武術空手研究帳

武術空手研究帳・増補(16)- 宮本武蔵の戦い方(武蔵は何故、木刀で戦ったのか?)- 前編: 決闘、吉岡兄弟

 [ 宮本武蔵ほど有名な剣術家は、他にはいないであろう。彼に関する著述は数え切れないほどあり、また、彼に関係する様々なことにも諸説が入り乱れている現状である。

 ただ、私が興味を持っているのは、彼の剣術の「戦い方」の本質的な部分なのであり、その点に関して、今までに考察してきたことを、一度しっかりとまとめておきたいと思うのである。

 本稿では「前編」として、吉岡兄弟との決闘までを取り上げることにする。]

武蔵にまつわる「謎」

 私が幼少の頃より憧れていた武術家の一人に「宮本武蔵」がいた。

 小学生の頃、親に買ってもらった武蔵の伝記の本を何度も読み返していたことを思い出す。

 その後長ずるに及んで、武蔵に関する他の本も色々と読んでみたのだが、どうしても答えが出ない疑問が幾つかあった。

 まず、歴史に残る他の剣術家は、大抵、誰に何を習ったのか、という点がはっきりとしているのだが、武蔵の場合は、幼少期に父(養父との説もあり)であった無二(斎)から「十手」と称する剣術を中心に武術を習った以外は、どうやら他に師と呼べるほどの人物がいなかったようなのだ。

 つまり、武蔵は、初期の頃の稽古を別にすれば、ほとんど独学で剣術を習得したことになるわけだが、では一体どのようにして一人で剣術の腕を磨くことが出来たのか?

 これが第一の疑問だったのである。

 次の疑問は、武蔵は二十九歳までに、吉岡清十郎や、その弟の伝七郎、そして、巌流(岩流)・佐々木小次郎と決闘をしたことになっているが、そのどれもで「木刀」を使って勝負に臨んでいるのだ(伝七郎との勝負では、伝七郎の木刀を奪った上で、その木刀で伝七郎を撲殺しているが)。

 常識で考えて、真剣と木刀では、圧倒的に真剣の方が有利と思うのだが、武蔵は何故あえて木刀で戦ったのか?

 これがまた不可解な謎だったわけである。

 そして最後の疑問は、武蔵は最終的には「二天一流」という二刀の流儀を確立したのだが、二十九歳までの上記の三人との決闘では、(二刀ではなく)一刀で戦っているのだ。

 これは一体どうしてなのか、という点もまた謎だったわけである。

 武蔵に関しては、残っている資料同士で矛盾する点も多いため、様々な文献を使って考察していくと収拾がつかなくなってしまう。

 そこで、本稿では、武蔵の死後九年目に彼の養子の伊織によって作成された「小倉碑文(こくらひぶん)」を主に読み解くことで、以上の疑問に答えてみたい。

 もう一度言うが、私が明らかにしたいのは、「(特に若い時の)宮本武蔵の剣術の戦い方の本質的な特徴」なのであって、片々たる現象的な事実をあれこれ取り上げることではない。その点、誤解なきように願いたい。

 * 本稿では、「小倉碑文」を主に使用し、後は「五輪の書」を少しばかり参考にしたわけだが、それらを使用した理由について、ここで補足的に述べておこう。

 武蔵に関しては様々な資料が取りざたされるが、やはりこの二つが最も信頼のおける資料と思われる、というのが最大の理由である。

 まず「五輪の書」から言うと、これは何と言っても武蔵自身が執筆した書物だから、というのが決定的な理由となろう。内容から言っても、十分に武蔵が書いたものに間違いないと判断出来る書物である。

 もちろん、後世の者による加筆等が無かったか等々、留意すべき点があることは確かだ。

 しかし、そうした点についてしっかりと考慮がなされておれば、武蔵について考える際の極めて重要な資料になるわけである。

 次に「小倉碑文」だが、これは武蔵の死後僅か九年後に碑文として石に刻まれる形で公開された点に、この資料の信憑性の高さがうかがわれるのだ。

 もしこれが、武蔵の死後からかなりの時を経て建てられたのならば、事実関係にも疑義が生じるおそれもあったわけだが、死後わずかに九年であれば、かなりの正確さが期待出来るのである。

