武術空手研究帳・増補(10)- 「大間違いの鍛錬法」
[ 武術・武道界には、とんでもなく間違っていることが、ごく平然と存在したりしている。
以前「増補(1)の第5回」でも取り上げたように、いわゆる抜刀術の多くは似非剣術であるし、また、例えば「増補(6)」で取り上げたように、トンファーは武器ではなかったのである。それでも、両者は、剣術あるいは武器として、現在でも稽古されているわけだ。
全く唖然とする他はないが、今回は、ある剣術流儀を取り上げて、そこで行われている個性的な鍛錬法について論評してみたい。]
立木打ち
今回取り上げる剣術流儀は、古伝空手とも多少の縁のある流儀なのだが、あえて名前は挙げないでおこう。
名称がなくとも、どの流儀か、大抵の人には分かってしまうであろうが、そこは武士の情けということで、あえて名指しは避けることにする。
さて、その流儀であるが、昔は兄弟流派も結構あったらしいが、現在では本家と分家のような関係の二流儀が同一県内を中心に残っており、今回取り上げるのは、その内の分家に相当する方の流儀である。
これらの二流儀では、共に「立木打ち」と称する鍛錬法を行っているのだが、本家の方はその言葉通りの鍛錬法なのであり、2メートル強ほどの丸太を70センチほど垂直に地中に埋め込み、その「立木」に向かって木刀を袈裟や逆袈裟に打ち込むのであり、打ち込む高さは自身の肩から水月くらいの高さなのである。
これに対して、分家の方では、名称は同じ「立木打ち」であっても、使う道具は「横木」なのだ。
「横木」とは、細長い木の枝を十数本束ねたもので、これを膝の高さに横たえて、それに木刀を打ち込むのである。
なお以下では、混同を避けるために、この分家の流儀で行われている「立木打ち」の方は、「横木打ち」と呼ぶことにする。
奇妙な点
素朴に考えても簡単に分かることだが、本家の鍛錬法、即ち「立木打ち」というのは、敵の肩口から胴体にかけて、鋭い袈裟(逆袈裟)斬りを行うための鍛錬法であることが容易に分かる。
「立木」を敵の体と見なして、その首の付け根辺りから胴体内部に深く斬り込む威力を養っているのが、良く分かるからだ。
それに対して、分家の流儀の方の「横木打ち」というのは、いささか以上に奇妙な鍛錬法なのである。
まず、「横木」自体が膝の高さにある点。まさか寝っころがっている敵を斬る訓練をしているわけでもないであろうに、何故に「膝」の高さに「横木」があるのか、まずこの点が奇妙なのである。
次に、この「横木打ち」では、自分と同じ身長の敵が前方で二本足で立ってこちらに向いて構えていると想定し、その首の付け根辺りから胴体へと斬り込んでいく点では、本家の流儀と全く同じなのである。つまり、この「横木打ち」の最中でも、目は決して「横木」は見ずに、前方水平方向にある仮想敵の目に視線を注ぎ続けるのだ。しかし、その仮想敵の首のあたりには、空気以外には何も物体は存在しないのであって、この袈裟斬り自体は、あくまで「エアー袈裟斬り」なのである。これが、奇妙な第二点なのだ。
最後に、この分家の流儀では、刀の打ち込みに際しては「地軸の底まで叩き斬れ」というように教えており、従って、他流の剣術とは異なり、素振りの際には勢い余って木刀の先が地面に当たってしまうこともあり得るような流儀なのだが、この「横木打ち」では、木刀の先が地面に当たる少し前に、木刀が「横木」に当たる形で動きが止まるようになっている。しかし、どうせ手に衝撃を受ける点では同じなのであるから、何もわざわざ「横木」などは作らずに、地面を叩いて木刀が止まる方式の方が、丁度上記の教え通りだし、より簡単で良いのではないか?何故、あえて「横木」をそこに置き、木刀が地面に当たる前にその動きを止めようとしたのか?これが奇妙な第三の点なのだ。
