武術空手研究帳

武術空手研究帳・増補(18)- 武術空手の“砕き(くだき)”とは何か?

 [「砕き」という武術空手特有の稽古法を発見したのは私の業績の一つなのであるが、もちろん現代空手家はこの「砕き」については全く何も知らないのである。

 しかし、全く知らないのでは、そのおよその価値等についても何も分からないわけだ。

 そこで、以下本稿では、今回特別に拙著「武術の平安」の中の“コラム-5: 「砕き」と「外国語上達法」”をそのまま引用するので、是非「砕き」のイメージをしっかりと掴んでもらいたい。合わせて、「型による空手」という稽古法や、「武術空手の戦闘方式」についても、簡略ながら解説しておこうと思う。]

コラム-5: 「砕き」と「外国語上達法」

 さて、いよいよこれから「砕き」の解説に入るわけだが、ほとんどの現代空手家にとっては、今まで「砕き」などという稽古法に接した経験は無いはずである。

 そこで、具体的な解説の前に、まずは「砕き」の全体像について、ある種のイメージを持ってもらう方が良いのでは、と考えた次第である。

 よって、ここでは、「外国語上達法」を例に採って、「砕き」とはどのようなものか理解を深めてもらうことにする。

 なお、Aのことを説明するためにBを例え話に使う場合、AとBはその構造が似ているほど良い例え話になる。

 今回の「砕き」と「外国語上達法」というのも、かなり良い例え話と思っているが、しかし、例え話にはやはり限界があることも、また事実である。何故なら、やはり両者は別の事物だからだ。

 この「砕き」と「外国語上達法」にも、もちろんそういう限界があるのであって、それは、外国語における必要な単語の数なのであり、近代空手では必要な技の数に相当する。

 つまり、しっかりと自分の考えを外国語で述べようとすれば、最低でも数千位の単語数は必要になるのであって、本格的なレベルを望むのならば、やはり一万以上の単語数が要求されるのである。

 しかし、この例え話で外国語の「単語」に相当する近代空手の「技」について、必要な数はと言うと、数百でも多すぎるのであって、通常、一つの武術における技の数は、五十~百もあれば十分なのである。

 平安の「真の分解(勝負形)」に登場する技の数と言っても、同じ様な技を複数にカウントするかどうか等、見る観点によってその数も結構変わってくるが、大雑把に言えば、七十程度であろう。武術ではこれで十分な技の数なのである。

 よって、以下の例え話では、外国語の単語数の観点は無視して読んでもらいたい。実際には一冊のテキストに出てくる程度の単語数では足りないはずだが、そのことは考えないで読んでもらいたい、ということだ。

 では、早速始めることにしよう。



 「外国語上達法」を使って近代空手の上達法の解説をするためには、これに対比して現代空手を絡めた方が、理解が進むと思われるので、まずは、現代空手風の外国語上達法から考えてみよう。

 現代空手の上達システムは、その場基本、移動基本、約束組手と進んでいくのであるから、これに対応する外国語上達法というのは、次のようなものになろう。

 まず最初は、単語の暗記から始まる(これが、その場基本に相当する)。

 それから始まって、次は、シンプルな短文などを暗記しながら、文法知識を覚えることになる(これが、移動基本に相当する)。

 次は、台詞のようにパターンの決まった短い会話の練習をする(これが、約束組手にあたるわけだ)。

 概ね、以上のような外国語上達システムになるわけだが、この外国語上達法は、ちょうど部品から全体を組み立てて行くようなシステムなのだ。「部分から全体へ」というシステムと言っても良いだろう。

 さて、このような外国語上達法には、次のような問題点があるのだ。

 まず、単語から始まり、次はシンプルな短文や短い会話を覚えて行くことからも分かる通り、この上達法では、長い文章を話すということが苦手になるということだ。基本的に短い文でしか、言いたいことを表現出来ないのである。(このことは、現代空手の自由組手や組手試合において、その戦い方が、単発的な攻防の繰り返しになりやすいのと、良く似ている。)