 さらに、これが「碑文」として「公開」された点も、また重要な事なのだ。

 武蔵の死後僅かに九年後であれば、武蔵が行った決闘の直接的な利害関係者や、そうした関係者にかなり近しい人々も、それなりに存命中だったはずだ。

 また、武蔵自身にも数多くの敵もいたはずだ。

 とすると、もし「小倉碑文」に明らかなウソなどが記してあれば、たちまち批判・非難等が起きたはずであろうし、石碑自体も撤去されたはずである。

 しかるに、そのような騒動などは聞いたことが無いし、石碑自体も当時より現在まで、しっかりと保存・継承されているのだ。

 これは、石碑建立の目的が武蔵を称えるためであったが故に、碑文の内容に武蔵を持ち上げる要素があったとしても何ら不思議ではないが、それでも、碑文の内容自体が、基本的に信頼出来るものであることを物語っていると言えよう。

 この点で、例えば吉岡家の家史を執筆したような書物を取り上げ、そこから「小倉碑文」と矛盾する内容を引用することで、「小倉碑文」を批判している論なども見かけるが、そういう書物はそもそも吉岡家の関係者間で内々に見るものなのであり、「小倉碑文」のように公衆の批判的な検査を受けていないのであるから、「小倉碑文」と同列に扱うこと自体が最初から間違っていると判断出来るのである。

 以上が、本稿でこれら二つの資料を使用した理由なのである。

 (なお、「小倉碑文」については、その執筆者は武蔵と親交が深かった春山和尚であったとする説もあるし、また、現在の石碑自体は建立当時の物ではなく作りかえられているとの説もあるが、これらの点については、後編の最後の所で再び触れることにする。)

三十歳以降のスタイル

 さて、宮本武蔵という剣術家は、前述のように、幼少期に父から特殊な剣術である「十手」という術を習ったわけだが、これは、左手に「十手」という武器を持ち、右手には太刀を持って戦う術なのであった。

 ここに「十手」とは、十文字槍の穂先のような形状をした武器なのであり、主に、敵の刀に絡めて無力化してしまう武器なのである。

 このことに関し、「小倉碑文」には次のような記述がある。

 “父、新免無二と号し、十手の家を為す。武蔵、家業を受け、朝讃暮研す。思惟考索して、十手の利は一刀に倍すること甚だ以て夥しきを灼知す。然りと雖も、十手は常用の器に非ず、二刀は是、腰間の具なり。乃ち二刀を以て十手の理と為せば、其の徳違ふこと無し。故に十手を改めて二刀の家を為す。”

 これをザックリと現代語に訳すと、“父は、新免無二と号し、十手(の術)を家の流儀としていた。武蔵は、その家伝の流儀の教えを受け、朝に夕に稽古に励んだ。よく考えてみた結果、十手(の術)は一刀(の術)よりも有利、それも何倍も有利であると分かった。しかしそうではあるが、十手は常用の武器ではなく、これに対し二本の刀は、常に腰に差している道具である。従って、この二刀を使って十手の術を行えば、十手の術の有利な点はそのまま維持出来る。ゆえに、十手の流儀を改めて、二刀の流儀としたのである。”

 また、武蔵自身による「五輪の書」には、次のような記述がある。

 “我、若年のむかしより兵法の道に心をかけ、・・・(中略)・・・六十余度迄勝負すといへども、一度も其利をうしなはず。其程、年十三より廿八、九迄の事也。

 我、三十を越へて跡をおもひみるに、兵法至極してかつにはあらず。をのづから道の器用有りて、天理をはなれざる故か。又は他流の兵法、不足なる所にや。其後なをもふかき道理を得んと、朝鍛夕練してみれば、をのづから兵法の道にあふ事、我五十歳の比也。”

