武術空手研究帳

武術空手研究帳・増補(14)- これが本物の山嵐だ(後編)

 [ 「山嵐」と言えば、小説や映画等でお馴染みの姿三四郎の必殺技だが、これは、講道館黎明期に実際に活躍した(姿三四郎のモデルと言われる)西郷四郎の得意技なのであった。

 しかし、現在、柔道の教本等で紹介されている「山嵐」という技は、実際に掛けてみれば分かるのだが、とてもではないがマトモな投げ技とは言えない。

 そこで、前稿と本稿の二回を使って、「本物の山嵐」を解明・紹介することにした次第である。]

山嵐は逆手技

 では、ここで、本物の「山嵐」の掛け方を整理しておこう。

 まず、一番基本的な方法について、「右山嵐」を例に採り、記す。

 1.右手で敵の右襟、左手で敵の右袖を、それぞれ掴む。(右手は、四指を襟の内側、親指を襟の外側にして、掴む。)

 2.敵の右腕をやや持ち上げるようにしつつ、一気に左足を敵の体の前に進めながら、敵の外側から右腕の下をくぐる。(この瞬間が、前稿の「増補(13)」で引用した描写では『半身になって』と表現されていたのである。)

 3.左足を軸にして(上から見て)時計回りに回りながら、敵の右腕を右肩に深く担ぎつつ、右足を一気に後方へ飛ばして敵の右足首を払い上げ、敵を投げる。

 以上が、本物の「山嵐」の掛け方の基本である。

 なお、この右足の払い上げは、基本的には、「払腰」というよりも、むしろ「跳腰」に近いと思う。

 つまり、右足先を外側に開いた足の形のままで、我の右足裏で敵の右足首をほぼ真後ろに跳ね上げるのが、本来の「山嵐」であったと思う。

 他の技、例えば右の「背負投」では、相手の右腕は我の左腰の方へ引き込むようにするし、右の「払腰」では、右脚で相手の右脚をやや外側から払い上げるが、これらは共に、安全に受身が取れるように、相手をやや斜めに投げているわけだ。

 これに対し、「山嵐」では、敵の右腕は我の股の方へ引き込み、敵の右足はほぼ真後ろに払い上げたと考える。何故なら、そうすると、敵は頭から畳に落ちていくからだ。

 さらに、柔道では、相手を投げるときは、相手がしっかりと受身が取れるように、相手の袖を最後まで離さないものだが、「山嵐」では、投げるときに、敵の腕を離す場合もあったと思う。その方が、敵の受けるダメージはより強烈になるからだ。

 ただ、前稿「増補(13)」の「姿三四郎」の(3)に『右足が風を捲き、地を払って敵の横股に飛んだ』とあるように、「山嵐」でも、少しマイルドな投げ方として、「払腰」のようにやや斜めに敵の脚を払う方式もあったようだ。(もちろん、この場合には、敵の右腕も我の左腰の方に向けて、やや斜めに引き込むことになろう。)

 以上が基本の「山嵐」だが、応用変化についても補足しておこう。

 まず、左手だが、敵の右袖ではなく、敵の右手首を掴んでも良い。要は、敵の右腕を逆手に取ればそれで良いのだから、手首を掴んでも一向に構わないのである。

 次に、右手だが、敵の柔道着の襟が緩んでいる場合には、親指を内側(四指は外側)にして右襟を掴み、それから右手を180度内転させて敵の右襟を絞るように掴めば、しっかりと「山嵐」が掛けられる。

 また、敵の上半身が裸の場合等で、敵の右襟が掴めない場合は、右腕を(一本背負投のように)敵の右腕の付け根に絡めれば良い。

 以上、本物の「山嵐」の掛け方をまとめたわけだが、では、「姿三四郎」の中の、残る四つの描写も見てみることにしよう。

 * 上記の「山嵐」は、あくまで教科書風に解説したのであり、書道で言えば楷書のような解説なわけである。

 これに対し、より実戦的な掛け方としては、例えば右山嵐であれば、敵が自らの右足に体重の多くを掛けて半身になるように仕向けていき、敵が前足の右足に最も体重を掛けたその瞬間に、一気に「山嵐」を掛ける方式になろう。