 次の問題点は、こういう上達法では、ネイティブ(その外国語を母国語とする人のこと)との会話の練習を常に積んでいなければ、実力が落ちてしまうという点だ。単語や、決まりきった短文や、台詞のような短い会話練習だけでは、臨機応変の対応が出来ないわけで、常に、ネイティブを相手にした自由な会話の練習が欠かせないのである。(これは、現代空手において、組手の実力を維持・向上させるためには、常に自由組手のような対人練習が欠かせないのに相当すると言えよう。)

 そして、さらなる問題点はというと、このような、部品から組み立てて行く方式では、文法的には正しくても、ネイティブが聞いたら首をかしげるような不自然な外国語を話してしまうことも起こり得るという点だ。(これは、現代空手で言えば、組手における動作の中に、武術という観点から見たらマズイ動作や技が含まれてしまう、ということに相当する。)

 いかかであろうか。以上が、現代空手風の外国語上達法なのである。



 では、これに対して、近代武術空手風の外国語上達法とはどのようなものか?

 まず、スタートからして、全然違ってくるのである。

 近代空手風の外国語上達法では、テキストの丸暗記から始めるのだ。(言うまでもないが、この「テキスト」が、近代空手では「平安」に代表される「型」に相当するわけだ。)

 このテキストというのは、ストーリー仕立てで、また、実に良く工夫されており、この中に必要な単語や文法知識はもれなく含まれているのである。

 まずは、この外国語のテキストを、意味などは分からないままに、とにかく丸暗記するのである。(これが、練武型の稽古に相当するわけで、近代空手の初伝段階にあたるわけだ。)

 さて、とにかくスラスラとこのテキストが暗唱出来るレベルに達したら、今度はその意味(「真の分解」のことである)を教わるのだ。これで、ようやく、意味を理解しつつ、自由にテキストの内容を諳んじることが出来る段階に達するのである。(もちろん、これが勝負形の稽古に相当するのであり、近代空手では中伝段階にあたるのだ。)

 この段階まで来ると、ネイティブを相手にした自由な会話も、一定の条件つきで可能となってくる。

 つまり、テキスト通りの展開にならない限り会話は出来ないという制約はあるが、いったんテキスト通りの展開になれば、文法的にも正確で、しかもネイティブが聞いても自然な外国語が、スラスラと口をついて出てくることになるのである。それも、短い文だけということはなく、テキストにある長い文章がドンドン会話に登場してくるわけだ。

 さて、この段階では、ネイティブとの会話にも以上のような制約があったのだが、ここからが「砕き」に相当する練習法の開始となるのである。

 では、「砕き」に相当する外国語の練習法とは如何なるものか?

 それは、次のようなことをするのである。

 例えば、テキストの第2ページの第3パラグラフを暗唱している、としよう。今までなら、テキスト通りに暗唱していたのだが、今度は、そのパラグラフの中のある単語のところで暗唱をストップするや否や、ポンと跳んで、例えば第3ページの第2パラグラフの中のある部分へとつなげて暗唱を続けるのだ。(これが「砕き」の「基本」に相当するのである!)

 つまり、今まではパラグラフ通りに暗唱していたのだが、今度は、あるパラグラフの途中から別のパラグラフの途中へと進んで、暗唱を続けていくのである。

 こうすると、今までとは違った内容の文章を口にすることが出来るのであり、要するに、テキストの内容を変えて話すことが可能になってくるのだ!

