流玄和会」では、「猫足立ち」は基本的に使わなかった。

 従って、現代空手を習っていた頃の素朴な感想としては、「猫足立ち」という立ち方は、剛柔流系統(従って、那覇手系統)では使うが、松涛館流または玄制流系統(従って、首里手及び泊手系統)では基本的に使わない立ち方、という印象であった。

 「猫足立ち」について、当時はそれ以上深く考えたことはなかった。

 ただ、剛柔流や極真空手を習っていた時に「猫足立ち」について感じていたことを思い出してみると、当時としてはそれなりに「良い立ち方」と思っていたと記憶している。

 如何なる点が「良い」と思ったのか、というと、「猫足立ち」という立ち方は、「静中に動あり」のような立ち方、と思えた点が「良い」という評価に繋がったと考えている。

 この「静中に動あり」については後述することとして、さて、私が現代空手を習っていた頃から既に数十年が経過しており、現在では古伝空手や近代空手の復元を完了し、それらを稽古している身となっている。

 そうした自分として、改めてこの「猫足立ち」という立ち方を捉え直してみると、まず最初に述べておきたいのは、“古伝空手には猫足立ちなどという立ち方は無かった”という点だ。

 ここに古伝空手とは、首里手、泊手だけでなく、那覇手をも含む意味で言っていることに注意してもらいたい。

 現在の剛柔流を知っている読者ならば驚くかも知れないが、古伝の那覇手には「猫足立ち」なる立ち方は存在しなかったのである。

 何故かならば、武術空手であった古伝空手にとっては、「猫足立ち」などという立ち方は、全く不要どころか、有害ですらあったからだ。

 この点については、本部朝基の発言も残っている。

 その発言から、本テーマに関連する部分のみを抜粋して引用してみよう。

 “自分の唐手には、猫足(省略)などという立ち方はない。いわゆる猫足などというものは武術の上で最も嫌う浮き足の一種で、体当たりを食えばいっぺんに吹っ飛んでしまう。” - 中田瑞彦「本部朝基先生・語録」昭和53年、小沼保『琉球拳法空手術達人 本部朝基正伝』所収、より。

 このように、本部は、「猫足立ち」を評して、“武術の上で最も嫌う浮き足の一種で、体当たりを食えばいっぺんに吹っ飛んでしまう”などと酷評しており、根本的に認めていなかったのである。

 現在の私の意見も本部と全く同様なのであり、「猫足立ち」なる立ち方は、武術的に見て全くダメな立ち方と考えている。

 * 上記本文で本部朝基の発言を取り上げたが、本部の発言には下記のような特徴があるが故に、その取り扱いには十分な慎重さが要求されるのだ。

 しかし、そうした慎重さを欠いたまま本部の発言を恣意的に引用・解釈する人々が後を絶たず、そのために、誤解に満ちた謬論などがあちこちに見受けられる、という困った現象が起きている。

 こうしたことを防ぐためには、まずもって、本部の発言の特徴を正しく理解しておく必要があるのだ。

 そこで、本部の発言の特徴をここに簡単に列挙しておく。

 ①彼の発言は、実践家らしく要点のみを大雑把にズバリと指摘するものが多く、緻密な学者的な発言はしていない。

 ②彼の発言は、その背景や前提、特に、誰に対しての発言か等が、しっかりと考慮されなければ誤解を招くものが結構ある。

 ③彼は、例外的にしか古伝空手については発言していないのだが、多くの人は、彼の発言のかなりの部分は古伝空手に関するものだ、と勝手に決めてかかってしまっている。

 いずれ機会があれば、本部の発言に関しての論考を発表するかも知れないが、本部の発言を取り扱おうとする人は、くれぐれも上記の特徴を忘れないでもらいたいと思う。

 上記の特徴をしっかりと踏まえた上で本部の発言の「真意」を探るという行為は、実はかなり知的難度が高い作業なのであって、そう簡単に誰にでも出来ることではないのである。

 くれぐれも、安易に本部の発言を引用・解釈しないでもらいたいと思う。

半月(セーシャン)