 「増補(13)」で最初に引用した『柔道創世記』を見ても、そうした実戦的な「山嵐」の描写になっている。

再度「姿三四郎」より

(5)『三四郎の巴投げであった。

 リスターは綱と綱の間に首を突っ込んだまま、しばらく動かなかった。彼は綱から首を抜き、そのまま綱に縋って、片手を競技場の床に突いた。激しい眩暈が襲ったのである。

 職業的な一呼吸であった。一息入れて、反撃に出る前に、ねばり強く四つん這いになって、三四郎に向かって起き上がった。そのリスターの手許に、三四郎が風のように飛びついた。右手で相手の左の拳を抑え、左手でリスターの腕を抱え込む。起き上がろうとする相手の動作とぴったり呼吸を合わせて、身をすくめて胸元へ入ると、左足をリスターのくるぶしに掛け、眼一杯に担いだ。

 一本背負崩れの壮絶な山嵐である。』(東京文藝社版(上)P.238)

 敵がボクサーであり上半身は裸のため、敵の襟を掴めない場合の「左山嵐」であり、もう本物の「山嵐」が分かっている以上、特に解説も不要であろう。

 さて、残りの描写は三つだが、これら三つの描写には、それぞれ問題がある。

 と言うのは、これら三つの描写は、素直に読むととんでもなく変な技(?)になってしまうからだ。

 これらは、明らかに記述に誤りがある。

 だがいずれにせよ、まずは原文のまま読んでもらいたい。

(6)『三四郎の右手が半助の襟にかかり、左手が袖にかかると体を斜めに開いて、ぐんぐんと引きずり出した。

 (中略)

 三十畳の試合場を半周した時、堪りかねた半助の左足が三四郎の右足の踵をぱっと払った。

 出足払いとも、送足払いとも言える。

 間――

 三四郎の払われた右の蹠(あしうら)は半助の右の足首にぴったり着いて、飛び込んだ肩に二十三貫の肉塊を担ぐと、相手の足首を力の限り払い飛ばした。

 小兵な三四郎の頭上で、半助の足は遥かの空を蹴ると、体は三四郎を中心に車輪のような半円を描いて、ずしんと畳に落ちた。

 山嵐の大業である。

 半助は首の骨を強か打った。

 (中略)

 ・・・三四郎の二度目の山嵐が襲った。

 (中略)

 がくんと畳に落ちた時、彼は脳を打った。

 (中略)

 三度目の壮絶な山嵐。

 半助は足を縮め、首をすくめた。一個の岩の塊りに似て空を飛ぶと、真逆様にがくんと畳に落ちていた。』(東京文藝社版(上)P.105)

 ここの描写は、素直に解すると、とんでもなく変な技(?)になってしまう。

 特におかしな描写は、次の二点だ。

 まず、敵の襟と袖の掴み方が、本物の「山嵐」とは全く異なる掴み方になっている点だ。

 もう一つは、三四郎の右足が払われて、その払われた右足の裏が、そのまま敵の右足首にくっ付いて、さらに敵の右足首を払い飛ばした、と読める点についてである。

 以上の二点を、全く修正することなく、そのまま再現すると、まるで肩車のように敵を担ぎ上げて、かつ、右足で敵の右足を足払いのように払う技、に読めるわけだが、これでは、まるで技になっていないのだ。

 何しろ、相手のヘソあたりにある重心を、我の肩より高い位置まで持ち上げなければ、相手を投げることが出来ないことになる。

 さらに、右脚を、後方に跳ね上げるのではなく、足払いのように左方に払うように動かすのであり、これでは、相手の体を上方に浮かせるのはまず無理だからだ。

 さて、この姿三四郎の場面は、「増補(13)」で記述した警視庁武術大会での西郷四郎の戦いがモデルになっているわけだから、本来は「左山嵐」で敵を投げている場面なのだ。

 とすれば、上記の引用の冒頭部にある三四郎の左右の手が逆になってしまっていることになる。

 しかし、上記の引用の中間あたりにある、三四郎の足使いを見ると、右足で敵の右足首を払い飛ばしているようだ。

 そうなると、これは「右山嵐」になるわけで、結局、出来るだけ修正部分が少なくなるように直すと、上記引用の冒頭部で太字にした二つの「左」を、共に「右」に変えれば良いことになろう。