 いかがであろうか。これが「砕き」の基本に相当する外国語の練習法なのである。

 このテキスト(すなわち「平安」という「型」)は非常に工夫を凝らして作成されており、こうした「砕き」が自由自在に出来るような構成になっているのだ。

 さて、こうした「砕き」の基本に相当する外国語の練習法を続けていくと、今まではテキスト通りの展開にならなければネイティブとも会話が出来なかったわけだが、今度は、会話が出来るチャンスが格段に広がってくるのである。

 もちろん、一定の限界はある。どんな話題でも、スラスラと応じて会話するというわけにはいかない。

 そこで、次には、もう一段進んだ「砕き」の会話練習法に入るのだ。

 どうするのかというと、今度は、あるパラグラフの途中からいきなり別のパラグラフの途中へと跳ぶのではなく、あるパラグラフの途中まで来たとき、そこの単語(技)を少し変化させるのである。そうすると、単語を変化させたことで、今までは全く関係の無かった別のパラグラフの途中へと進んで行くことが出来るようになるのだ。

 これが、一段進んだ「砕き」なのである。

 今度は、このような外国語の練習法を続けていくのだが、最初の「砕き」の段階よりも、さらに一層、ネイティブと会話が出来る範囲が広がってくるのである。

 こうして、段々と高度な「砕き」に入っていくのであるが、最終的には、単語単位で「砕く」ことも出来るようになるわけだ。

 こうなってくれば、ネイティブがどのような話題で話しかけてきても、テキストの中にある単語を自由自在に組み立てて、自分の望むような会話が出来るようになるわけで、ここまで来れば、いわば外国語会話の「達人」クラスになったと言えよう。



 以上が、近代空手風の外国語上達法なのである。

 現代空手風の上達法と比べて、実に合理的に工夫されているのが分かると思う。

 先に述べた、現代空手風の外国語上達法の問題点を思い出してもらいたい。

 まず、現代空手風の上達法では、基本的に短い文でしか、言いたいことを表現出来なかったのであるが、近代空手風の方法ならば、ネイティブと会話をするときには、最初からテキスト通りの比較的長い文章を話すのであり、短文的な表現しか出来ないということはないのである。

 次に、現代空手風の上達法では、常にネイティブとの会話練習を積んでいなければ実力が落ちてしまうのだが、近代空手風の方法ならば、自分で自由自在にテキストを変化させていくために、一人で行う暗唱が、そのままネイティブとの会話そのものになるのだ。

 そして、現代空手風の上達法は、部品から組み立てて行くような方式のために、文法的には正しくても、ネイティブが聞いたら首をかしげるような不自然な外国語を話してしまうことも起こり得るのだが、近代空手風のやり方ならば、最初から、常に“自然な(空手で言えば、武術の水準を維持した)”外国語が口をついて出てくるのであり、ずっとその水準を維持しながら「砕いて」いくのである。だから、常に、ナチュラルな外国語が話せるのだ。



 いかがであろうか。

 ここでちょっと余談になるが、私は若い頃に外国語の上達法に興味を持ったのだが、そのとき最も手本にしたのが、「古代への情熱」の著者であり、語学の天才と称された、ハインリッヒ・シュリーマンの勉強法であった。

 結局、シュリーマンの外国語上達法というのは、上記の近代空手風の外国語上達法と、基本的に全く同じなのだ。

 もっと言えば、昔は、どの国でも、自国語の学習に際してすら、お手本になるような文章を随分と丸暗記させたものなのである。

 つまり、この近代空手風の外国語上達法というのは、まことに理にかなった方法なのだ。



 さて、上記の二つの上達法の比較には、さらに別の重要な一面もある。

 まず、現代空手の部品から組み立てていくような上達法は、はっきり言って「面白くない」のである。

 武術や武道関係の人達は、何でも苦しいことをすれば、それが修行なのだ、と考える傾向が強い。

 しかし、「面白くない」ものは、やはり長くは続かないのだ。

 読者は、現代空手の経験があると思うが、現代空手のその場基本から始まる稽古法は、道場に通って他の人達と一緒に稽古をすれば何とか継続可能であろう。

 しかし、一人で稽古を続けようとすると、組手のような対人練習は出来ないわけであるから、その場基本と移動基本、後は鍛錬を続けるのみなのであって、こうした稽古を何年、何十年と続けるとなったら、まずは続かないのである。

