武術空手研究帳

武術空手研究帳・増補(19)- “真の分解”の発見法 - 琉球古伝棒術を例にして

 [ 型の「真の分解」を発見するということは、決して簡単な作業ではない。

 読者の多くは、その本当の困難さをあまり理解していないようだ。

 そこで本稿では、琉球古伝棒術の「初伝」の型である「周氏の棍」の中から一動作を取り上げて、その動作の「真の分解」を考えていくというプロセスを通して、その困難さを具体的に紹介してみたい。]

周氏の棍

 型から「分解」それも正しい分解である「真の分解」を発見するのは、決して容易なことではない。

 読者の多くは、その困難さをほとんど理解していないと思われる。

 そこで以下では、琉球古伝棒術の「初伝」の型である「周氏の棍」の中から「ある動作」を取り上げて、その動作から如何にして「真の分解」を導き出していくか、一つ具体的に手本を示して論じてみたいと思う。

 さて、今回取り上げる「ある動作」というのは、「周氏の棍」では最初の方と最後のあたりで計二回登場してくる動作なのだ。

 以下では、山根流の「周氏の棍」の練武型の内、その二回に関係する部分を簡略に取り上げて解説するが、現在の山根流の「周氏の棍」は変形しているため、以下ではその変形を正した練武型の解説をしてある。

 なお、琉球の古伝棒術では、棒は常に(刀のように)「右構え」で持つので、以下の解説では、常に右手が前手で左手が後手になるように棒を掴んでいる点に注意願いたい。

 では、始めよう。

 まず、その「ある動作」の一回目について解説すると、そもそも「周氏の棍」の第1挙動は、両足を閉じた状態から右足を一歩後方へ引き、次の第2挙動は、右足を一歩追い足で前進させて右足前の右前屈立ちになりながら、前方に向って棒で右の袈裟打ちを行う(前屈立ちは両足踵を一直線上に揃えること)。

 そして、次の第3挙動こそが、今回取り上げる動作なのだが、これは、左足(踵)はそのままの定置で、その左足より一歩分右方の位置に右足を移動させるや、左足を上げて右足一本で立ちながら、練武線右斜め45度前方の非常に高い位置に向って棒を突き出すのである。この時、突き終わった棒は、床に対して約45度の角度になる。

 ついでに、この直後の挙動についても解説しておくが、第4挙動では、上げた左足を右足より一歩分左方の位置に降ろしナイファンチ立ちになり、同時に、上体は左斜め前方に深くお辞儀をするように曲げて、顔は頭部を下にしながら(我の胴体の左外側から)後方を見るようにして、棒の後ろ側(いわゆるシッテー)を使って我の後方に向けて突きのような動作を行う。

 そして、続く第5挙動は、両足は定置のままで、顔や上体を起こし前方を見ながら、その前方に向けて棒(の前側)で諸手突きを行う。

 今度は、その「ある動作」の二回目について解説すると、型が終了する少し前に、やはり上記の第3挙動と同じように右足一本で立って非常に高い位置に向って棒を突き出す動作が登場するのだが、その直後の挙動も解説しておくと、上げた左足を右足より一歩分左方の位置に降ろしながら、棒のシッテーで我の左斜め前方の床近くに突き技を入れるのである。

 以上が、「周氏の棍」の中で今回取り上げる動作なのである。

馬上の敵

 「周氏の棍」の練武型では、終始、我の目線は水平かそれ以下の高さに注がれており、棒による動作も、我と身長がほぼ同じ敵との攻防を示唆しているように見えるのだが、上記の二回の動作の時だけは、特別に、とても高い位置に向って棒が突かれかつ目線が注がれるのである。

