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* 以下に掲載するのは、「月刊 空手道」(福昌堂) 2009年1月号~2010年2月号に連載された「武術空手研究帳」(但し、一部表現を追加・変更)である。
武術空手研究帳 - 第1回
[ 人が何か小さな発見をし、それを他者に理解してもらおうとする場合は、基本的な前提等が他者と共通しているため、その発見の説明は容易である。
これに対し、そうした基本的な前提をも再検討するような深い研究に基づく発見をした場合には、多くの人が信じて疑わない常識的な事柄それ自体にも大胆なメスを入れることになるため、その発見を説明するだけでも容易なことではない。
本稿は、そうした深い研究の結果をまとめたものである。
よって、多くの空手家が常識と思っている事柄にも、大胆なメスが入っている。
以上のことを踏まえて、じっくりと読んでいただきたいと思う。]
「それ」を発見してしまった
私が空手を習い始めたのは十二歳の時だ。その後、いくつかの流派を習い、フルコン系もやったが、二十代前半頃は防具系の流派で修行をしていた。
さて、その間、私が一貫して追い求めていたのは「武術」的な空手であった。
では、「武術」的とは一体どういう意味か?
私は当時から、「武術」の動作というのは、次の二つの条件を満たすものでなければならないと考えていた。
- ① 気配を一切表に出さない
- ② 一拍子(ヒトツビョウシ)
以上の二つである。
このうち、「気配を一切表に出さない」というのは、例えば、突きを行なう場合でも、突く前に腰を振ったりなどしてはいけない、ということである。
また、「一拍子」というのは、もともとは能の言葉だそうだが、「足音、タン」の拍子ということだ。
しかし、どの流派でいくら修行を積んでも、絶対にこの二つの条件は達成できなかったのである。
結局、その後は、友人と二人で三十歳くらいまで、あれこれ研究・工夫しながら練習を続けたのだが、仕事等の関係もあり、それ以後は一人での研究と修行ということになったのである。
しかし、この二つの条件は、いくら頑張っても、いや、頑張れば頑張るほど達成は不可能に思えて来て、三十代のころは研究・修行も大してはかどらなかった。
今、振り返っても、三十代と言えば、本部朝基に憧れて十五歳の時から始めていたナイファンチの練習は何とか継続してはいたものの、後は、時たま基本練習をするくらいが関の山の時期だったのである。
その頃は、全く別の分野のことに興味が移っていった時期でもあり、我が人生における空手修行の停滞期でもあったわけである。
さて、四十歳を過ぎた頃であったろうか、その別の分野の研究が一段落したのをきっかけに、また空手に興味がわいてきたのである。別段、深い理由があったわけではない。やはり、空手が好きだったのだろう。
特に、三十代に興味を持った分野の研究のおかげで、私の研究に関する能力というものがかなり向上したことも幸いしたようだ
というのは、以前とは違って、武術的な空手の研究・修行にもそれなりの成果が見られるようになってきたからである。少しずつではあったが、一つ、また一つと、武術的な空手の真実が見えてきたのである。
そんなある日のことである。私は遂に「それ」を発見してしまったのだ。
その時、私は、それまでに発見してきたことをもとに、ある型の練習をしていたのだが、ある動作のときに、突然、体内で大きなエネルギーが発生したような体感が生じ、拳がものすごいスピードで飛び出したのである!
「何じゃコリャー!?」
とにかくビックリした。
だが、驚きと興奮と共に、まず真っ先に私が考えたことは、「何が何だか訳が分からないが、とにかく、これ一回で終わりにしてはならない」ということであった。つまり、二度と再現できないようでは大変なことになる、と思ったわけだ。
そこで、今のやり方を慎重に思い出しながら、もう一度やってみたのである。
まただ。体内でエネルギーが発生して、拳がすっ飛んで行ったのである。
そして、もう一回、また一回、・・・
七、八回くらいはやったであろうか、ようやく気持ちも落ち着いてきた。
「とにかく、再現はできる」というのが、安心感につながったようだ。
そこで、改めてもう一度考えてみた。
「これは、一体、何なんだ」と。
最初に脳裏に浮かんだのは、中国拳法の「発勁法」という言葉だった。
しかし、たった今私がやったことは、雑誌や書籍を読んで知っている限りの中国拳法の「発勁法」という技術とは、全く異なる技術だったのである。
というわけで、とりあえず私はこの技術に「発力法」という名前を付けることにした。
そして、次に、その型の他の色々な動作でも「発力法」を使ってみたわけだ。
スゴイ!