 そして、

 『間――

 三四郎の払われた右の蹠(あしうら)は半助の右の足首にぴったり着いて、飛び込んだ肩に二十三貫の肉塊を担ぐと、相手の足首を力の限り払い飛ばした。』

 の部分は、次のように解釈するより他はないことになる。

 つまり、剣術の試合等で、両者がじっと動かず睨み合っているならば、『間――』という表現も理解できるが、柔道対柔術の試合の真最中でこの『間――』という表現はおかしいわけで、結局、この表現の意味は「ここは一部省略」というような意味に取るしかあるまい。

 だから、『三四郎の払われた右の蹠(あしうら)は半助の右の足首にぴったり着いて』についても、「払われた右足がそのまま敵の右足首に着いた」のではなく、「先程敵に払われた右足が、今度は敵の右足首に着いた」と解釈することになる。

 こうして、上記の「山嵐」は「右山嵐」であった、と解するのが妥当と考える。

 いずれにせよ、上記の引用部分は、姿三四郎の中で一番最初に「山嵐」の描写が登場する場面なのであり、ここは、かなり意図的な「本物の山嵐隠し」がなされた描写であると思う。

 実際、私も、数十年前に初めてこの描写を読んだとき、本物の「山嵐」が全く分からなくなってしまった経験があるが、そうしたことを意図して、色々と表現を誤魔化したと考えられるのである。

 では、今度は次の描写を読んでもらおう。

 今回も、まずは素直に読んでもらいたい。

(7)『その三度目の睨み合った姿勢を崩して、突然後退していた三四郎が錦灘のふところへ飛び込んで来た。

 片手を相手の喉輪にかけ、手で錦灘の手首を掴んで押し上げて来た。

 (中略)

 錦灘は少年をあしらう軽さで押し返し、右手をのばして、三四郎の帯を探った。

 (中略)

 錦灘の指が、今、彼の帯にかかろうとした一瞬に、三四郎の喉輪にかけていた手がするりと錦灘の左襟にかかった。

「とうっ・・・」

 (中略)

 巨大な錦灘の左襟と左手首を引っぱり込むと、三四郎は巨岩をかついだ姿勢で、相手の左足首を力の限り払い上げた。

 だが、二つの肉体はほとんど触れ合ったとも見えぬ速さであった。

 身を沈めた三四郎の頭上を、錦灘は黒い放物線を描いて飛んだ。

 傾斜の与えた勢と、彼が与えた加速度は、今、一つになって三四郎の壮絶な山嵐を助け、錦灘甚作は牛ヶ淵の黒い水に激しい水音をたてて吸われて行った。』(東京文藝社版(上)P.198~199)

 これもおかしな描写である。

 『片手を相手の喉輪にかけ、左手で錦灘の手首を掴んで押し上げて来た。』のとおり、「左手で敵の手首を掴んだ」とある以上、これは「右山嵐」であり、左手で掴んでいるのは敵の右手首であり、敵に喉輪をしているのは三四郎の右手、ということになる。

 ところが、『三四郎の喉輪にかけていた手がするりと錦灘の左襟にかかった。』のところで、「えっ?」となってしまうわけだ。

 これでは、「山嵐」としては、完全におかしな掴み方になってしまうからだ。

 結局のところ、『巨大な錦灘の左襟と左手首を引っぱり込むと、三四郎は巨岩をかついだ姿勢で、相手の左足首を力の限り払い上げた。』の描写が正しいわけで、すると、これは「左山嵐」だったことになり、『片手を相手の喉輪にかけ、手で錦灘の手首を掴んで押し上げて来た。』で太字にした「左」を「右」に訂正すれば良いわけだ。

 この一文字さえ訂正すれば、全体がすっきりする。

 つまり、三四郎は最初、右手で敵の左手首を掴み、左手で敵に喉輪をしていた。

 その後、三四郎は、左手を敵の喉から外して、左手で敵の左襟を掴み、敵の懐に(敵の左腕の外側から)飛び込んで、左足で敵の左足首を払い上げることで、「左山嵐」で敵を投げたのである。