 従って、この型を習った誰でもが「この二回の動作は一体何を意味しているのだろうか?」と強く疑問に感じる次第なのである。

 この点につき、この型を今に伝える山根流棒術家の一人は、雑誌の中でその動作は「馬上の敵への攻撃」と解説していた。

 この解説を読んで、まず大抵の人は「なるほど、馬上の敵か。だから高い所を突いているわけだ」と納得し、そこで思考はストップし終了なのである。

 つまり、およそ武道や武術に関心がある人の内、圧倒的大部分の人達は、こうした解説で納得し満足してしまうのだ。

 だが、こんな解説で納得・満足してしまうようでは、到底「真の分解」への到達は不可能なのである。

型の状況設定

 さてここで、「型の状況設定」に関して解説した「増補(9)」で述べたことを思い出してもらいたい。

 即ち、“型(形)というものは、ことさらに特殊な状況を設定して創作されることはなく、一般的な状況、即ち、「普通の」環境を設定して創作されるもの”という記述である。

 このことを今回取り上げている「周氏の棍」に当てはめてみれば、先述の「馬上の敵への攻撃」という解説は明らかに間違いであることが分かろうというものだ。

 何故なら、棒術を習得させるための型の分解の中に、「馬上の敵」が登場してくるのは決して「一般的」では無いからだ。

 もちろん、当時の琉球で、「馬上に」またがって棒術を振るう敵が襲って来るという状況が「普通に」発生していたのならば、「馬上の敵」が登場してもさして変ではないが、そのような話はもちろん全く聞いたことが無いし、そして仮にそのような場合であっても、型の途中に突然に「馬上の敵」が(しかも一瞬だけ)現れるというのは、どう考えても納得出来るものではない。

 「馬上の敵」という説明が納得できない理由は他にもある。

 上記の「一般的」か否か、の論を別にしても、まず、型における「場の状況」というのは、例えて言えば「芝居の舞台」のように「安定した環境」で構成されているのであって、「馬」のような「動く動物」が登場してくること自体、有り得ない設定なのである。

 つまり、「馬」であれば当然に「動く」わけであり、どうして本来「動く」「馬」が型のその挙動・その場面で「その位置」に不動の存在として現れるのか、全く説明がつかないのだ。

 もちろん、その位置に杭でもあって、「馬」はそこに手綱で繋がれていた,と解釈することも出来ようが、それでも、「馬」は杭を中心に円を描くように移動が可能なのであって、決して不動の存在にはなりえない。

 おかしな点はまだある。

 「周氏の棍」のその動作の直前の動作である第2挙動を見ても、敵は、「馬」に跳び乗る時間もあるかどうかあやしいのだが、ましてや手綱を外す時間的余裕などは全く無いのだ。(手綱を外さないで馬に跳び乗ったところで、一体何の意味があるのだろうか?)

 最後に、これが最も不可思議なのだが、今回取り上げている動作に続く挙動を見てみると、一回目では、その動作の次の次の挙動で前方の普通の高さに諸手突きを行っているし、二回目では、その動作の次の挙動で床に近い低い所を突いているわけだ。

 棒術の攻撃対象は、基本的に敵の身体なのであって、決して馬ではないことから合理的に判断すれば、敵はいったん「馬上」に乗ったものの、すぐに降りてしまったことになるわけだが、では一体何のために「馬上」に乗ったのだろうか?

 我との間合が非常に近い状態で、一瞬のスキでもあれば我からの棒の攻撃を喰らってしまう状況下にありながら、かなりのリスクを犯してまで「馬上」に乗ったにもかかわらず、何故、すぐに「馬」から降りてしまうのか、全くもって理解出来ない行動なのだ。

嵩山少林寺

 以上でお分かりの通り、「馬上の敵への攻撃」という解説は、全くのカモフラージュ的分解なのであり、要するにニセモノの分解なのである。

 では、今回取り上げた動作の「真の分解」は如何なるものになるのであろうか?

 前節の解説からも分かるように、それは「一般的」でなければならないし、また、もし何らかの「もの」が存在するならば、それは「不動の物」でなければならないわけである。

 さて、ここで、この型のタイトルである「周氏の棍」に注目してみたい。

 私は、古伝空手の首里手や泊手の現在に伝わる型のほぼ全ての復元を終えているし、また、琉球の古伝棒術の代表型も基本的に全て復元しているが、それら復元した全ての型のタイトルを見ても、シナとの関係を露骨に示しているものは、この「周氏の棍」をおいて他には無いのである。