 実際、道場をやめて、一人で稽古を続ける人もいるのだが、多くはその内に、稽古をやめてしまうのだ。

 これに対し、「型による空手」というのは、常に興味が尽きないのである。

 自分が気に入った愛読書であれば、何度読んでも飽きないのと同じなのだ。

 特に「砕き」の稽古などは、自分であれこれ考えながら稽古を工夫していくのであるし、毎日少しずつでも進歩が確認出来るのだから、まことにもって「面白い」のである。

 こうした興味が尽きない方法だからこそ、個人としても、一生を掛けて修行していくことが出来るのであり、また、古伝空手の誕生から何百年以上もの間、「型による空手」という修行法が継承されて来たのである。

「武術の平安」

 以上、拙著「武術の平安」の中から“コラム-5: 「砕き」と「外国語上達法」”を直接全文引用したわけだが、いかがであったろうか?

 「砕き」というのは、読者もよくご存知の現代空手の稽古法とは根本的に異なる「正反対」の稽古システムであったことが良く分かったことと思う。

 さて、現在まで、多くの人達によって様々な「平安の分解」が発表されてきたが、このような「砕き」という技術については、結局、今まで誰も発見出来なかったわけである。

 それはそうであろう。

 他の人達は、「既に自分が知っている技」を平安という型の分解の中に見出しただけなのであって、本物である「真の分解」を発見したわけではなかったからだ。

 だから、そうした間違った分解においては、「武術の水準」に達していない素人じみた技モドキや、ただ単に既存の現代空手や柔道や合気道等の技が登場してくるだけなのであって、格別、新たな発見などは無かったのである。

 それに対して、私は本物である「真の分解」に辿りつくことが出来た。

 だからこそ、その「真の分解」から、実に多くのことを「学ぶ」ことが出来たのである。

 この点こそが、他者とは大いに異なるのだ。

 少し考えれば分かるはずだが、型の分解というものは、それ自体だけでは硬直化しており、それが想定する場面とほとんど同じ場面に遭遇しなければ,分解自体を使うことが出来ないわけである。

 しかし、実戦上はそれでは困るのであって、従って、分解の「応用法」とでも呼ぶべき稽古方法が昔には確立していたはずなのだが、では一体全体それはどのようなものであったのか。さらに、昔は「型による空手」であった以上、その「応用法」も基本的に一人稽古で上達出来ねば困るのだが、どのようなものであれば一人稽古で上達出来るのか、などが解明されねばならなかったわけである。

 しかるに、今まで誰もこの問いに対する具体的な答えを出すことは出来なかったのだ。

 これに対し、拙著「武術の平安」では、この“コラム-5: 「砕き」と「外国語上達法」”の直後に、「砕き」の本格的な解説が展開されている。

 具体例をたっぷりと豊富に挙げての解説であり、抽象論は微塵も無い。

 「型でどのように上達していくのか」という問いに対する「本当の答え」がそこにある。

 よって、興味のある方には、拙著「武術の平安」の受講を強くお勧めする次第である。

 冷静かつ客観的に申し上げて、現在、昔の空手の全体像を正しくかつ詳細に解説しているのは、この拙著「武術の平安」をおいて他には全く見当たらないからだ(そして、おそらく今後も他に登場してくることは無いであろう)。

型による空手

 なお、現代空手に馴染んでいる読者にあっては、やはり「型による空手」という稽古法は今一つ理解しがたいと思われるので、良い機会なので、ここでもう一段突っ込んだ解説をしておこうと思う。

 最初に断っておくが、「型による空手」という稽古法が成立しうるのは、私が「B方式」と呼んでいる戦闘方式を採用している戦闘術だけなのであって、現代空手のような「G方式」を採用している戦闘術の場合には、単独型による稽古法、即ち、「型による空手」という稽古法はそもそも成立しないのである。

 このことに関しては、「増補(1)」の「第1回~第6回」の全部をしっかりと読み込んでもらえれば、了解がいくことと思う。

 さて本題に入るが、まず注意すべきは、型を練ることで上達していけるのは、「敵と接触して以降の攻防技術」の部分と言うことだ。

 だから、例えば敵が我の胸倉などを掴んできた場合などでは、さしたる困難も無く、ただ型を通して練ってきた技術(即ち、「真の分解(勝負形)」や「砕き」の稽古で習得した技術)を駆使すれば良いことになる。