 さて、次は最後の描写になるが、これも一文字を訂正すればすっきりする例である。

 まずは、素直に読んでもらいたい。

(8)『三四郎が猪に似て猛然とポスコの喉に向かって猿臂をのばし、その太い首を喉輪に攻めて行った。

 左手でその手首を制し、ポスコは右手で三四郎の腰を掴もうとして、のけ反りながら仁王立ちになった。

 三四郎の左手があせる相手の手首を握った。喉輪に攻めていた右腕が、ポスコの太い腕を巻くように掴んだ。

 声はない。

 力を抜かれて自己の重量と反動とを加えたポスコの体が舞い上がった。軍帽が蝙蝠のように空を飛んだ。三四郎の足がポスコの靴もろとも払いあげた。一本背負崩れの山嵐である。』(東京文藝社版(下)P.81)

 『喉輪に攻めていた右腕が、ポスコの太い腕を巻くように掴んだ。』とあるから、まず、三四郎は、右手で敵に喉輪をし、左手で敵の右手首を掴んでおり、敵は、左手で三四郎の右手首を掴み、右手で三四郎の帯を掴もうとしていた事になる。それから、三四郎は、喉輪を止めて、右腕を敵の右腕に巻くようにして「右山嵐」を掛けたわけだ。

 ところが、その後、三四郎は「左足」で敵の足を払うことになっている。

 これは明らかに誤記であり、上記の引用中で太字にした「左」を「右」に訂正すべきだ。

 (なお、細かいことだが、三四郎が右腕を敵の右腕に巻くようにしたあたりで、敵の左手は三四郎の右手首から外れることになる。)

「真の技」の解明・復元

 以上、姿三四郎に登場してくる「山嵐」の描写を克明に見てきたわけだが、「増補(13)」の(4)で見た、姿三四郎と桧垣源之助が右京ヶ原で決闘したときの描写が、決定的なヒントになり、本物の「山嵐」が解明出来たわけである。

 さて、「真の技」を解明・復元するとは、決して単純な作業ではない。

 この「山嵐」にしても、次のプロセスを経て、解明・復元がなされたわけだ。

 1)本物の「山嵐」は、「偽装山嵐」に良く似ていなければならない。

 ― 今回の解明作業でも、この点もしっかりと考慮されていたことがお分かりと思う。

 (もちろん、本物の「山嵐」は、「偽装山嵐」とは似ても似つかぬ技であった、という可能性もゼロではない。

 しかし、そうした可能性を云々出来るのは、「偽装山嵐」に似ている本物の「山嵐」という技が、どのように検討しても発見出来ない場合に限られることになる。)

 2)西郷四郎と共に講道館四天王の一人であった富田常次郎はもちろん本物の「山嵐」を知っていたし、その息子である富田常雄もまず間違いなく本物の「山嵐」を知っていたはずだ。従って、本物の「山嵐」は、姿三四郎等の文献中の「山嵐」の描写と、矛盾があってはならない。

 ― 姿三四郎等の文献とはいっても、その中で、出来るだけ分かりやすく正確に「山嵐」という技が描写されているわけではない。さらに、意図的か否かは別として、不正確な描写もあり得る。ただ、その描写の中に、自分が考え出した「山嵐」と明らかに矛盾する描写があれば、その自分が考え出した「山嵐」は本物の「山嵐」とは言えない可能性がある、ということだ。

 今回私が導き出した「山嵐」には、そういう矛盾点が無かったことは、もうお分かりのことと思う。

 例えば、以前、違和感を覚えて記憶に留めておいた諸点についても、もう違和感は感じないはずだ。

 本物の「山嵐」が先述のような技であれば、『充分に被って肩にかける』『袖を巻き込んで、小兵な身を沈めて』『左手は腕を握って』のどれもが、矛盾なく、素直に理解出来るからだ。

 (もちろん、例えば姿三四郎の(6)の描写は、素直に読めば、私が考え出した「山嵐」とは違った技になってしまうのであり、その点から言えば、矛盾が生じることにはなる。

 しかし、その描写通りの技というのは、およそ技と呼べる代物ではない。これは柔道経験者なら直ぐに分かることだ。

 よって、その(6)は、明らかに誤記と判断できる描写なのであるから、そもそも矛盾を云々すること自体がナンセンス、ということになるわけだ。)

 3)本物の「山嵐」は、その技自体が、「武術の水準」に達している技、即ち、有効に掛けることが出来るマトモな技、でなければならない。さらに言えば、姿三四郎等の文献が示すように、敵が頭から畳に突っ込むような技でなければならない。