 さて、古伝空手に「猫足立ち」は無かった、と述べたが、念のために言っておけば、古伝の首里手と泊手には、「猫足立ち」に似ている「瞬間的な姿勢」はあった。

 「猫足立ち」に似ている「瞬間的な姿勢」とは、その言葉どおりに「瞬間的」な姿勢なのであって、立ち方のような半継続的な姿勢ではない。

 現代空手の型では、そうした「猫足立ち」に似ている「瞬間的な姿勢」は、基本的に消えてしまっているのだが、松涛館流の型の中には、本来はこの「瞬間的な姿勢」だったものが、変形の結果、逆に「猫足立ち」になってしまった、というややこしい例がある。

 それは、「半月(セーシャン)」の一番最後に登場する「猫足立ち」である。

 この姿勢は、本来の古伝の「セーシャン」では「猫足立ち」に似ている「瞬間的な姿勢」に過ぎなかったのだが、それが今では「猫足立ち」そのものになってしまっているわけだ。

前傾猫足立ち

 では、そもそも「猫足立ち」はいつ、如何にして生まれたのであろうか?

 結論から言おう。

 「猫足立ち」は、糸洲安恒が創ったのである。

 いや、正確に言うと、現在の「猫足立ち」の「原型」を創ったのが、糸洲なのである。

 つまり、糸洲が創造したのは「前傾猫足立ち」という立ち方だったのだが、その後、その「前傾猫足立ち」から前傾姿勢を無くすことで、現在の「猫足立ち」が生まれたのだ。

 では、まずは、糸洲が「前傾猫足立ち」を生み出した経緯から解説しよう。

 これから述べることは、拙著「武術の平安」の読者にとっては常識レベルの内容だが、ネット上で公開出来る範囲で、簡潔に解説しておこう。(詳細が知りたい人は、拙著「武術の平安」を参照願いたい。)

 読者は現代空手の経験があるだろうから、おそらく次の口伝をどこかで耳にしたことがあると思う。

 即ち、「後屈立ちの前足には蹴り技が隠れている」という口伝である。

 実は、この口伝は、古伝空手や現代空手とは一切関係が無いのであって、「近代空手(武術の平安)」に固有の口伝なのだ。

 従って、そこで述べている「後屈立ち」とは、古伝空手や現代空手のような上体を垂直に保つ「後屈立ち」ではなく、「武術の平安」における標準的な後屈立ちである所の「前傾後屈立ち」を意味するのである。

 結局のところ、その点を考慮してその口伝を書き直せば、「前傾後屈立ちの前足には蹴り技が隠れている」という口伝になるわけだ。

 さて、その「前傾後屈立ち」だが、その立ち方の概要を簡単に解説すると、両足踵は前後に一直線上に揃え、両踵間の足幅は肩幅の約二倍弱、両足にほぼ均等に体重を掛け、主に前膝を曲げて、後足踵から頭部までをほぼ一直線に保って前傾姿勢を取る。これが「武術の平安」に特有の「前傾後屈立ち」なのである。

 さて、実際にそのように立ってから、前足を床から上げてみてもらいたい。

 そうすると、その途端に体が前方に倒れていくのが分かると思う。

 体が前方に倒れる、ということは、前方に向かって「倒木法(倒地法)」のエネルギーが発生しているわけであり、よって、このエネルギーを活用しない手は無いのである。

 つまり、「前傾後屈立ち」で立てば、前足を床から上げただけで直ちに「倒木法(倒地法)」のエネルギーが発生するのであるから、その床から上げた前足でそのまま前方に前蹴りを放てば、それが即「倒木法(倒地法)」を使った前蹴り(つまり、威力のある前蹴り)そのものになるわけだ。

 以上が、「前傾後屈立ちの前足には蹴り技が隠れている」という口伝の真意なのである。

 (もうお分かりのとおり、この口伝を(ほとんど前傾していない古伝空手や現代空手の)「後屈立ち」の口伝として捉えたら、全くの見当違いになってしまうのであり、その場合には、かなり弱い蹴り技しか出来ないことを理解してもらいたい。)

 さて、口伝の真意が分かったところで、今度は、その口伝通りに、読者も実際に「前傾後屈立ち前足蹴り」を何度か実行してみてもらいたい。

 如何であろうか?