 これに対して、敵が打突技で攻撃して来た場合には、まずもって敵の攻撃を「受け技」で受けねばならないわけである。

 もちろん、本サイトの読者であれば既にご存知の通り、現代空手の「受け技」はニセ物なのであって、そのような珍妙な技(?)では、敵の攻撃を満足に受けることは出来ない。

 では、古伝空手の時代には、打突系の防御についてはどのように稽古していたのかと言うと、以前「増補(6)」で述べたように、本物の「受け技」は、防具(小手)である「トンファー」を使って先生が棒で攻撃してくるのを受けることで稽古したのであった。(繰り返すが、「トンファー」は武器ではなく、稽古用の防具(小手)だったのだ。)

 もちろん、いずれは先生の下を離れて独り立ちするわけだが、その頃には敵を仮想しての一人稽古で十分に受け技の稽古が出来るようになっていたわけである。

 そして、こうした古伝空手時代に採用されていた本物の「受け技」は、その全てが「武術の平安」の「真の分解」の中に継承されていたのであった。だから、「武術の平安」を習得すれば、自ずと古伝空手と同じ「受け技」が身に付くようになるわけである。

 とにかく、こうして「受け技」によって敵の体に接触してからは、まさに「型による空手」の修行が生きてくる場面になるのだ。

 ここからは、時には「真の分解」通りに敵を制圧し、また、時には敵の反撃・抵抗等に合わせる形で「砕き」を使って敵を制圧したりしていくのである。

武術空手の戦闘方式

 以上で概略の説明は終了となるが、「武術の平安」の伝授を受けていない人の場合には、「型による空手」の中身について、つまり、「武術空手の戦闘方式」というものが、具体的にはほとんど分かっていないのであるから、簡略ではあるが、近代空手を例に採り、ここでさらにもう一歩突っ込んだ解説をしておこうと思う。

 まず、我の放つ「打突技」だが、現代空手とは異なり敵が自由に動きまわっている状態で我がいきなり敵に向って「打突技」を放つということは基本的に無く、敵が放つ打突技を受けると同時かそれ以降に我が「打突技」を放つのが原則であり、さらに、敵を拘束し言わば「陶物(すえもの)」状態にした上で「打突技」を放ったりもするわけである。

 (このように、敵を拘束しながら「打突技」で攻撃すると、その威力も、「試し割り」と同様なレベルにまで強化されることになる。

 さらに加えて、我の「打突技」の威力向上については、糸洲安恒によって工夫された「倒木法(倒地法)」に関係する様々な技術があるし、また、古伝空手から引き継いだ技術としては、例えば、「敵の体を利用する倒木法(倒地法)」という技術や、秘技「二度打ち」等々があり、以上の諸技術のフル活用の結果、我の「打突技」の威力も非常に強力になるわけである。)

 そして、こうした原則は「蹴り技」の場合にも同様に当てはまるのだ。

 現代空手では、いわゆる「その場基本」の稽古の中で、敵を仮想しないで漠然と「前蹴り」や「金的蹴り」の訓練をしているわけだが、では果たしてそういう「技(?)」が実戦で使えるのだろうか?

 つまり、実戦の最中において、我の正面で完全にヘソをこちらに向けて、かつ、股を大きく開いてくれる敵がいるのか?ということだ。

 まず、いないであろう。

 では、近代空手等の武術空手ではどうしたのかというと、まずは取手技で敵の体を崩すのである。

 そして、例えば敵の体(ヘソ)を完全にこちらに向けさせて、かつ、股を大きく開かせるのだ。

 そこへ間髪を入れずに、「前蹴り」や「金的蹴り」を叩き込むわけである。

 こうしてこそ、初めてマトモな「前蹴り」や「金的蹴り」を敵に放つことが出来るのだ。

 では次は、「投げ技」を中心に「取手技」についても解説しておこう。

取手技-投げ技

 「取手技」というのは、本サイトにおいては、武術空手における「打突技」以外の技の総称として使用している概念なのであるが、その内部を分類してみると、敵の体を投げる「投げ技」、敵の体を半永久的に固定化し陶物としてしまう「固め技」、敵の体を暫定的に固定化する「極め技」、敵の首を絞めて落とす「絞め技」等がある。