 要するに、武蔵は、二十九歳までの自身の剣術についてはこれを問題視しており、三十歳を越えた後で改めて剣術修行をやり直した結果、ようやく五十歳頃に満足出来る剣術を習得出来た旨、述べているわけだ。

 そして、最終的な彼の流儀は、いわゆる二刀流である「二天一流」だったわけである。

 結局、以上のことから分かるのは、武蔵が二十九歳まで、即ち、岩流・佐々木小次郎と決闘した頃までに採用していた剣術のスタイルと、三十歳以降に改めて習得したスタイルとは異なっており、後者は二刀を使う「二天一流」なのであり、その「二天一流」というのは、「十手」の術の左手の十手を小太刀(脇差)に変えたような流儀だった、ということになるわけだ。

一人稽古が可能な戦闘方式

 さて、上記の「十手」の術だが、もうお分かりと思うが、この「十手」の術というのは、明らかに「B方式」の戦い方の剣術なのである。

 ここで、本サイトの「増補(1)(第1回から第6回までの全て)」と、「増補(2)」を、よく思い出してもらいたい。

 剣術流派の多くは「G方式」の戦い方をするわけだが、「G方式」の戦い方というのは、敵も我も自由自在に動き回ることが可能な戦いになるので、技の用法を稽古するに際しては、絶対に二人稽古の「組形」で修行する必要があるのであり、「単独型」のような一人稽古では通常は強くはなれないのである。

 しかし、「B方式」の戦い方であれば、一人稽古での上達も可能なわけで、結局のところ、三十歳以後の武蔵に関しては、彼が基本的に一人稽古で上達していけたのも、十分に頷けるわけである。

 では、二十九歳までの武蔵については、どうであったのだろうか?

 それまでの武蔵は「一刀」で戦っていたのであり、「十手」のような道具などは使っていなかった。

 とすれば、二十九歳までの武蔵の戦い方は、明らかに「G方式」だったことになるわけだが、では「G方式」でありながら、一人稽古で強くなる方法などはあるのだろうか?

 ある。

 「増補(2)」で述べた方法、即ち「敵より有利な(つまり長い)武器を使う方法」がそれなのだ。

 二十九歳までの宮本武蔵は、特に手強い敵と戦うに際しては、敵より長い武器を使って勝負していたのである!

「木刀」を使った訳

 これで、二十九歳までの宮本武蔵の「秘密」が解き明かされたことになる。

 若い頃の武蔵は、特に手強い敵との勝負では、敵より長い武器を使って勝利していたのだ。

 さて、敵より長い武器を使いたければ、剣術家であれば、通常の刀よりもずっと長い刀を拵えて、それを常時携帯すれば良いことになる。佐々木小次郎などはこうした方法を採っていたことは、読者も良くご存知のことと思う。

 しかし、武蔵はそうした方法は採らずに、決闘に際してのみ木刀を持参して戦ったわけだ。

 それは何故か?

 主な理由は三つある。

 まず一つ目の理由は、武蔵は「長い武器を使う」という己の戦法を徹底的に秘密にしたかったのだ。

 だから木刀にしたわけだ。

 長い真剣を常時携帯していたら、世間に向って「私は長い刀で戦う剣術家です」と公言しているのも同然なのであり、さらには、その武器である刀の「長さ」自体も人々に教えてしまうことになるからである。

 これに対し、木刀であれば、手馴れていれば短時間で作成可能なのであり、決闘の前日にでも簡単に用意することが出来、しかも、決闘の当日まで、いや、方法さえ工夫すれば、敵に木刀を打ち込むその瞬間まで、敵にこちらの武器(木刀)の長さを悟らせないことも可能であったからだ。