 一度くらいならまだしも、何度も実行するにはいささか苦しい動作と思うはずだ。

 つまり、この動作は、「鍛錬」には良いが、「実戦」向きでは無いのである。

 そこで、糸洲が実戦向きに考え出したのが、「前傾猫足立ち」という立ち方だったのだ!

 この「前傾猫足立ち」という立ち方は、上記の「前傾後屈立ち」の姿勢や前傾度合いを保ったまま、前足のみを後足の方に近づけて行き、前足を(踵を上げて)頭部の真下に持ってきた立ち方、なのである。従って、現代空手の「猫足立ち」のように、後足に多くの体重が掛かる立ち方なのではなく、逆に、前足(の上足底)に多くの体重が掛かる立ち方だったのだ。

 実際に、この「前傾猫足立ち」から先程の「前足蹴り」を行ってみてもらいたい。

 「前傾後屈立ち」の時とは比較にならないほど容易に前足蹴りが出来ることに気付くはずだ。

 * 「前傾後屈立ち」から「前傾猫足立ち」へと立ち方を変化させていく際には、必ず、「前傾後屈立ち」の姿勢や前傾度合いを保ったまま、立ち方を変化させる点に注意してもらいたい。

 何故なら、もしその際に前傾度合いを弱めてしまったら、「倒木法(倒地法)」のエネルギーそのものが弱まってしまうからである。

 なお、糸洲安恒が「前傾前屈立ち前足蹴り」を採用しなかった理由は、極めて単純で、これは実際にやってみれば直ぐに分かることである。

 つまり、その立ち方では前傾姿勢が余りにも厳し過ぎて、とてもではないがマトモな「前足蹴り」は不可能だからだ。

 (「前傾前屈立ち」それ自体については、「増補(15)」の中で簡単に解説してあるので、そちらを参照願いたい。)

前傾姿勢

 以上が「前傾猫足立ち前足蹴り」の解説なのだが、念のために、ここで注意しておきたい点が二つある。

 まず第一点は、この「前傾猫足立ち前足蹴り」という技は、あくまで「上級者向けの技」という点である。

 つまり、「武術の平安」修行者の内、中伝(の後期)から奥伝の者に関係してくる技術なのであって、初伝段階では全く稽古しない技術という点だ。

 次の第二点は、この「前傾猫足立ち前足蹴り」はもちろんのこと、この技の原点である鍛錬用の「前傾後屈立ち前足蹴り」自体も、そもそも「隠し技」だという点である。

 ここで「隠し技」というのは、通常の型稽古においては、ただ単に「前傾後屈立ち」で立っているだけであり、型には全く現れてこない技術、という意味なのであって、「前足蹴り」という技術を特に稽古する際のみに初めて登場してくる技術なのである。(だから、例えば、現在に残る「体育の平安」をいくら眺めても、この「前足蹴り」は全く見えてこないわけだ。)

 さて、以上のように、糸洲は「前傾猫足立ち」という立ち方を開発していたのだが、この立ち方において、武術的に見て何と言っても重要なポイントは、「前傾」姿勢なのである。

 「前傾」していればこそ、前足を床から上げるだけで直ちに「倒木法(倒地法)」のエネルギーが発生してくれるわけで、つまりは、後足蹴りよりずっと小さな動作である前足蹴りでも、十分に大きなエネルギーを伴った蹴り技が実行出来るのである。

 従って、この立ち方から「前傾」姿勢を取り去ってしまったら、武術的にはもう特段の意味もない立ち方に転落してしまうのであり、本部が言うように“武術の上で最も嫌う浮き足の一種”になってしまうわけである。

 ただ、それはあくまでも「武術的」な観点からの評価なのであって、「体育的」な観点からすれば、別に構わないわけだ。

 そして、「平安」にしても、「武術の平安」から「体育の平安」が生まれたわけで、糸洲亡き後の空手の進むべき道としては、ひたすらに「体育化」の方向を目指していたわけだから、結局のところ、武術的な「前傾猫足立ち」から、「前傾」姿勢が排除された「猫足立ち」が生み出された次第なのである。

