武術空手研究帳

武術空手研究帳・増補(6)「トンファーは武器ではない」

 [ 前回の増補(5)に続き、琉球古武術(琉球古伝武器術)について、その概略を論じる第二回目である。

 トンファーや古伝空手に関する貴重な情報の公開もあるので、心して読んでもらいたい。]

トンファーは武器ではない

 次は、ヌンチャクとトンファーについてである。

 ヌンチャクについては、紙幅の関係で簡単に結論だけを述べておくが、これは「農民の武具」だったのだ。(端的にその理由を述べるならば、まず、古伝空手家は、ヌンチャクのような加速度運動系の武器は好まないのであり、また、古伝空手家がヌンチャクほどの大きさの物を武器に採用したならば、当然、それを(木製ではなく)鉄製にしたはずだからだ。他に、マトモな型が伝承されていないこと等も理由に挙げることが出来るが、とりあえずは以上の理由だけでも十分であろう。)

 では次に、トンファーとは一体何であったのだろうか?

 現在、トンファーは「琉球古武術」の武器の一つと思われており、そのこと自体に疑問を持つ者は皆無と言っても良いであろう。

 しかし、私の研究の結論を述べるならば、「トンファーは武器ではなかった」のである。

 以下に、そのような結論に至った詳細を記すことにしよう。

 まず、トンファーが、古伝空手家が使用した武器であったならば、(上記のヌンチャクで述べた通り)それを「鉄」で作ったはずだ。

 武術家にとって「武器とは己が命を預ける道具」なのであり、よって、より頑丈で硬く一定以上の重さがあった方が良いのである。

 もちろん、六尺棒ほどの大きさであれば、(体格にもよるが、一般には)鉄製では重過ぎて扱い難くなってしまうだろうが、サイと同じ程度の大きさの武器であれば、当然、鉄製の方が良いに決まっているわけだ。

 だから、トンファーが木製である、という一点だけで、これは少なくとも古伝空手家の武器ではないことが分かるのである。

 トンファーには、さらなる問題もある。

 先述のように、サイは、本来は「順手持ち」が原則であったものが、「逆手持ち」が主に変形してしまったのだが、トンファーはどう考えてみても、「逆手持ち」専用の道具なのである。

 つまり、現在一般に採用されているトンファーの「逆手持ち」以外の持ち方を試してみても、どれも不合理なのだ。

 トンファーの構造は、本体は50cmほどの短棒なのだが、その短棒の端から十数cm辺りに取っ手が付いている。

 さて、普通はその取っ手を掴むわけだが、例えば、本体の端、つまり、取っ手の先の十数cm辺りを掴んだとしよう。これだと、丁度、取っ手が刀の「鍔」のようになるわけだが、こうした持ち方でトンファーを使うのならば、そもそも「順手持ち」で鉄製のサイを使った方が武器として優れているわけだ。

 では、本体の反対側を掴んだらどうか?そうすると、取っ手が「鎌の刃」のようになるわけだが、それならば、本物の「鎌」そのものを使った方が武器として優れていることになる。

 結局の所、色々試してみても、トンファーの持ち方には、現在採用されている「逆手持ち」しかあり得ないことになってしまうわけだ。

 しかし、そうすると、前回の「増補(5)」のサイの項目で述べたように、武器の一般則である「順手持ちが有利」に反することになってしまう。

 また、現在トンファーの攻撃法には、主に二種類あり、一つは「逆手持ち」のまま本体の端で突きを行う方法であり、もう一つは「逆手持ち」から握りを緩めてトンファーの本体を振り出して他方の端で打つ方法である。

 しかし、昔使われていたような骨董品のトンファーの形状を調べてみても、突きで使う本体の端は決して鋭くはなく、また、振り出して打つ他方の端も、決して打ち技に適したような重みのある形状にはなっていないのだ。

 結局、以上を総合すれば、トンファーという物は、武器としてはかなり不完全な代物であり、木製ということを考えれば、これもやはり「農民の武具」と見るべき物のように思えるのである。