 例えば、古伝空手の「クーシャンクー」はシナの官位の名称のような解説もあるが、「クーシャンクー」が本当にそれを意味しているのかどうかは、今となっては証明出来ない。

 それに何よりも、「周氏の棍」という名称と「クーシャンクー」とでは、明らかにシナの関与のレベルが異なる。

 何故なら、「周氏の棍」という名称は、明らかに「シナ人である周という人の棍術(棒術)の型」という意味以外の何物でもなく、「クーシャンクー」などという曖昧な名称とは全く異なるからだ。

 つまり、他の全ての型とは異なり、この「周氏の棍」だけには特にシナとの何らかの強い関係が存在する可能性があることになる。

 そこで考えてみると、シナで「棍術」と言ったら、真っ先に思い浮かぶのが「嵩山少林寺」である。

 現在では「拳法」の方が有名のようだが、これは時代が下り、武器術よりも素手の体術の方がより現実的になったのと、他方では、現代空手の世界的普及の影響で、中国武術の中でも武器術よりも素手の「拳法」の方が重みを増したからである。

 しかし元々は、「嵩山少林寺」と言ったら「棍術」の方がはるかに有名だったのだ。

 そして、この「嵩山少林寺」というのは、いわゆる「山寺」なのであって、峻険な山の中にある寺なのだ。

 さて、ここで読者に考えてもらいたい。

 こうした「山寺」においては「一般的」なものであり、かつ、「不動の物」であって、極めて短時間で人間の体の位置を高くしてくれるもの、とは一体なんであろうか?

 そんなものがあるだろうか?

 ある。

 それは「階段」だ。

 峻険な「山寺」であった「嵩山少林寺」にあっては、修行する場の至る所に「階段」があっても何ら不思議ではなかったのであり、それは極めて「普通の」「一般的」な風景だったのだ。

 結局、本稿で取り上げている動作の意味は、「階段を駆け上がっている敵への攻撃」だったのである!

 * 「増補(9)」で述べたとおり、「一般」や「特殊」というのは、絶対的な概念ではなく相対的な概念なのであって、「特殊的」と思われることも、別の観点から見れば「一般的」であったりするわけだ。

 だから、「階段」を型の中に登場させることは、通常の環境で修行している人たちからすれば「特殊」ではあるが、「山寺」で修行している人達からすればごく「普通」の「一般的」なことなのである。

武術研究の奥深さ

 ここではっきりと述べておくが、私が復元した古伝空手の型や琉球古伝棒術の型(但し「周氏の棍」は除く)の「真の分解」には、「中国武術に由来する技術」などは一切登場してこない。

 古伝空手は、明らかに日本の「柔術」を元にしており、古伝空手誕生から始まる「古伝空手・前期」の型の分解を見ると、最初は柔術類似の技から出発し、その後、琉球独自の技も発達するようになり、それが「古伝空手・後期」の型の分解になると、それら琉球独自の技術体系自体が大きく花開く展開となって行くのである。

 琉球古伝棒術にしても、(G方式で戦う)日本の棒術がベースになっており、それをB方式の棒術に改造した内容になっている。(G方式、B方式については、「増補(1)」を参照のこと。)

 しかし、本稿で取り上げている「周氏の棍」は、その名称からも分かるとおり、一つだけ例外的な型なのであって、つまりこの型には、中国武術に由来する技術が(僅かではあるが)混入しているわけだ。

 だから、他の型と区別する意味で、このような特殊な名称を付けたのである。

 実際、この型の「真の分解」を見ると、この非常に高い所を突く技二回と、あともう一つの所の、計三箇所だけではあるが、その三箇所には中国武術特有の技術が見られるのである。

 さて、ここまで読んできて、今回取り上げている「周氏の棍」の中の「非常に高い所を突く動作」の意味が「階段を駆け上がっている敵への攻撃」であると判明したわけだ。

 そもそもの解説であった「馬上の敵への攻撃」とは随分と違った解釈になったわけだが、そうしたニセモノの分解に騙される人の方が圧倒的に多いのであって、結局、僅かの人だけが、カモフラージュ的分解には引っかからずにより深い理解に進んで行けるのである。

 しかし、読者よ。武術の研究というものは、さらに一層奥が深いものなのである・・・

階段か?