 では、次節からは、「前傾猫足立ち」から「猫足立ち」が生み出されたより細かな経緯について見ていくことにしよう。

小の型

 ところで、「増補(25)」で述べた「首里手の近代化」について、ここでもう一度簡潔に振り返ってみたい。

 それは大きく言って3段階のプロセスを経て行われたわけである。

 第1段階:武術空手としての近代化、即ち、「武術の平安」の創造。
 (この段階では、古伝空手から、近代武術空手(武術の平安)が創られた。)

 第2段階:体育空手である「体育の平安」の創造。
 (この段階では、「武術の平安」から「体育の平安」が創られた。)

 第3段階:古伝首里手の型を、「体育の平安化」した。
 (最後の第3段階では、数多くある古伝首里手の型を、「体育の平安」をモデルにして、変形させた。)

 以上が「首里手の近代化」だったのだが、その内の「第1段階」と「第2段階」は糸洲自身が行ったのである。つまり、「武術の平安」も「体育の平安」も、共に糸洲が創作したのだ。

 そして、ここからが本稿と関わってくる部分なのだが、糸洲は「第1段階」終了時から「第2段階」終了時までのどこかで、近代武術空手に必要であった「パッサイ小」と「クーシャンクー小」を創ったのである。

 これら二つの「小の型」は、「体の型」として創られたのだが、「武術の平安」には既に「平安二段(松涛館流では初段)」という「体の型」があった。

 つまり、これら二つの「小の型」は、「平安二段」よりも「上級者向け」の「体の型」として創作されたのである。

 「平安二段」よりも「上級者向け」の「体の型」というのは、「平安二段」以上に「前傾姿勢」を強調・鍛錬する型だったわけで、そうすると、やはり「上級者向け」の技術であった先述の「前傾猫足立ち前足蹴り」で登場した「前傾猫足立ち」という立ち方が、基本的に好ましいとされたわけである。

 実際に「前傾猫足立ち」で立ってみれば即座に分かることだが、この立ち方は前足への体重の掛かり方が異常なほどに強い立ち方なので、「前傾姿勢」を「鍛錬」するには最適だ、と糸洲は考えたのだ。

 かくて、これら二つの「小の型」には、「前傾猫足立ち」が数多く挿入されたわけである。

 そしてこのことが、後に「猫足立ち」が生まれる直接の原因となったのだ。

「前傾姿勢」の無い「前傾猫足立ち」

 上記の「首里手の近代化」の「第3段階」では、まず、「パッサイ大」と「クーシャンクー大」が、「パッサイ小」と「クーシャンクー小」を創った当然の反作用として、糸洲自身によって創作されたわけである。

 しかし、その他の首里手の古伝型についての「体育の平安化」のほとんどは、糸洲亡き後、糸洲が「大の型」を創作したのを参考にして、彼の古伝首里手の弟子達によって行われたのだ。

 もう、その頃では、近代武術空手を存続・発展させるのは不可能、との考えで、弟子達の意見も一致していたであろうから、次々と古伝系統の型を「体育化」していったわけだ。

 さて、そこで問題になったのが、例の糸洲が創作した二つの「小の型」だったのである。

 この二つの型は、近代武術空手の「上級者向け」の「体の型」として創られたわけで、「前傾姿勢」が採用され、「前傾猫足立ち」が多用されていたのだった。

 問題は、これら二つの型をどう扱うべきか、ということだったのである。

 つまり、もう空手界全体の方向が「体育化」に向って進むべき時代になったのだから、そもそもこの二つの「小の型」は不要になったのだ。何故なら、これら「小の型」は武術空手のために創作された型だったのだから、「体育化」の目的には全くそぐわなかったからである。

 だから、そこであっさりと「小の型」を捨てていたら、「パッサイ」も「クーシャンクー」も、共に「大」「小」の区別が無くなり他の型と同様になり、その後の型全体の体系もすっきりとしたものになっていたであろう。