 二つ目の理由としては、この「長木刀戦法」とでも称すべき戦い方というのは、後に詳しく示すように、敵の体がその長い木刀の攻撃可能圏内に入るや否や、電光石火の速さで敵に打ち込む必要があるために、真剣に比べて軽い武器である木刀の方が、そうした素早い打ち込みにはより適していたからなのである。

 三つ目の理由としては、佐々木小次郎のように長い真剣を拵えてそれを常に使う方法を採ってしまうと、万が一それよりも長い刀を使う敵と遭遇した場合には、「敵より長い武器を使う」という戦法が採れなくなってしまうが、決闘に際してのみ木刀を持参して戦う方法ならば、決闘の都度、敵の刀より長い木刀を作って持参して行けばそれで解決するからだ。

 以上の三つが、決闘に際して武蔵が「木刀」で戦った主な理由なのである。

吉岡清十郎との決闘

 では、「小倉碑文」から、吉岡清十郎との決闘の場面を見てみよう。

 “後、京師に到る。扶桑第一の兵術、吉岡なる者有り。雌雄を決せんことを請ふ。彼の家の嗣、清十郎、洛外蓮台野に於いて竜虎の威を争ひ、勝敗を決すと雖も、木刃の一撃に触れて、吉岡、眼前に倒れ伏して息絶ゆ。予て、一撃の諾有るに依り、命根を補弼す。彼の門生等、助けて板上に乗せ去り、薬治、温湯し、漸くにして復す。遂に兵術を棄て、雉髪し畢んぬ。”

 ザックリと現代語に訳すと、“その後、武蔵は京都に行った。日本第一の兵術と称される吉岡なる者がいた。武蔵は雌雄を決しようと決闘を申し入れた。吉岡家の嗣子であった清十郎が(この決闘の申し入れを受け)、洛外の蓮台野において(武蔵と)争い、勝敗を決したが、武蔵の木刀の一撃に当たり、吉岡は、武蔵の眼前に倒れ伏して息絶えた。あらかじめ、一撃のみという約束があったため、武蔵は清十郎に止めは刺さなかった。清十郎の門下生等が彼を助けて板上に載せて去り、薬治・温湯の治療を経て、漸く回復した。そして、遂に兵術(剣術)を棄て、剃髪して出家してしまった。”

 この「小倉碑文」は、武蔵の養子であった伊織が残した文章だけに、あえてウソは書いてはいないものの、少しでも父・武蔵にとって有利になるような書き方になっているのが良く分かる。(この事は、「小倉碑文」を読み解くにあたって今後も極めて重要になってくるので、読者もよく記憶に留めておいてもらいたい。)

 つまり、上記では「雌雄を決せん」とか「竜虎の威を争ひ、勝敗を決す」とあり、その当時にこの様に書いてあればこれは「真剣勝負」と思うのが普通であろう。しかるに、勝負は、「木刃の一撃に触れて(武蔵の木刀の一撃に当たり)」決着がつくわけで、武蔵はこの「真剣勝負」に「木刀」で勝利したことになっているわけだ。

 従って、深く武術・剣術を理解出来ない素人がこれを読めば、武蔵は真剣勝負に臨みあえて不利な武器である木刀を手にして勝ったように読んでしまいかねないのである。

 しかし、事実はそれとは異なっていたのだ。

 武蔵は清十郎の刀よりも、(おそらくは格段に)長い「木刀」を使って勝ったのである。(何故、“(おそらくは格段に)長い”と記したのか、については後述する。)

 しかも、長い武器で戦うことを徹底的に秘匿していた武蔵であれば、勝負の開始時点ですらその「木刀」の長さを敵である清十郎にバラすわけもないと思うのである。

 おそらくは、この決闘場であった「洛外蓮台野」という場所は、丈の高い雑草などが生い茂る原っぱだったと思われるが、武蔵はその雑草の海の中に己が「木刀」の先端を隠し入れるなどして運んで行き、「木刀」全体の長さを秘したまま勝負を開始した、と思われるのである。

吉岡伝七郎は大男か?