 この内の「投げ技」に着目すると、それは大別して二種に分かれるのだ。

 ここでは、その二種を「組討投げ技(以下では“組討技”と称す)」と「関節投げ技(以下では“関節技”と称す)」と命名しておく。

 まず、「組討技」というのは、例えば「柔道」のような投げ技を意味するのであって、敵の体としっかり組み合うなどしてから、敵の体の重心に直接的に働きかけることで、敵の体を丸ごと投げ倒す技なのである。

 これに対し、「関節技」というのは、例えば「合気道」のような投げ技を意味するのであって、主に敵の腕を掴み、その腕を崩していくことで間接的に敵の体の重心を崩していき、敵を投げ倒す技なのだ。

 以下では、まず、この二種それぞれの投げ技の特色について論じてみたい。

 まず、「組討技」についてだが、この系統の技は、基本的に言って「力技」である点に特色がある。

 つまり、敵を投げ倒すにあたり、かなりの「力」が要求される、ということだ。

 もちろん、柔道で言えば、いわゆる「捨身技」は「倒木法(倒地法)」を活用した投げ技なのであって、それ自体はそれほど「力」を必要とはしない技ではあるが、それ以外の柔道の技は、基本的に「力」が無いとマトモに掛けることが出来ない技なのである。

 よって、稽古に際して、こうした「組討技」を鍛える場合には、実際に人間の体を使って鍛錬するのが妥当なのであり、よって、(安全性を考慮した上で)二人で組んで実際に技を掛け合う方式が最適な稽古法になってくる。

 だから、もし稽古相手がいない場合には、空気相手に一人で動作するだけではマトモな鍛錬にはならないのであって、例えば人間の体に近い重さを持った何らかの物体(丸太や砂を詰めた米俵等)を投げることで技を鍛える必要があるわけだ。

 (嘉納治五郎が講道館柔道を創造するに際しては、当時の日本の若者達の「体力向上」も重要な要素として視野に入れていたことは明らかである。

 そうであってみれば、体を鍛え発達させるに適した「組討技」をより重視したのも、至極当然の成り行きと言えよう。)

 以上に対して、「関節技」の場合には、「組討技」ほどは大きな「力」は要求されない。

 つまり、敵の「腕」を崩すことさえ出来れば、後は必然的に敵の体全体が崩れていってくれるので、技の巧みさやスピードなどの方がより重視されることになるわけだ。

 よって、稽古に際して、こうした「関節技」を鍛える場合は、二人で組んで相手の体を実際に投げ合うことは必ずしも必要ではない。

 つまり、稽古相手がいなくとも、敵を仮想して空気相手に一人で動作するだけでもマトモな鍛錬になり得るのであって、人間の体に近い重さを持った何らかの物体(例えば、丸太や砂を詰めた米俵等)を使って稽古する必要も特に無いのである。

 結局のところ、ここまでの論述からお分かりの通り、「型による空手」であった「武術空手(古伝空手及び近代空手)」にあっては、一人稽古が主体になるのであるから、「投げ技」の場合には「組討技」ではなく「関節技」が主流になってくるわけである。

 実際、私が復元した「古伝空手」や「近代空手」の「真の分解」を見ても、「投げ技」に関しては「関節技」が主流を占めているのである。

 * 厳密に言っておくと、「古伝空手」には例外的に若干の「組討技」が存在するが、「近代空手」には純粋な「組討技」は含まれていない。

 これは糸洲安恒の工夫によるものであって、「近代空手」では、主流をなす「関節技」以外には、丁度「組討技」と「関節技」の中間の技とでも言うべき「敵の首を攻める投げ技」というのを登場させているのである。