 しかし、糸洲の弟子達はそうはしなかったのである。

 折角糸洲先生が創作された型なのだから、ということで、これら二つの「小の型」も存続させてしまったのだ。

 ただ、その「小の型」も、オリジナルのままに残すわけにはいかなかったのであり、「体育化」の観点からは好ましくない武術的な「前傾姿勢」は消す必要があった。

 こうして、「前傾姿勢」の無い「前傾猫足立ち」、即ち、現在の「猫足立ち」が誕生した次第なのである。

 (「小の型」から「前傾姿勢」を排除した後に、「猫足立ち」を「後屈立ち」等に戻したら良かったのでは、と考える人もいるかも知れない。

 しかし、もしそのような型を作ったら、それは「大の型」とほとんど区別がつかない型になってしまったことであろう。

 従って、「小の型」を残す、と決めた以上は、「体育化」のためには「前傾姿勢」は排除しなければならず、他方、「大の型」と区別するためには「猫足立ち」は残さざるをえなかったわけだ。

 かくして、「猫足立ち」が確立した次第なのである。)

 * なお、松涛館流では、特に「ウーセーシー(五十四歩)(小)」の中に「猫足立ち」がはっきりと残っている。

 その理由について、ここで簡潔に述べておこう。

 まず、以前「増補(7)」の注で述べたように、松涛館流の「パッサイ(抜塞)」と「クーシャンクー(観空)」の「小」は、船越義珍が新たに創作した型なのであって、糸洲安恒が残したオリジナルの型ではない。

 それは、本部朝基は空手の体育化に反対していたが故に猫足立ちを嫌っていたが、教育者でもあった船越は、空手の体育化には賛成しており、それ故猫足立ちを嫌っていたわけではなかったのだが、ただ、オリジナルの「小」の型から前傾姿勢を消してしまったら、「大」の型との区別が難しくなり混乱をきたす可能性がある、と考えて、自身で新たな「小」の型を創造したわけである。

 しかし船越は、「ウーセーシー(五十四歩)」に関しては、屋部憲通が創作した「小」を基本的にそのまま残したのだ。(もちろん、「前傾姿勢」を排除した上で残したわけだが。)

 これは、松涛館流の体系を見ても、第二の師である糸洲の業績は、「平安」五つの型や「ナイファンチ二段・三段」と数多く残っており、また、第一の師である安里安恒の業績も、「横蹴り」や古伝型の中に色々と残っている。(船越が松涛館流に残した古伝型は、安里安恒から習った型が元になっており、その中には、他系統には無い安里独自の工夫なども含まれているである。)

 これに対し、二人の師の弟(おとうと)弟子でもあった大先輩の屋部については、彼が自らの得意型の「ウーセーシー(五十四歩)」に関する「小」の型を創作した以外には、特に松涛館流の中に残せるものがなかったわけだ。

 そこで、船越は、「ウーセーシー(五十四歩)」に関しては、屋部が創作した「小」を基本的にそのまま残した次第なのである。

 だから、松涛館流の「ウーセーシー(五十四歩)(小)」の中には、はっきりと「猫足立ち」が登場してくるわけだ。

 (なお、船越が危惧したとおり、現在の松涛館流の「ウーセーシー(五十四歩)」では、多くの団体で「大」と「小」が入れ替わってしまっている。

 これは、主に「貫手」の指の数に着目して、「一本貫手」の方が技術的に高級故に「大」の型であろうと勘違いした結果と思う。

 しかし、「貫手」自体はカモフラージュに過ぎないためこれに着目すべきではなく、正しくは「立ち方」に着目すべきなのであって、「前屈立ち」で「四本貫手」を行うのが「大」で、「猫足立ち」で「一本貫手」を行う方が「小」なのである。

 間違えないように願いたい。)

糸洲の直門

 このように、現在に残る「猫足立ち」という立ち方は、本来は「前傾猫足立ち」という武術的な立ち方だったのだが、それが「体育化」の流れの中で「前傾姿勢」が消された結果誕生した立ち方だったのだ。