「打撃力を高めるための鍛錬法」ではない
さて、この分家の流儀は、現在幾つかの団体に分かれているようだが、稽古内容は基本的に同じであり、どの団体でも、上記の「横木打ち」を中心に稽古体系が作られているようだ。
つまり、各種の技等が、膝の高さにある「横木」を打つという鍛錬法と、一応の整合性を持つかのように、それなりの体系が組まれているわけだ。
しかし、その「横木打ち」に合わせた技術体系というのをつぶさに検討してみると、色々と問題点が浮かび上がって来る。つまり、現在のこの流儀は、「横木打ち」に合わせる技術体系を構築したがために、本来のこの流儀からは「変形」してしまっているのだ。
もっとも、本稿でその「変形」の詳細を語るのは、紙幅の関係等でおよそ不可能である。
よって、ここではあくまで「横木打ち」の一点に絞って、その問題点を指摘するに止めたい。
さて、およそ打撃系の技の威力を向上させるための鍛錬法であるならば、敵の体に見立てた「何らかの物体」を直接打撃するのが、最も簡単かつ効果的な鍛錬法なのである。
現代空手であれば、例えば「サンドバッグ」があるが、これも人体の代わりに存在しているのであり、その人体に見立てた「サンドバッグ」に向かって、突きや蹴りを発するわけだ。
この点からすれば、繰り返しになるが、本家の流儀の「立木打ち」は誠に理解しやすいし、合理的な鍛錬法であることが容易に分かる。
これに対して、分家の流儀での「横木打ち」というのは、明らかに変である。
上記の奇妙な三点の内、最も理解しがたいのは第二点の所である。つまり、本家の流儀と同様に袈裟斬り等を鍛えているのならば、何故敵の首や胴体に相当する所に何らかの「打ち込むべき物体」が存在しないのか、この点こそが決定的にオカシイのである。
つまり、現在この分家の流儀を修行している人達は、この「横木打ち」を、“打撃力を高めるための鍛錬法”だと漠然と思い込んでいるようだが、それは大きな間違いで、この「横木打ち」というのは、どう考えてみても“打撃力を高めるための鍛錬法”ではない、ということが、この第二点からはっきりと分かるのだ。
では一体、この「横木打ち」とは、何であったのだろうか?
「横木打ち」の真実
ここまで述べたところで、さて、読者は如何に考えるであろうか?
そもそも、ほとんどの読者は、いままで「横木打ち」の奇妙さなどには気が付かなかったのではないだろうか?
本稿を読んで、初めて「横木打ち」について考えさせられた、と言う人も多いことと推量する。
さて、本稿は読者の頭の体操を行うために執筆したのではないのだから、もうそろそろ結論を出そうかと思う。
この分家の流儀で行われている「横木打ち」という鍛錬法は、確かにこの流儀において江戸時代にも存在していた稽古法なのではあるが、これは「子供専用」の稽古法だったのである。しかも、使用する横木の本数も、現在ほど多くは無かったのだ。
日本では、江戸時代でも、どの藩においても子供の教育には熱心であったが、これらの本家・分家の両流儀が生まれた藩においても、子供、特に士族の子供の教育は実に熱心に行われていた。特に、精神面での躾は厳しく、幼い頃から徹底して鍛えられていたのである。
これに対して、昔の人は、身体の面では大人と子供はかなり厳格に区別していたのも、また事実なのである。
つまり、精神面では非常に厳しくしても、肉体面では、子供の特性や未だ成長過程にあることへの配慮等をしっかりと行っていたのだ。
さて、そういう環境下で、この分家の流儀も子供達に教えられていたわけで、要するに、精神的には厳しく、しかし、肉体的には、子供への配慮を欠かさない稽古法、というのが実践されていたわけだ。
するとどうなるか?