 正直に言うと、これがかつての私の考えであった。つまり、トンファーとは「不完全な農民の武具」と思っていたわけである。

 ところが、その後、私は船越義珍の遺品の中にトンファーがあることを知ったのだ。(しかも、それは、木製の丸棒で出来た素朴な手作りのトンファーであった。)

 正直に言って、これには少し驚いた。

 しかし、その直後に、以前より抱いていた謎が一気に解けて、全てがストンと腑に落ちたのである。

 結論から言おう。

 トンファーとは、「武器」だったのではなく、古伝空手家の「稽古道具」だったのであり、有り体に言えば、「防具(小手)」だったのだ。

トンファーは木製の小手

 前回の「増補(5)」で述べたことだが、我が「B方式」の戦い方をするときでも、敵が「G方式」の戦い方で遠間から向かって来るときは、敵と最初に接触する場面あたりだけは、我もまた実質的に「G方式」のような戦い方になるわけである。(「B方式」「G方式」の戦い方については、「増補(1)」を参照願いたい。)

 つまり、武術空手(古伝空手・近代空手)は、現代空手とは異なり、「B方式」で戦う武術なのだが、それでも、敵が遠間から近づき打突技で掛かって来る場合には、初期接触(敵との最初の接触)の辺りでは、現代空手と同様な「G方式」的な戦いになるわけだ。

 とすると、武術空手の場合でも、敵の打突技を防御する「受け技」が重要になってくるのだが、さて、ここで私が疑問に思ったのが、次の点なのだ。

 それは、近代空手である「武術の平安」の「真の分解」には、一通り基本的な「受け技」が登場してくるのだが、古伝空手の型の「真の分解」には、「受け技」は、ほんの少しだけ、それも、かなり高度な上級者向けの「受け技」しか登場してこない点なのだ。

 この点が、私にとっての疑問であったのだが、船越の遺品の中にトンファーがあったことを知り、一気にこの疑問が解けたわけである。

 つまり、こういうことだ。

 敵が打突技で向かって来た場合の武術空手家の典型的な戦い方をある程度単純に定式化すると、まず、(1)敵の攻撃を受け、次に、(2)敵の(腕を掴むなどしながら)体を崩しつつ、打突技や取手技を掛けて、敵を制圧していく、という流れになる。

 この内、(2)の部分は、これこそが「型による空手」即ち「単独型(単独形)」で修行すべき部分なのである。(また、敵の腕等を掴む場面では、古伝空手の時代から存在するある「鍛錬法」を行っていると非常に有効なのだが、この鍛錬法については、拙著「武術の平安」の中で詳細に解説してある。)

 結局、問題は(1)なのであり、この部分については、ある程度以上慣れるまでは、敵を仮想しての一人稽古では無理なのであって、二人で行う対人稽古が不可欠なのだ。

 従って、古伝空手の世界では、こうした対人稽古で学ぶ「受け技」の訓練は、型とは別に、先生が弟子に対して特別に稽古をつけてやったのである。

 その際、現代空手の約束組手のように、先生と弟子がお互いに素手のままで、先生が攻撃し弟子が受ける、というような方法は採用しなかったのだ。

 何故なら、そのような方法を採用すると、通常、弟子の方が先に小手の痛みを訴えることになってしまい、満足な回数の稽古が出来なくなってしまうからだ。

 つまり、折角対人稽古が経験出来るチャンスなのであるから、敵の攻撃を見定める眼や、受けるタイミングの捉え方等の、主として感覚的・技能的な訓練を目的として、それなりに十分な回数の稽古をしたかったわけで、小手そのものの鍛錬などは、巻き藁等を使って別途自宅で一人で行えば良いからである。

 結局、以上の目的を達成するためには、弟子が簡便な小手を装着して稽古すれば良かったわけで、最終的にその対人稽古で採用された方法は、先生が棒で攻撃し、弟子が木製の小手で受ける、という稽古法だったのだ。