 こうした技は、「首関節」を攻めている以上「関節技」でもあるし、他方で、腕等を攻める場合に比べて敵からの強い抵抗を受けやすいために「力技」の側面も有しているわけだ。

 ** 上記本文に記した通り、純粋な「組討技」は言わば「力技」であるため、これを身に付けるに際しては実際に人間を投げてみるのが一番良いのである。

 人間一人の体の重さや、敵が逆らってきた場合のその力の程度というものは、実際に体験してみないと容易には分からないし、また、体験してみれば比較的簡単に分かるからだ。

 だから、柔道の基本技を独学で身に付けるというのは、相当に困難と言える。

 これに対して、「関節技」は、その技の掛け始めの部分での敵の抵抗を除けば、それほど大きな力は必要とはされないために、この系統の基本技を独学で身に付けるのは、決して困難ではない。

 さて、この観点から、ここで一言申し上げたいことがある。

 如何なる分野にも、向き不向きというものがあるが、「型による空手」である武術空手にも、人によって向き不向きがある。

 その一つの目安だが、例えば合気系の基本技(「四方投げ」とか「小手返し」等々)を、本を読んで自分一人で稽古することで一通り身に付けられるくらいの能力があれば、一応「向いている」と判断出来るものである。

 逆に、そのような技を一人稽古で身に付けるのがかなり困難であるのならば、「型による空手」である武術空手には向いていない、と判断せざるを得ない。

 残念ながら、近代空手である「武術の平安」も、決して万人向きではないのである。

 以上、近代空手の伝授を受けるかどうかを決心するに際しての、一応の参考にしてもらえれば、と思う。

 *** 巷では「空手にとって型は必要か否か」という議論が起きて久しいようであるが、そこで言う「空手」が「現代空手」を指していることは明らかである。

 何故なら、巷で意見を述べている人達は「古伝空手」や「近代空手」については全く何も知らないからであり、従って、彼らが言う「空手」とは必然的に「現代空手」を意味するからだ。

 そして、それが「現代空手」を意味する限り、上記の問いの答えは、明確に「不要」なのである。即ち、本質的な意味では「現代空手にとって型は不要」なのだ。

 何故なら、以前「武術空手研究帳」でも論じたとおり、現代空手は「型不要の空手」として誕生したからであり、その結果、現在に残る「型」も、本来の武術の型ではなく、手順や動作の観点からも完全に変形・変質してしまった「武張った踊り」になってしまったからだ。

 (以上とは全く逆に、本稿で登場した「型による空手」という用語の場合には、そこで述べている「空手」とは、「武術空手(古伝空手や近代空手)」を意味しているのであって、「現代空手」を意味しているのではないことに、十分注意願いたい。)

武術空手研究帳・増補(18) - 完 (記:平成二十九年五月)

(=> 増補(19)「“真の分解”の発見法 - 琉球古伝棒術を例にして」へ進む)

*** プロフィール ***

プロフィール

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 長谷川光政

 昭和33年(1958年)、東京生まれ。

 中学生(12歳)の時に剛柔流の空手を習ったのが、空手との最初の出会い。

 それ以来、首里手系の空手や、フルコン系、防具系の各流派等でも空手を学ぶ。

 しかし、いくら修行をしても、どうしても既存の空手に納得がいかず、最終的には自分一人での研究・修行を続けることとなった。

 それから十五年以上が経過した四十歳台後半に至って、遂に、失伝していた古伝空手の核心的技術である「当破(アティファ)」を発見することに成功。

 それ以降は、その発見をきっかけに、古伝空手の型に関する様々な謎も解明出来るようになった。

 また同時に、糸洲安恒の創始した近代空手の代表型である平安(やナイファンチ初段~三段)についても、その謎を解き明かすことに成功した。

 現在では、琉球の古伝棒術等の研究も一通り終了しており、新たな発見等については、漸次、この「武術空手研究帳」の「増補」等を通じて公開発表していく予定である。

 東京大学教育学部体育学健康教育学科卒。