まず、大人の場合には、この分家の流儀の鍛錬法も、本家同様に「立木打ち」をしていたのだ。ここで言っているのは、まさに言葉通りの「立木打ち」なのであって、地面から垂直に立っている「立木」を打って、打撃力を鍛えたのである。袈裟打ちや逆袈裟打ちの威力を増大させたければ、この「立木打ち」が最も簡単で効果的な鍛錬法だったからであり、かつ、これ以外に適当な方法が存在しなかったからでもある。
しかし、子供達にそれをやらせるわけにはいかなかったのだ。
理由は簡単で、手(の骨や関節)を傷めるからである。
子供であってみれば、「立木」の打ち方自体も上手く出来ないおそれもあるし、仮に上手く打てても、未だ成長途上の未熟な手の構造であれば、日々何度も「立木打ち」を繰り返していたら、その内、痛みで木刀すら掴めなくなり、さらには手の機能障害を起こしかねないのである。
昔の人は、「親からもらった大切な体」とよく言っていたもので、武術の鍛錬で体を壊してしまっては、忠孝の道に励むことすら出来なくなり、何のための修行か、訳が分からなくなってしまうわけだ。
従って、子供達には、本物の「立木打ち」はやらせずに、いわゆる「エアー立木打ち」をやらせたのである。
これなら、手の怪我や機能障害の心配は無いからだ。
しかし、困ったことが起きた。
それは、他の流儀ならば、素振りと言えば木刀の切っ先がヘソの高さくらいに落ちてきたあたりで斬り込みも終了であるが、なにせこの分家の流儀では、先述のように「地軸の底まで叩き斬れ」と教えているわけだ。
そして、この教えは、この流儀の「精神」に直接関わる教えでもあったため、例え子供であっても守らせる必要があったし、むしろ、子供の内にこそ、しっかりと叩き込む必要があることだったのだ。
だが、そうすると、折角「エアー立木打ち」を採用したのにも関わらず、子供達は木刀の切っ先を地面に打ち込んでしまうわけだ。
これでは結局、手を傷めてしまうわけで、「エアー立木打ち」を採用した意味が根本から無くなってしまう。
そこで考え出されたのが、木刀の先が地面に当たる少し前に、木刀の動きを止める装置だったのだ。
木刀の動きを止める、と言っても、硬い物に木刀が当たるのでは何ら意味が無い。子供達の手を害さないように、やんわりとクッションのような物で木刀の打撃を止める必要があったわけだ。
現在であれば、スポンジやら、自転車タイヤのチューブとか、色々な素材がありうるが、当時であれば、野ざらし雨ざらしの状態でも簡単には劣化しない物としては、まず最初は「竹」などが候補に挙がったことと思われる。しかし、竹では弱すぎて、子供達の打撃でも、直ぐに折れてしまったことであろう。
そこで考え出されたのが、木刀と基本的に同じ材質の細くて長い枝、だったわけだ。これを膝の高さくらいに横たえておいてやれば、子供達の「エアー立木打ち」の打ち込みを、クッションのように受け止めてくれたのである。
さらに、この流儀では、身体を鍛えるのみならず、敵を殲滅するための精神を鍛えるためにも、ひと呼吸で五回から十回くらいの打ち込みをさせたのだが、やはりそれは子供達には体力的に厳しかったのだ。
特に、木刀を思い切り振り下ろした直後の「振り上げ」の時が、未だ身体の発達が不十分な子供達にとっては、かなりキツイ動作だったのである。
その点でも、この「横木」は役に立ったのだ。つまり、子供達の打撃をやんわりと受け止めただけではなく、今度はバネの如くに木刀に反発力を与えて上に押し上げる手助けをしたのだ。
かくて、この「横木打ち」と言う稽古法が誕生したわけである。
要するに、この流儀の「横木打ち」というのは、「子供専用」の稽古法なのであり、使う「横木」の本数も、現在のような十数本ではなく、バネのような役割をするのに十分な“一本から数本程度の本数”だったのだ。(小さな子供の場合には最初は一本から始めて、その後、日数が経過するにつれて一本では打撃に耐えられなくなりそうになったら、今度は二本にする等、横木の本数も慎重に増加させていったと思われる。)
だから、この流儀ではこの鍛錬法を「横木打ち」ではなく「立木打ち」と呼ぶのである。それは、決して「横木」その物を打っているのではないからであり、実質は「エアー」であるとは言え本質的には「立木打ち」だからだ。
また、この流儀では、この「横木」のことを「助木」とも呼んでいるようだが、まさにこの「横木」は子供達の打ち込みを助ける「助木」そのものなのである。
抜刀技
お分かり頂けたであろうか?