 その「木製の小手」こそが、トンファーだったのである。

 反撃(攻撃)は行わず、専ら受けることに徹する稽古だったのであるから、単なる「小手」であれば良かったわけで、だからこそ、トンファーが木製であったのも、また、トンファーは、逆手持ちに適するように作られており、かつ、攻撃に適した要素や工夫が見られなかったのも、うなずけるわけだ。

 それに、取っ手を掴めば直ぐに稽古が開始出来たわけで、装着に時間が掛からなかった点も大きなメリットだったのである。

 * 上記本文で、“最終的にその対人稽古で採用された方法は、先生が棒で攻撃し、弟子が木製の小手で受ける、という稽古法だったのだ”と述べたが、その稽古法が採用されたもう一つの理由としては、そうした稽古が「棒術」の役に立つ一面があったからなのだ。

 この事の詳細については、いずれ琉球の古伝棒術を公開するチャンスがあれば、その時に記そうかと思う。

これも古伝空手のDNA

 さて、「武術の平安」の伝授を受けた方は、その「真の分解」の中に、しっかりとした「受け技」が多数登場してくることは、もうご存知のことと思う。

 結論から言うと、それら「武術の平安」の「真の分解」に登場する各種の「受け技」こそが、古伝空手の時代に、トンファーの稽古を通じて伝授された基本の「受け技」そのものだったのである。

 というのは、これも拙著「武術の平安」の中で述べたことだが、糸洲安恒は、後に船越義珍が定めたいわゆる「松涛館七つの型」から「武術の平安」を創ったわけだが、その際、「松涛館七つの型」の「真の分解」の全ての技を詳細に検討して、必要な要素(DNA)は全て「武術の平安」に含めている。

 また他方で、古伝空手では使われなかった「倒木法(倒地法)」に関する技術は、古伝空手の中には存在しなかったことから糸洲が自分自身で開発したわけだが、それ以外には、自分が開発したような技術は、「武術の平安」の中にほとんど混入していないのである。

 つまり、「武術の平安」は、あくまで古伝空手を元にして創作したのであって、糸洲自身が創作した技術は必要最小限に止めようとしたわけだ。

 ただ、各種の基本的な「受け技」だけが、古伝空手の型の「真の分解」には全く登場して来ないにも関わらず、「武術の平安」の「真の分解」の中に唐突に現れるわけで、このことが、私にとって大きな謎だったのである。

 しかし、それらの「受け技」が、古伝空手の時代に、型とは別に、「受け技」専用の訓練であるトンファーの稽古を通じて指導されていた技術であったとすれば、全ての点で矛盾無く説明が付くことになるわけだ。

 何故なら、トンファーの稽古を通じて指導されていた各種の「受け技」というのは、間違いなく古伝空手のDNAそのものと言えるからだ。

 * この場を使って「武術の平安」の受講者に伝えておく。

 「武術の平安」の「真の分解」に登場する各種の「受け技」は、内小手を使う内受け以外は、全て外小手を使う系統の受け技と言える。よって、古伝空手の時代には、まず、内小手にトンファーを付けて内受けの稽古から開始したと思われる。拙著「武術の平安」のP.133に記した通り、内受けは最も応用・変化のバリエイションに富んでいる受け技だからだ。そして、その後は、外小手にトンファーを付けて各種の受け技を漸次稽古していったはずだ。(尚、平安初段・勝負形に登場する「両手を使う受け技」については、トンファーの場合には「片手それぞれの受け技」に分けて稽古していたはずだ。また、その内の「左手の受け技」については、トンファーの場合には外小手を使って受けていた、と理解すれば良いだろう。)

 糸洲が、こうした受け技を、型とは別の稽古にはせず、「武術の平安」の「真の分解」の中に含めたのは、軍隊では、型以外に別途トンファーを使って稽古等をする時間は無いからであり、また、二人で組んで受け技の稽古を行えば、同時に小手を鍛えることも出来て合理的、と考えたからと思われる。