 ― これらの点も、ちゃんとクリアーしている。

 元々、「逆手背負投」という技が柔術にはあるのであって、それだけでも立派な投げ技なのである。私が解明・復元した「山嵐」は、その「逆手背負投」に、柔道得意の敵の足の払い上げ、という技術を加味した技なのであり、当然、マトモな投げ技になる。

 さらに、「逆手背負投」自体が、敵を頭から落とすような技なのであり、さらにそれを過激にしたのが、本物の「山嵐」なのだから、この点でも、今回導き出した「山嵐」こそが本物、と断定出来るのだ。

 4)最後に、本物の「山嵐」が解明されることで、この「山嵐」という技にまつわる各種の疑問が、素直に解決される必要がある、という点だ。

 例えば、「山嵐」という技は西郷四郎にしか出来ない技であった、等のように評されていたわけだが、その理由が、すっきりと解明されねばならない、ということだ。

 ― これもクリアーしている。

 結局ポイントは、本物の「山嵐」は「逆手技」であった、という点にあるわけだ。

 つまり、本物の「山嵐」は、柔道のルールでは反則技(禁止技)なのである。

 だから、嘉納治五郎も本物の「山嵐」を封印しようとしたのであり、また、富田常雄も本物の「山嵐」を素直に記述出来なかったのだ。

 こうした事情で、本物の「山嵐」という技は、「幻の技」という扱いを受け、その具体的な掛け方等が隠されてしまったのである。

 さらに、明治時代に、講道館柔道が柔術諸流を破ったことになっているわけだが、実際は、「柔道プラス柔術」が「柔術」を破ったわけで、「純粋な柔道」が「柔術」を破ったのではなかったのだ。

 本物の「山嵐」が世に出てしまうと、こうした講道館黎明期の秘密がバレてしまうわけで、それも避けたかったのである。

 いかがであったろうか?

 古伝空手や近代空手のような一つの武術体系を復元する場合には、膨大な時間を使って根気の要る作業を延々と繰り返していかねばならないが、「山嵐」の復元の場合は、一つの技の復元にすぎない以上、その作業も桁違いに簡易であるし、また、柔術には「逆手背負投」という技があるのだから、その意味でも、そう難しい作業ではない。

 よって、本物の「山嵐」は逆手技であった、という事に気が付いている人も、私以外に幾らかはいるに違いないと思う。

 しかし、他方で、相変わらず「偽装山嵐」を信じている人々が大勢いるのも事実である。

 その意味では、今回の本物の「山嵐」の公開にも、それなりの意義はあろうかと思う。

 本情報が、読者のお役に立てば、幸いである。

 * 上記の3)で、“本物の「山嵐」は、その技自体が、「武術の水準」に達している技、即ち、有効に掛けることが出来るマトモな技、でなければならない”と述べたが、このように記すと、「増補(4)」で既述した“相手の脇の下をくぐって投げる方式の「四方投げ」は「武術の水準」に達している技とは認められない”という内容と矛盾するのではないか、という指摘が考えられるので、その点につき解説しておく。

 まず、そもそもだが、「武術の水準」という基準を非常に厳格に考える立場というのがある。

 これは、糸洲安恒が「武術の平安」で採用した立場なのであるが、例えば、「武術の平安」の「真の分解」の中には、本物の「山嵐」と同様に敵の腕(肘)の逆を取って投げる技が複数登場するが、そのどれにおいても、敵の逆に取った腕の「外側」に我が身を置くようになっているのであり、「山嵐」のように敵の逆に取った腕の「内側」には決して我が身を置かないのである。こうしておけば、敵のもう一方の生きている腕による反撃は絶対に喰らわないからだ。

 こうした糸洲のような厳格な「武術の水準」を採用するのならば、確かに「山嵐」も不合格ということになってしまうであろう。

 しかし、日本柔術の中には既述のように「逆手背負投」という技がすでに存在していたのであり、その点で、日本柔術の基準では「山嵐」は「武術の水準」に達している技であるとの認定が既になされていたことになる。