 前節までに、「階段を駆け上がっている敵への攻撃」こそが正解と述べたわけだが、果たして本当にそうなのであろうか?

 ここで本物の正解を述べると、「階段」まで辿りつけたのは立派ではあるが、実は「階段」では、やはりオカシイのである。

 何故か?

 本稿の冒頭部で、今回取り上げている動作の直後の動作についても解説しておいたことを思い出して欲しい。

 それぞれを見ると、我が非常に高い所を突いた後には、一回目では、その突いた位置より(我から見て)左方に数メートル離れた位置で(大体水平に)諸手突きを行っているのであり、二回目では、やはり、その突いた位置より(我から見て)左方に数メートル離れた位置で低い下段にシッテーで突き技を行っているのである。

 つまり、敵は、極めて短時間に己の体の位置を高くした直後に、そこから水平方向で数メートル離れた地上に向って跳び下りているのだ。

 ここで問題になるのは、果たして「階段」を使ってそのようなことが出来るか否かなのである。

 「階段」というのは、水平面と垂直面が交互に現れるように構成されているが、こうした「階段」を「登る」時は、水平面に足を置き強く下向きに蹴ることで自身の体を持ち上げていくわけだ。

 そうした水平面を下向きに強く蹴ることを素早く連続して行っている真最中に、今度はその階段から離れる方向に向って強くジャンプしなければならないのだが、そうしたことが果たして人間に可能なのか、ということだ。

 階段から離れる方向に向って強くジャンプするためには、どう考えても、「水平面」ではなく、「垂直面」を足で強く蹴る必要があるわけだが、「水平面」を使って「階段」を素早く駆け登りながら、今度は突然に「垂直面」を足で強く蹴る、などという芸当は、およそ人間に出来ることではない。

 では一体、敵は何をしたのだろうか?

 理論的に考えることが出来るならば、答えは簡単に出せる。

 今述べたように、“「水平面」を使って「階段」を素早く駆け登りながら、今度は突然に「垂直面」を足で強く蹴る、などという芸当は、およそ人間に出来ることではない”のならば、最初から「垂直面」のみを駆け上がれば良いのだ!

 そうである。

 敵が登ったのは、「階段」だったのではなく、垂直な「壁(塀)」だったのだ!!!

壁登り

 「壁」を登ったなどと言うと、信じない向きもいるかも知れないが、そういう技術は確かに存在したのであって、嵩山少林寺では昔から(「飛牆走壁」という名称で)伝承されてきた技術なのである。

 疑問に思う方は、検索エンジンの画像検索などを使って「少林寺 壁走り」などと入力すれば幾つかのサイトに辿り着けるはずだ。

 ここでは参考までに以下のリンクを紹介しておく(冒頭のhは省いてある。なお、他者のサイトなので、リンク切れしていないという保障は出来ないが)。

ttps://rocketnews24.com/2012/01/17/172730/

ttps://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20121113/Searchina_20121113024.html

 なお、嵩山少林寺の武術の技術は現在ではほとんど失伝しているはずだが、これは奇跡的に残ったか、まぁ、それはまず有り得ないことなので、おそらくは(武術ではなく)軽業である「雑技」の応用として復元したものであろう。

 ところで、こういう「壁登り」のような技術は、日本武術の世界では「ケレン」であるが故に武術修行の対象にはしない。

 しかし、敵がこのような行動を突然取った時に、特に初心者の場合に決して驚かないように、あらかじめ知識として教育しておく必要もあったために、「初伝」の型である「周氏の棍」では、あくまで「敵の動作」としてではあるが、このような技術を挿入しておいたわけである。

 * 細かい話だが、念のために記しておく。

 本稿で「階段を登った」とした所は、それとは別に1)跳躍した、2)棒高跳びをした、3)坂を登った、等という可能性もあったわけだ。

 しかし、敵の体が突然高くなる方向と、その後に敵が着地する方向とが、一直線上で一致するのではなく、その方向を大きく違えている点から考えると、1)及び2)は有り得ないことになる。