 このように、誕生の経緯としては「消極的」な意味しか持ち得なかった「猫足立ち」だったのだが、ある理由から、それなりの「積極的」な意味も持つことになったのである。

 それは、沖縄のみにおける特殊事情だったのだが、糸洲の近代空手の直門下生と、学校で「体育の平安」を習った生徒を区別する必要が生じたからだ。

 そもそも、糸洲の近代空手の直門下生というのは、当初は「近代武術空手(武術の平安)」を指導・伝授するプランで募集した門下生達だったのだ。

 しかし、彼らには、「近代武術空手(武術の平安)」のごくほんの一部しか指導することが出来ぬままに、「近代武術空手(武術の平安)」は失伝への道を辿ることになってしまったわけである。

 そうすると、学校の体育の授業で「体育の平安」を習った生徒達と比べて、習得した技術に大した違いが生じなくなってしまったのだ。

 さすがにこれはマズイ、と考えた糸洲の古伝空手の弟子(主に、花城長茂)が、糸洲の近代空手の直門下生達と、学校で「体育の平安」を習った生徒達を区別するために注目したのが「猫足立ち」だったのである。

 学校体育の「体育の平安」には「猫足立ち」は登場して来ない。

 それに対して、糸洲の近代空手の直門下生達は、「小の型」を習うことで「猫足立ち」を習得していたわけである。

 そこで、この「猫足立ち」を、この両者達を区別する技術として強調することにしたわけだ。

 このことは、花城長茂が宮城長順に剛柔流の型を伝授する際にも、採用された発想なのである。(「剛柔流の型の伝承経路」については「増補(25)」を参照のこと。)

 花城は、剛柔流の型の内、本来は「後屈立ち」のところを全て「猫足立ち」に変えて宮城に指導したのだ。

 その結果、剛柔流では、本来の「後屈立ち」が無くなってしまい、代わりに「猫足立ち」が目立つようになったわけである。

剛柔流の型

 以上、「猫足立ち」誕生の経緯を、大まかに述べてきた。

 現在、主に剛柔流や一部の沖縄空手で盛んに用いられている「猫足立ち」だが、それはあくまで「体育的」な立ち方なのであって、「武術的」には本来は「前傾猫足立ち」だったこと等が分かって貰えれば幸いである。

 なお、剛柔流には松涛館流のような「後屈立ち」が存在しない理由も、これで判明したことと思う。

 剛柔流の型では、本来「後屈立ち」であったところは全て「猫足立ち」に変形させられたのだから、「後屈立ち」は完全に消えたわけである。

 代わって、「前屈立ち」の状態から後ろを振り向いたような立ち方が、剛柔流の「後屈立ち」として新たに作られた次第なのだ。

 さて、今までこの増補シリーズの中でも、剛柔流に関する様々な論点を扱ってきたが、現在の剛柔流の型は、例えば松涛館流の型と比較しても、より一層変形度合いが高いことが分かると思う。

 だから、最低でも次の三点はしっかりと変形を正さない限り、剛柔流の型の「分解」の発見などは、逆立ちしても不可能なのである。

 1)姿勢を直す(現在の「普通の姿勢」から、「含胸抜背(がんきょうばっぱい)」「尾閭中正(びろちゅうせい)」の姿勢に直す)

 2)引き手を直す(現在の「首里手風の引き手」から、腕を折りたたむようにして肘を下に向け、手は開手にして掌を前方に向ける引き手に直す)

 3)「猫足立ち」を「後屈立ち」に直す

 以上である。

 最低でも、以上の三点についての変形を正さない限り、剛柔流の型の「分解」の発見は絶対に不可能なのだ。

 この点で、「増補(21)」で述べた次のことを思い出してもらいたい。

 “ここでちょっとだけ例を挙げると、例えば剛柔流の「セイエンチン」の最後のあたりで、猫足立ちで上段にエンピ打ちという動作を後退しながら左右二回連続で行う場面があるが、その場面についていくら腕組みをして考えようとも、まともな分解は絶対に発見出来ないと断言出来る。”

 この「セイエンチン」の場面にしても、上記の三点についての変形を正さない限り、何も見えて来ないのである。

 興味のある方は、試みにこの場面についての変形を正してみると良い。

 「セイエンチン」は初伝用の「用の型」なのであるから、殺人技などは登場してこないので、センスの良い方であれば、上記の三つの変形を正しただけで、この場面の「分解」について、どのようなことを行っているのかという見当くらいは付くと思う。