色々なところで「発力法」が使えるのだ!
さて、私が最初に「発力法」を発見した動きは正拳突きではなかったのだが、「発力法」を使って今度は正拳突きを行なうというときには、ちょっと考えた。
「これは、かなりの衝撃が肘に来るぞ」
そう思ったのである。
そこで、まずしばらくは、腕を何度も強く伸ばして、少し肘の準備運動をすることにしたのである。
この運動は、開手で「下段落し受け」のようにビシバシと腕を伸ばして肘を鍛える方法なのだが、沖縄の(一部の)道場を除いてはあまり知られていないようで、本土では全くやっていない流派もあるようだ。
私は本土の空手家だが、私の最初の頃の先生もやっていたし、最後に習った流派にも準備運動の中にこれと同様な運動があったくらいで、個人的には結構やっていたのが幸いした。
さぁ、準備運動も終わって、早速、「発力法」を使っての正拳突きを行なう段となった。
まさに、予想していた以上にすさまじい突きであった。
私のそれまでの人生で、「ベストの突き」というのは、おそらく三十歳くらいの頃の突きだったと思う。
当時、建築用のブロックを使った試割で、手技で三枚、足技で五~六枚、というのが自己の最高記録だったと記憶している。
しかし、もう四十代も半ばを過ぎて、体力的にはとても昔のような突きは出来ないはずなのに、この「発力法」を使っての正拳突きというのは、自分の全盛期の「ベストの突き」よりも、はるかに速くかつ強烈だったのである。
しかも、完璧なまでに「気配を出さず」に「一拍子」で突きが出来るのだ。
つまり、腰を振ったりなど一切せずに突くことが出来るのであり、かつ、「足音、タン」の拍子なのだ。
要するに、正拳は、いきなり最高速度で引き手の位置から飛び出して行くのである。
昔からやってきた突きは、腰を捻ったそのうねりが腕に伝わっていくといった、いわばムチのような加速度運動の突きだったわけで、突きの前半あたりまでは、まだ威力もたいして無くスピードもイマイチだったのだが、「発力法」を使っての正拳突きというのは、それとは完全に異なり、完璧な(高速の)等速度運動の突きなのである。
古伝空手の真の姿
その型を一通りやり終えると、今度は別の型についても実験したくなった。
そこで、次から次へと、色々な型で「発力法」を使ってみたのである。
そうこうするうちに、部分的ではあったが、型の意味するところがそれなりに見えてくるようになった。
昔から、何度か型の分解にはチャレンジしてきたが、とても満足できるような分解などには辿り着けず、結局は「型の分解は不可能だ」という結果で終わるのが常であった。
しかし、今度は違うのである。
「発力法」のおかげで、色々な動作の意味が見えてきたのである。
もちろん、現在に残っている古伝空手系の型というのは、相当に変形してしまっており、その点でも分解をひどく困難にしているのではあるが、「発力法」が分かってからは、とにかくも部分的には色々と意味が分かってきたのだ。
そこで、手元にある種々の型の資料をもとに、首里手および泊手の代表型につき、古伝のオリジナルの型の再現とその分解に挑んでみたのである。
今から思えばまだ荒削りではあったが、とにかく約三ヶ月という自分自身でも意外な早さで、それら代表型の再現と分解を一通り終えることが出来たのである。
この作業を終えた時点ではっきりしたのは、古伝の首里手および泊手の型というのは、「発力法」が分からなければ絶対に分解できないように創られていた、ということだ。
詳しいことは後述するが、古伝の空手の上達過程には「初伝・中伝・奥伝」の三段階があったのだが、この「発力法」は、「奥伝」段階に至って初めて習うことが出来た技法なのである。
つまり、古伝の時代では、たとえ入門を許されても、初伝および中伝段階では型の意味などは全然分からず、奥伝段階に至って、「発力法」を習得して初めて型の意味が分かるようなシステムになっていたということだ。
さらに、この作業を終えてもう一つ分かったことは、もちろん、古伝の空手の真の姿についてである。それは、相当に危険な技が色々と登場してくるという、現代空手とは全く異なる世界だったのであるが、この点についても後ほど述べることにしよう。