以上が「横木打ち」の真実なのである。
この分家の流儀は、かなり以前に失伝してしまったようで、その後、この流儀を知る人によって復元されたらしいが、その復元に携わった人は、「子供の頃」にこの流儀を習ったことがある人だったようだ。
だから、本来は「子供専用」だった「横木打ち」という稽古法を、そうとは知らずに、大人達もこの方法で稽古していた、と思い込み、「横木」の本数も大人向けにと大幅に増やして弟子達に伝えてしまったようだ。
ところで、この流儀には現在「抜即斬」と称する「抜刀技」も伝わっているが、それも又、どう見てもマトモな技ではないのである。
そこで、ついでなので、その「抜刀技」についてもここで批評しておこう。
まずは、その「抜刀技」について簡単に紹介しておくと、帯に差している刀の鞘をグルリと回し刃を下向きにしてから抜刀するのだが、敵の股から上に向かって斬り上げるのだ。
さて、以前「増補(1)の第5回」で述べたように、切っ先を前方に飛ばすようないわゆる「抜刀術」というのは、例外的に剣術流儀の中に正式に含まれていた可能性もあったわけだが、現存する多くのそれらは、明治から昭和初期にかけて創作された似非剣術なのである。
従って、この流儀の「抜刀技」というのも、本家の流儀には抜刀技が無い点から見ても、元々からこの流儀に含まれていた技ではない可能性の方が高いわけであり、よって、何か一点だけでも本来この流儀の技ではないという証拠が発見出来さえすれば、それだけで、この流儀の「抜刀技」は明治から昭和初期にかけて創作され挿入された技である、と断言出来るわけである。
では、何かそういう証拠は存在するのであろうか?
存在する。
この流儀の「抜刀技」は、この流儀の他の技等と、全くと言って良いほど整合性がない点が指摘出来るのである。
この流儀は、他流より長くて重い刀を使用するのだが、その長大な剣を両手でしっかりと操り、斬撃の際には身を沈めながら(つまり「倒地法」を使いながら)、「地軸の底まで叩き斬る」というような勢いで、強烈な斬り下ろしの一撃を敵に与える、という技術体系を持っている。
それに対して、この流儀の「抜刀技」というのは、その長大な刀を、片手一本で、しかも重力に逆らいながら斬り上げることで敵を倒す、というものなのである。
つまり、もうお分かりのように、この「抜刀技」というのは、この流儀の技術の根本思想に明らかに「矛盾」する技術なのだ。
現代の武道界等では、気軽に新しい「流儀」などが誕生していることから、上記のような技術上の「矛盾」には鈍感な人も多いのであろうが、本来武術の世界では、一つの統一性ある技術体系を生み出せなければ新しい流儀など創始出来ないのであり、そこに技術上の「矛盾」などは決して存在してはならないのである。
例えば、私が復元した糸洲安恒創始の「武術の平安」を見ると、「倒木法(倒地法)」が徹底的に活用されており、そこには一片の例外すら無いほどなのである。
これこそが、真っ当な「流儀」というものの姿なのだ。
だから、この流儀の「抜刀技」というのは、明らかにこの流儀の技術体系と「矛盾」している以上、それは明治から昭和初期にかけて創作され挿入された技に間違いはないのである。
しかし、たった一つの証拠だけで「明治期以降に創作され挿入された技」と断定されたのでは、この流儀の人達も今一つ納得がいかないかも知れないので、次項以降では、もっと詳細にこの「抜刀技」を分析してみることにしよう。
太刀の方式
さて、この流儀の「抜刀技」だが、実際にやってみると非常にやりにくいことが分かるのである。
帯の中で刀の鞘をグルリと回す、と言っても、江戸時代の武士の如くにしっかりと帯を締めると、そう簡単に鞘をグルリと回すことは出来ない。
だが、以上の点を別にしても、まず、普通に刀を帯に差すと、当たり前のことだが、刀の鯉口は帯より高い位置に来るわけだ。
しかるに、この「抜刀技」では、前方の敵の股を上に向かって斬り上げねばならないのである。
だから、非常にやりにくいわけだ。