 また、3)は、理論的には「階段」と同じことなのであり、「水平面」「垂直面」に明確に分解して考察出来る「階段」の方が説明に便利だったことから、本稿では「階段」を取り上げたにすぎない。

 このように、実際は様々な可能性を全て検討した上で「壁登り」という結論に到達したわけだが、そうした可能性を全て上記本文中に記すことは紙幅等の関係で無理があったことから、省略した次第なのである。

 ** アクション映画や現代空手の演武会などでは、シロウトに対する見映えの良さからしばしば「飛び蹴り」が登場するが、武術的見地から評価すると、「ジャンプ」という行為、特に「大きいジャンプ」は、いわば「動的居付き」とも言うべき悪しき行為なのである。

 つまり、跳び上がって地面から離れたその瞬間から着地するまでは、ジャンプした人間の重心は完全に重力のみの支配下に入るわけで、その重心が次の瞬間にどこに位置するのかは、100%完全に相手に把握されてしまうからだ。

 だから、相手からすれば、そのジャンプした人間は「動いてはいるものの、瞬間瞬間の重心の位置が完璧に読まれてしまう存在」なわけで、従ってこれは「動的居付き」状態にある、と言えるわけである。

 以上のことから分かるとおり、この「壁登り」にしても、特にその後半の「落下時」は、敵の「動きが読みやすい」状態になるのだ。

 だから、この「周氏の棍」の「真の分解」でも、敵の二回目の「壁登り」の「着地時」には敵を仕留めるのに成功しているわけである。(その事は、その直後で型が終了している事から分かることと思う。)

「真の分解」の完成

 以上、本稿では、「馬上の敵を攻撃する」というポピュラーな見解を否定する所から始まり、結局、敵は「壁を登った」というのが正解と判明したわけだが、実は、これでもまだ少し抽象的なのであり、未だ本当の「真の分解」には到達出来ないのであって、さらに、「壁をどのように登ったのか」「壁をどのように降りたのか」について、もう一段程度具体的に詳しく解明しないと「真の分解」は完成しないのである。

 「真の分解」を完成させるということは、それ程までに困難な作業なのであり、そうした作業を一挙動ずつ全てにわたって根気良く繰り返してこそ、古伝空手や近代空手そして琉球古伝棒術の復元が可能になるのだ。

 作業量だけを見ても、実に膨大な量になることがお分かりのことと思う。

 実際のところ、私が拙著「武術の平安」「ナイファンチ二段三段の秘密」を完成した際には、約一年半以上にわたり、ほとんど他の仕事は放り出した状態で研究・執筆に専念したことを覚えている。

 その位集中し、かつ、細かいところまでをも全て明らかにし得たからこそ、自信を持って、本サイトや拙著「武術の平安」「ナイファンチ二段三段の秘密」を公開出来る次第なのである。

武術空手研究帳・増補(19) - 完 (記:平成二十九年九月)

(=> 増補(20)「空手の立ち方に関して(三戦立ちの特異性)」へ進む)

*** プロフィール ***

プロフィール

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 長谷川光政

 昭和33年(1958年)、東京生まれ。

 中学生(12歳)の時に剛柔流の空手を習ったのが、空手との最初の出会い。

 それ以来、首里手系の空手や、フルコン系、防具系の各流派等でも空手を学ぶ。

 しかし、いくら修行をしても、どうしても既存の空手に納得がいかず、最終的には自分一人での研究・修行を続けることとなった。

 それから十五年以上が経過した四十歳台後半に至って、遂に、失伝していた古伝空手の核心的技術である「当破(アティファ)」を発見することに成功。

 それ以降は、その発見をきっかけに、古伝空手の型に関する様々な謎も解明出来るようになった。

 また同時に、糸洲安恒の創始した近代空手の代表型である平安(やナイファンチ初段~三段)についても、その謎を解き明かすことに成功した。

 現在では、琉球の古伝棒術等の研究も一通り終了しており、新たな発見等については、漸次、この「武術空手研究帳」の「増補」等を通じて公開発表していく予定である。

 東京大学教育学部体育学健康教育学科卒。