 私見としても、「山嵐」であれば「武術の水準」に達している、と判断しても格別の問題は無い、と考えている。

 では、先に述べた相手の脇の下をくぐって投げる「四方投げ」はダメなのに、何故「山嵐」はOKなのか、という疑問に答えねばなるまい。

 まず、「四方投げ」で敵の腕を攻めるときは、その敵の腕(肘)は、伸ばす方向ではなく、その反対の曲げる方向に攻めていくのであり、私はそうした腕の攻め方を「腕を返す」と呼んでいるが、こうした腕の攻め方をされると、確かに腕の返しにつられて胴体そして全身と崩れていき、最後は投げ倒されてしまう。しかし、この間、返された腕自体には格別の痛みは無く、また、受身に自信がある場合には投げ倒されること自体にも恐怖心を抱くことが無いために、技を掛けられている最中でも、もう一方の生きている腕を使って(例えばボクシングのフックのような)打撃技を相手の頭部に向かって発することも十分に可能なのである。

 だから、相手の脇の下をくぐって投げる「四方投げ」は「武術の水準」には達していない、と評価せざるをえないのだ。

 これに対し、「山嵐」の場合には、敵の腕(肘)を伸ばす方向に攻めるのであり、まさに「腕(肘)の逆を取る」わけである。

 このように腕(肘)の逆を取られた場合には、先程の「四方投げ」とは全く異なり、まずその逆に取られた腕(肘)に強い痛みを感じるのであり、また、そうであるが故に、「腕(肘)が折れるのではないか」という恐怖心にも駆られるわけである。そうすると、少しでもそうした状況を回避しようとして、自らつま先立ちになってしまうものなのだが、それはまさに「山嵐」という投げ技に自ら協力していく動作に他ならないのである。

 そして、次の点こそが最も重要なのだが、そのような状況下では、「山嵐」を掛けられた人の意識は、最低でも一瞬間は、強い痛みを発しつつ折れそうになっている自らの腕(肘)に集中してしまうのであり、その瞬間に相手の頭部が自らの顔の近くに来ても、「その相手の頭部を殴れ」などという指令を頭脳が出す余裕はほとんど全く無いのである。

 これが、「山嵐」が「四方投げ」と決定的に異なる点なのだ。

 従って、「武術の水準」を非常に厳格に捉えたいのならば、「武術の平安」の「真の分解」に登場するような逆手投げの技を習得する必要があるが、現実には、「山嵐」でも「武術の水準」に達していると評価出来るのである。

 但し、上記のことから分かる通り、「武術の水準」に達した「山嵐」を掛けたいのならば、まず敵の内懐に跳び込み、それから敵の腕(肘)に強い痛みを発生させる、という掛け方ではダメなのであって、敵の内懐に飛び込んだ時には、既に敵は腕(肘)に強い痛みを感じている、というような投げ方でなければいけないのである。

 さらにまた、前記の注で述べた「より実戦的な掛け方」を採用することも重要になってくる。例えば右山嵐であれば、投げる直前に敵の体を右足前の半身に大きく崩せば、敵の内懐に飛び込んだ際に、敵の左肩は敵の後方に大きく下がっているために、敵の左腕による反撃を喰らいにくくなるからだ。(結局、この「より実戦的な掛け方」というのは、敵の前足により多くの体重を集めることで、より効果的に敵を投げることが出来るだけではなく、「武術の水準」を維持するという観点からも重要な掛け方だったわけである。)(注の追記:平成二十九年三月)

武術空手研究帳・増補(14) - 完 (記:平成二十六年六月)

(=> 増補(15)「武術の平安と体育の平安」へ進む)

*** プロフィール ***

プロフィール

プロフィール画像

 長谷川光政

 昭和33年(1958年)、東京生まれ。

 中学生(12歳)の時に剛柔流の空手を習ったのが、空手との最初の出会い。

 それ以来、首里手系の空手や、フルコン系、防具系の各流派等でも空手を学ぶ。

 しかし、いくら修行をしても、どうしても既存の空手に納得がいかず、最終的には自分一人での研究・修行を続けることとなった。

 それから十五年以上が経過した四十歳台後半に至って、遂に、失伝していた古伝空手の核心的技術である「当破(アティファ)」を発見することに成功。

 それ以降は、その発見をきっかけに、古伝空手の型に関する様々な謎も解明出来るようになった。

 また同時に、糸洲安恒の創始した近代空手の代表型である平安(やナイファンチ初段~三段)についても、その謎を解き明かすことに成功した。

 現在では、琉球の古伝棒術等の研究も一通り終了しており、新たな発見等については、漸次、この「武術空手研究帳」の「増補」等を通じて公開発表していく予定である。

 東京大学教育学部体育学健康教育学科卒。