こう述べただけでは良く分からない人達のために、では、もう少し詳しく解説してみよう。
そもそも一般的に言って抜刀技というのは、片手技なのであり、刀の切っ先が鯉口を離れる頃には、右腕(右肘)はほとんど伸びており、従って、その直後に切っ先を前方に飛ばして敵を斬る時は、右肘が伸びる力も少しは使うが、大部分は右手首の締めによって、切っ先を飛ばすわけである。
よって、通常の水平に近く刀を抜く抜刀技の場合には、刀を鞘の中で走らせたその勢いをそのまま利用して、切っ先を前方に飛ばすわけだ。そうしないと、手首に掛かる負担が半端では無いことになってしまい、満足な斬撃が出来ないからである。
さて、この流儀の「抜刀技」であるが、敵が我と同じ身長と仮定してみると、帯より高い位置にある鯉口から斜め上に向かって刀を抜き、それから、その鯉口よりもずっと低い位置に刀の切っ先を運んで、そこから敵の股を斬り上げることになるわけで、どう考えても極めてやりにくい技なのである。つまり、この「抜刀技」では、上述した“刀を鞘の中で走らせたその勢いをそのまま利用して”という技法が、非常に使いにくいわけだ。
結局のところ、この流儀の修行者達は、このやりにくい「抜刀技」を何とか実行するために、様々な工夫(や誤魔化し)を行うことになるわけである。そうでもしなければ、マトモに抜刀出来ないからだ。
では、どんな工夫(や誤魔化し)があるのか、というと、かなり身を沈めて極端な前傾姿勢を取ることで鯉口の位置を出来るだけ低くしながら抜刀している点では皆共通しているのだが、それ以外は、例えば、柔道の帯のようなものをゆるく腰に巻いて、それに木刀を差してこの「抜刀技」を稽古してみたり、あるいは、居合刀を最初から刃を下向きにして水平に近い角度で帯に差しておいて、その状態から抜刀してみたり、等々の様々なことをしているわけである。
繰り返すが、そうでもしなければ、この「抜刀技」は満足に行い得ないからそうしているのだが、残念ながら、そのような帯や帯刀の仕方というのは、全て江戸時代には有り得ない方式なのだ・・・
さて、ここまで解説すれば、いい加減気付いて欲しいものであるが、要するに、この流儀の「抜刀技」というのは、江戸時代の武士の普通の帯刀方式である「打刀」方式、即ち、刃を上向きにして刀を帯に差す方式から実行するには、極めてやりにくい技術、ということが分かるのだ。
つまり、前方の敵の股に向かって上向きに斬り上げる、ということは、前述の通り、抜刀した刀の切っ先を、いったん敵の股より下方に運んで、そこから一気に上に向かって斬り上げねばならないわけで、そうすると、「打刀」方式、即ち、柄が斜め上を向いた状態で刀が腰にほぼ固定されており、鯉口が腰(帯)より高く、そして刃が上向き、という江戸時代の武士の標準的な帯刀方式には、基本的に馴染まない「抜刀技」ということになるのである。
では、この「抜刀技」は、如何なる刀の保持方式に馴染むのであろうか?
答えは、「打刀」方式とは基本的に逆の方式、即ち、鯉口の位置が腰(帯)よりずっと低く、刃が下向きで、刀はある程度自由に動かせるような刀の保持方式に、馴染むのである。
では、そうした刀の保持方式とは何か、と言えば、「太刀」方式ということになるのだ。
即ち、刀を、刃を下向きにして、腰から吊るす方式のことである。
この流儀の「抜刀技」は、明らかに、この「太刀」方式から生み出された技術に間違いないのだ。
* 最近では、江戸時代の武士の帯刀の仕方にも色々あったような解説も散見される。それぞれにもっともらしいネーミングもなされているようだ。しかし、似非剣術である抜刀術を、江戸時代から存在する本物の剣術、と誤解している人達が、最近になって生み出して命名した帯刀の仕方なども存在するので、十分に注意してもらいたいと思う。
結局、同じ結論
さて、この流儀の「抜刀技」が、「太刀」方式から生み出されたということが分かれば、この「抜刀技」が生まれた時期も、ザックリ言って、江戸時代ではなく、その前か後ということになる。
では、江戸時代の前、つまり、戦国時代などに生まれたのであろうか?