 いずれにせよ、現在の剛柔流の型をそのまま対象にしていくら「分解」を考えてみても、マトモな答えは絶対に発見出来ないことは、肝に銘じておいて欲しいものである。

 * 以上が、「猫足立ち」誕生の大まかな経緯なのだが、花城長茂が「猫足立ち」という立ち方に一種のステータス的な意味合いを与えてしまったために、沖縄では、糸洲直門や剛柔流以外の団体でも、「猫足立ち」に憧れて、この立ち方を導入するところが色々と現れたようである。

 その結果、本来のルート以外にも「猫足立ち」が採用されてしまったため、この立ち方の誕生プロセスがますます分かり難くなってしまったようだ。

体育的静歩行

 では本稿の最後に、現代空手家が、「猫足立ち」を「静中に動あり」と感じて気に入ってしまう理由について考察しておこう。

 ズバリ、ポイントを指摘すると、「猫足立ち」という立ち方は、“「体育的静歩行」の「転身」動作のある瞬間の姿勢”に酷似しているからなのである。

 ここで言う“「体育的静歩行」の「転身」動作のある瞬間の姿勢”とは、「体育の平安」の「二段(松涛館流では、初段)」の動作で言えば、「第6挙動」に含まれる姿勢を意味している。

 その「第6挙動」とは、演武線右方に向けて(左足前の)左前屈立ちで立った状態から、演武線正面に向かって左前屈立ちになる転身の動作なのだが、「体育的静歩行」では、この転身は二挙動の動作として行われる。

 まず、一挙動目として、体重を後足の右足に多く掛けながら、左足をいったん右足の方に寄せて行く。それから、二挙動目として、左足を正面方向へ真っ直ぐ移動させて行き左前屈立ちになる。

 以上が、この「第6挙動」の運足なのだが、上記の一挙動目が終了した瞬間の姿勢、即ち、後足の右足に体重の多くが掛かり、前足の左足が右足の近くに引き寄せられた姿勢こそが、「猫足立ち」に酷似している姿勢に他ならないのである。

 そして、「体育的静歩行」にどっぷりと体が馴染んでいる現代空手家にとっては、上記の姿勢こそは、一方では、右足上で重心が安定しており、他方では、これから正面方向へと重心が移動して行くポテンシャルを秘めている状態なのであるから、誠に「静中に動あり」の姿勢に感じてしまうわけなのである。

 これが、「猫足立ち」が現代空手家にとって、「静中に動あり」の姿勢、即ち、武術的に見て良い姿勢、と思えてしまう、根本的な理由なのである。

 (これに対して、古伝空手や近代空手には、そもそも上記のような「体育的静歩行」的な「転身」技術自体が存在しないことから、古伝空手家や近代空手家が試みに「猫足立ち」で立ってみても、この立ち方を特に「静中に動あり」的な立ち方とは認識しないわけである。)

 * 現在の剛柔流では、さらに、「猫足立ち」に加えて、その前足による「関節蹴り」が開発されてしまったことで、花城が伝えたオリジナルの剛柔流の型が、より一層変形されてしまうことになった。

 (因みにだが、この「関節蹴り」という蹴り技も、「いかにも現代空手」という蹴り技なのである。

 これが、例えば「近代空手」であれば、「倒木法(倒地法)」の空手である以上、蹴り足の方に体重を掛けるようにして蹴っていくわけであるが、現代空手では、運足である「体育的静歩行」と全く同様に「軸足にしっかりと安定的に体重を乗せたまま」、蹴り脚の脚力だけで「関節蹴り」を行うのが「正しい」蹴り方になるのであり、現代空手家の「感性」では、そうした「軸足にしっかりと安定的に体重を乗せたまま」蹴る蹴り技こそが「無上に心地よい」蹴り技になるのだ。

 要するに、現代空手家の「感性」というのは、完全に「体育的」に創られてしまっており、残念ながら、「武術的」な「感性」とは全く正反対になってしまっているのである。)