 なお、敵の自由な活動を常に許しながら戦う戦闘方式である「G方式」の場合は、敵の次の瞬間の行動を正確に予想するのは困難であるため、敵を仮想しての一人稽古というのは、相当なレベルに上達するまで実行は不可能だが、上記本文で述べた「B方式」の戦い方の冒頭部分にすぎない「受け技」の稽古であるならば、要するに「受ける所だけ」を取り出した対人稽古なのであるから、ある程度慣れれば、あとは一人稽古も可能と言えよう。よって、「武術の平安」の稽古開始以前に、現代空手での組手経験等がある程度以上あるならば、最初から一人稽古で敵を仮想しながら「受け技」を訓練することも、決して不可能ではないと言える。

(古伝空手の時代でも、弟子が先生から直接にトンファーの稽古を付けて貰えたのは、奥伝以前の段階、即ち、初伝から中伝までの間だったはずだ。奥伝では上級型の「真の分解」等も習得していくのであるから、基本的な受け技などは、理想を言えば初伝終了までに、平均的には中伝の前期までに、最悪遅くとも中伝終了までには、一通り身に付けておく必要があったからだ。だから、古伝空手家達も、遅くとも奥伝以降は、こうした基本の受け技の稽古も、当然ながら「敵を仮想しての一人稽古」で行ったわけである。)

船越義珍

 以上から分かる通り、私が拙著「武術の平安」の中で公開した各種の「受け技」というのは、古伝空手家であった松村宗棍や、安里安恒、糸洲安恒、それに、屋部憲通、花城長茂、船越義珍、本部朝基、喜屋武朝徳等々が、トンファーという防具を使って実際に稽古した古伝空手の「受け技」と同様の技術だったわけである。

 この点で、船越義珍について改めて考えてみると、船越には二つの顔があったわけだが、その一つである「古伝空手家」としては、私は船越を高く評価している。残っている各種の記録を見ても、彼の技量が卓越していたことがはっきりと分かるからだ。

 これに対し、「現代空手の創始者」としての船越義珍については、正直に言って私はほとんど評価していない。端的に理由を述べれば、既述の如く、現代空手は「未完成の試作品的体系」にすぎないからだ。

 しかし、そんな「現代空手の父」である船越ではあるが、同情する余地もある。

 何しろ、古伝空手や近代空手の秘密は一切公開出来なかったわけだし、また、当時、船越は、講道館の嘉納治五郎から庇護を受けており、その立場上からも、現代空手に「取手技」系統の技術を入れるわけにはいかず、現代空手を「打突技」の武道として構築しなければならなかったからだ。

 ただ、私としては、以前より、「攻撃技ならともかく、せめて受け技については、武術の平安に登場する近代空手の受け技くらいは、現代空手の中に残しても良かったのではないか?」と考えていた。現代空手の「受け技」というのは、あまりにもお粗末で実用に耐えないからだ。

 しかし、今回、その「武術の平安に登場する近代空手の受け技」は、何と「古伝空手の受け技」そのものであることが判明したわけで、そうであるならば、やはり船越がこれらの「受け技」を現代空手の中に残すことが出来なかったのも仕方がないことだ、と考えるに至った次第である。

 * そもそも武器ではなかったトンファーが、一体何故、武器と誤解されるようになったのであろうか?

 思うに、空手近代化以降、誰か若者が、トンファーを見て、その使用法を古伝空手家に質問したのであろう。古伝空手家としては、古伝空手の秘密を細かく話すつもりは毛頭無かったはずで、結局、「棒で攻撃してくるのを、例えば、トンファーをこのように逆手で持って、受けたりしたものだ」などと簡略に答えたのであろう。確かに、それはその通りで、決してウソを述べたわけでは無かったのだが、それを聞いた若者は、その説明から、トンファーを「武器」と思い込んでしまった、と思われるのである。

 ** 前回の「増補(5)」では、サイ術の型で「逆手持ち」が主流となっている現状を批判したが、サイ術で「逆手持ち」が始まったそもそもの経緯については触れていなかったので、この場を借りて簡略に補足しておくことにしよう。

 「増補(5)」で述べたように、「空手と琉球古武術は車の両輪」という創作された格言に合わせる形で、現代空手の「基本技(受け技)」に相当する、琉球古武術の「基本技(受け技)」が作られた、のであった。その理由は、もし「車の両輪」と呼べる程の密接な関係が両者の間にあるのならば、現代空手の「基本技」と琉球古武術の「基本技」とが、動作的に似ていなければならないからである。