確かに、戦国時代には「太刀」方式の刀の保持もあったし、また、当時の戦の乱戦時には、しばしば「抜刀技」も使われたようだ。
しかし、もしそうだとすれば、この流儀の創始者達はトンデモない過ちをダブルで犯したことになってしまう。
1)まず、この流儀は、先述のように、長大な刀を両手で操り、しかも、「倒地法」を使って威力を増大させる斬り下ろしの剛剣、という技術原理で運用されているのだから、この「抜刀技」が戦国時代以前に生まれていて、それをこの流儀にそのまま取り入れたとすると、この流儀の創始者達は、この流儀の根本的な技術原理と完全に「矛盾」する技法を、平然と流儀の内部に正当な技術として入れたことになってしまう。
2)次に、この「抜刀技」は「太刀」方式に馴染む技術に他ならないわけだが、これをそのまま、今現在この流儀で行われているように「打刀」方式での技法として取り入れたとすると、この流儀の創始者達は、刀の保持方式の変化による技法の変化については、全く無関心・無頓着だったことになるが、これでは剣術家として、あまりにも愚かなレベルと評さざるを得ない。
つまるところ、以上から言えることは、この「抜刀技」が考案されたのは、江戸時代の後、つまり「明治期以降」ということになるわけで、前々項で述べたことと、結局、同じ結論になるのである。
では改めて、この「抜刀技」は、如何にして誕生したのであろうか?
もちろん、具体的な詳細については不明だが、明治期以降で刀を「太刀」方式で佩いていたと言えば、旧帝国陸海軍での軍刀くらいしか思いつかない。
結局のところ、前述のように、この流儀は一度失伝していたものが復元されたわけだが、その復元した人物自身かその知人が、「太刀方式の軍刀を使った斬り上げ技法の抜刀技」を開発し、それがそのままこの流儀の中に打刀方式として取り入れられたのだと思われる。
* この流儀を修行している人の中には、中村半次郎が右側通行をしながらこの「抜刀技」で幕末期に暗殺をしたかのような意見を述べている人もいるようだが、上記本文で見たように、そもそもこの「抜刀技」は幕末には無かった技なのであり、また、「増補(8)」で記した通り当時武士は左側通行であり、日本武術では(中国武術とは異なり)暗殺術などはその技術体系には含めておらず、中村半次郎の暗殺術は彼が独自の発想に基づき独学で身につけたもので、その鍛錬法や実技については、私が「増補(1)の第6回」に記したとおりなのである。
子供は日本の宝
以上、本稿ではこの分家の流儀独特の鍛錬法(や抜刀技)について私見を述べたわけだが、私ごときが何か発言した程度で、この流儀の諸団体がこの鍛錬法を即座に止めるとは思っていない。
仮にこの論稿を読んだところで、これからも、その間違った「横木打ち」は続けられるのであろう。
ただ、その鍛錬法を継続していったら、行き着く先は手の機能障害であることは覚悟しておいた方が良い。
その「横木打ち」というのは、本家の流儀で行われている「立木打ち」のようにかなり「斜め」に立木を打つのではなく、硬い「横木」に対して「垂直」に木刀を叩き付けているわけであるから、かなりの衝撃が直接手に返って来るのであってほぼ逃げ場がない。
それを毎日のように、何回も繰り返していたら、いずれ将来的には手が満足に機能しなくなる。
昔の武術家は、こうしたことには非常に敏感だったのであり、例えば私が復元した「古伝空手」を詳細に検討してみても、修行者の身体に機能障害を起こしそうな鍛錬や動作は全く存在しないのだ。
強いて言えば、唯一例外とも言えるのが「肘」なのであり、「肘」に対してだけはそれなりの衝撃が発生するようにはなっているが、「肘」は正しく鍛錬すればこの衝撃に打ち勝てる部位なのであり、しかも、そうした「肘」の鍛錬法までしっかりと残っているのである。
ことほど左様に、昔の「本物の武術」というのは、修行者の体のことを良く考えており、良い意味で体に優しかったのだ。
従って、その意味でも、本稿で取り上げている剣術流儀の創始者達が、そのような“自らの手を破壊してしまうような鍛錬法”などを考案したはずがないのである。
そこで、その流儀の現在の指導者達には、最低限これだけはお願いしたい。
大人が、自身が選択した行動によって自身の手を傷めても、ある意味で自己責任ではあろうが、せめて、子供達にやらせるのだけはやめてもらいたいと思う。
子供は日本の宝である。
この流儀の団体の中には、子供に対してこの固い「横木打ち」をやらせている所もあるようだが、現代ならではのもっと柔らかい素材等に変更するか、あるいは、この流儀本来の「横木打ち」に戻って弾力のある一本から数本の横木に変更することを、強くお願いする次第である。
武術空手研究帳・増補(10) - 完 (記:平成二十八年八月)