 ** 本稿では、「前傾後屈立ち」とか「前傾猫足立ち」が登場して来たが、現代空手には存在しない立ち方というただそれだけの理由で、こうした技術に対して拒絶反応を示す者もいるかも知れない。

 しかし、これらの立ち方は、「理詰め」に考察すれば「必然的」に辿り着く立ち方なのであり、まともな思考力があれば必ず発見出来る技術に他ならないのである。

 さらに、以前「増補(23)」でも論じたように、私は、「理詰め」の追及以外にも、出来るだけ「証拠固め」も行うように心掛けている。

 例えば「前傾後屈立ち」だが、この立ち方は、現在でも糸洲安恒に関係する複数の団体でほとんどそのまま保存継承されている立ち方なのだ。

 また「前傾猫足立ち」も、糸洲直系のある団体で、前傾姿勢が弱くなっているとはいえ、やはり継承されているのであり、さらに、「武術の平安」の「隠し技」ではない所にもチラッと登場する立ち方なのだ。

 現在普通に行われている「体育の平安」では、変形してしまっているために発見出来ないのだが、私が復元した「武術の平安」では、一瞬ではあるがしっかりと「前傾猫足立ち」という立ち方が(平安四段の中に)現れるのである。

 昔の武術の修行では、将来に習うことを、先取り的に(チラッと)「予行練習」させる、ということが当たり前のように行われていたのだが、糸洲の創作した「武術の平安」でも、この「前傾猫足立ち」に限らず、様々な技術が先取り的に登場する仕組みになっているのだ。

 とにかく、自分が知らない技術は単純に拒絶するという態度は改めるべきであり、それに代わって、対象をもっと論理的かつ理論的に考察出来るように努力して欲しいと願っている。

 *** 本稿は、「読者は現代空手家である」という前提に立って執筆されている。

 従って、本稿における「猫足立ち」等の名称にしても、現代空手の「猫足立ち」と同じ立ち方を「猫足立ち」と表現する方式を採用した次第である。その方が、読者にとって分かりやすいと考えたからだ。

 しかし、正しくは、糸洲が考案したオリジナルの「前傾猫足立ち」こそが、本来の「猫足立ち」だったのである。

 「猫足立ち」については、「猫が獲物に跳びかからんとする姿勢」を表現するかのような立ち方、と伝承されているが、現代空手に残る前傾姿勢を取らない「猫足立ち」では、「臆病だが好奇心の強い猫が、前方にある何かに前足で探りを入れているかのようなポーズ」にしか見えない。

 やはり、本稿で述べた「前傾猫足立ち」こそが、まさに「猫が獲物に跳びかからんとする姿勢」そのものなのであり、結局、これこそが、糸洲が創作し「猫足立ち」と命名した立ち方だったと考えるべきなのである。

 (そして、その本来の立場からすれば、現代空手の「猫足立ち」は、むしろ「前傾姿勢無き猫足立ち」あるいは「前傾姿勢が消された猫足立ち」とでも呼ばれるべき立ち方になるのだ。)

武術空手研究帳・増補(27) - 完 (記:平成三十年十二月)

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プロフィール

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 長谷川光政

 昭和33年(1958年)、東京生まれ。

 中学生(12歳)の時に剛柔流の空手を習ったのが、空手との最初の出会い。

 それ以来、首里手系の空手や、フルコン系、防具系の各流派等でも空手を学ぶ。

 しかし、いくら修行をしても、どうしても既存の空手に納得がいかず、最終的には自分一人での研究・修行を続けることとなった。

 それから十五年以上が経過した四十歳台後半に至って、遂に、失伝していた古伝空手の核心的技術である「当破(アティファ)」を発見することに成功。

 それ以降は、その発見をきっかけに、古伝空手の型に関する様々な謎も解明出来るようになった。

 また同時に、糸洲安恒の創始した近代空手の代表型である平安(やナイファンチ初段~三段)についても、その謎を解き明かすことに成功した。

 現在では、琉球の古伝棒術等の研究も一通り終了しており、新たな発見等については、漸次、この「武術空手研究帳」の「増補」等を通じて公開発表していく予定である。

 東京大学教育学部体育学健康教育学科卒。