 ただ、突き技については、現代空手の正拳突きであろうと、琉球古武術のどの武器術のどのような突き技であろうと、とにかく「腕を伸ばして前方を突く動作」という点では共通しているのであるから、ここで特に必要になったのは、「受け技」の動作の類似性なのであった。

 その際、トンファーは、本来「逆手持ち」で使用する「防具(小手)」だったために、当然のことながら、現代空手の小手を使う基本の「受け技」とも非常に相性が良かったわけだ。だから、まず最初に、トンファー術の基本の「受け技」というものが、現代空手の基本の「受け技」とほとんど同様な動作として作られたのである。

 そして、サイ術の基本の「受け技」というのは、このトンファー術の基本の「受け技」を手本として、それをそのままなぞるような形で制定されたのだ。そうすれば、トンファー術のみならず、サイ術もまた、現代空手と「車の両輪」の関係になってくれるからである。

 かくて、サイの「逆手持ち」が誕生したわけなのだ。

 *** 一昔以上前のことだが、米国の警察でトンファーの形状をした警棒(バトン)が流行ったことがある。だが結局は、使い勝手が悪いために、廃れてしまったようだ。

 この点につき、現代空手家の一般的な反応は、警官の稽古時間が不足していたために、トンファーを使いこなせなかったのであろう、というような解釈であったと記憶している。

 しかし、もうお分かりの通り、そもそもトンファーは武器ではないのであるから、ナイフ等の武器を持った暴漢等と真剣に戦わねばならない警察官達にトンファーが受け入れられなかったのは、至極当然のことだったわけである。

 **** 「浜比嘉のトンファー」という型があるが、もうお分かりの通り、これは贋作(ニセモノ)の型である。

 一番の理由は、トンファーは武器ではなかったのだから、型が存在したはずが無いからである。

 さらに、この型の動作を見ても、「上段揚げ受け」が頻繁に登場する点などは、この型が現代空手家によって作られたことを物語っているが、さらには、トンファーをクルクル回転させるという非武術的なパフォーマンス的動作が目立つのも、贋作の理由に挙げられる。

 何故なら、トンファーをクルクル回転させようとしても、現実には、トンファーが敵の体に当たった所で回転は止まってしまうのである。しかるに、この型では、やたらにトンファーをクルクル回転させているわけで、ということは、この型の製作者は敵の体を完全に無視して型を作っており、従って、まっとうな武術の型でないことは、この点からも明らかだからだ。

武術空手研究帳・増補(6) - 完 (記:平成二十七年十二月)

(=> 増補(7)「一歩と二歩のパッサイ」へ進む)

*** プロフィール ***

プロフィール

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 長谷川光政

 昭和33年(1958年)、東京生まれ。

 中学生(12歳)の時に剛柔流の空手を習ったのが、空手との最初の出会い。

 それ以来、首里手系の空手や、フルコン系、防具系の各流派等でも空手を学ぶ。

 しかし、いくら修行をしても、どうしても既存の空手に納得がいかず、最終的には自分一人での研究・修行を続けることとなった。

 それから十五年以上が経過した四十歳台後半に至って、遂に、失伝していた古伝空手の核心的技術である「当破(アティファ)」を発見することに成功。

 それ以降は、その発見をきっかけに、古伝空手の型に関する様々な謎も解明出来るようになった。

 また同時に、糸洲安恒の創始した近代空手の代表型である平安(やナイファンチ初段~三段)についても、その謎を解き明かすことに成功した。

 現在では、琉球の古伝棒術等の研究も一通り終了しており、新たな発見等については、漸次、この「武術空手研究帳」の「増補」等を通じて公開発表していく予定である。

 東京大学教育学部体育学健康教育学科卒。