 吉岡清十郎を破った武蔵は、今度はその弟である伝七郎と対決したわけだが、ここでもまずは「小倉碑文」から見てみよう。

 “然る後、吉岡伝七郎、又、洛外に出で、雌雄を決す。伝七、五尺余の木刃を袖にして来る。武蔵、其の機に臨んで彼の木刃を奪ひ、之を撃ちて地に伏す。立ち所に吉岡死す。”

 ザックリと現代語に訳すと、“それから後、(清十郎の弟の)吉岡伝七郎が、また洛外において、武蔵と雌雄を決することとなった。伝七郎は、五尺余りの木刀を手にしてやって来た。武藏は、好機を捉えて伝七郎の木刀を奪い、伝七郎を撃って地に倒した。ほぼ即死であった。”

 まず最初に指摘しておきたいのは、ここでもまた、世間の評価が武蔵にとって有利になるような書き方になっていることである。

 つまり、伝七郎は「五尺余」というとても長い木刀で戦ったのに対し、武蔵はそれを奪って勝ったわけで、深く武術・剣術を理解出来ない素人がこれを読めば、武蔵はかなり不利な状況下で勝利を手にしたように読んでしまいかねないからだ。

 しかし、真実はそれとは全く異なっていたのであり、その事については、後ほど明らかにしていく。

 次に述べたいのは、小説家や自称武術研究家などは、上記の「伝七、五尺余の木刃を袖にして来る」を読んで、「伝七郎は大男だったのだろう」などと安易に結論を出しているようだが、マトモな武術家・武術研究家なら、決してそのような安直な結論は出さない、という点である。

 なぜなら、そのような結論は、次の二つの点で明らかに間違っているからだ。

 まず、そのような結論を出す人の頭の中には、次のような「三段論法」が存在していることは明白である。

 1.武術家の身長・体格と、彼が使用する武器の大きさ・長さは、基本的に比例関係にある。

 2.吉岡伝七郎は、武蔵との決闘の際に、五尺余というとても長い木刀を使った。

 3.故に、吉岡伝七郎は、大男だったに違いない。

 以上であるが、この内の1.が間違いであることは、少し考えれば容易に分かることであろう。

 小柄な者でも槍術家であれば長い槍を使用することもあるし、大柄な者の中に小太刀の名手も存在し得る。

 従って、上記の1.が間違いなのであり、よって、3.のような結論も導き出せないことになるのだ。

 伝七郎が大男であったと安易に結論付けるのが間違いであるもう一つの理由は、「五尺余の木刀」ということそれ自体の中に存在しているのである。

 武術というものを真剣に追求していない人達にとっては直ぐには分かりにくいであろうが、「五尺余の木刀」などというもの自体が、武術的にはまず「有り得ない」代物なのだ。

 つまり、そんな「長すぎる木刀」では、マトモな剣術の勝負などは出来ないからである。

 実際のところ、武術家にとって「扱いやすい武器」というのは、結論から言うと、“(適度な重さを持った)三尺~四尺前後の武器が、最も操作性や正確さの点で使いやすい”のである。

 このように言うと、「素手や、あるいは、寸鉄のような小さな武器の方が、三尺~四尺前後の武器よりも、より一層扱いやすく、かつ、正確に目標を捉えやすいのではないのか」という意見を持つ人も出て来そうだが、そうではないのだ。

 「三尺~四尺前後の武器」こそが、正確さの点でも最も扱いやすいのであって、これより短くなっても、また長くなっても、正確さの点で難度が高くなってしまうのである。

 以前、「増補(12)」の注で、現代空手の「正拳突き」について、多くの現代空手家の突きはあまり正確では無い旨述べたが、素手の技になると、かえって正確に技を行うのが困難になるのであって、それよりも、三尺~四尺程度の木刀や棒などを使った方が、意外と正確に対象を捉えやすいものなのである。

 従って、吉岡伝七郎が「五尺余の木刀」を手にしていた、と知ったならば、武術家・武術研究家であれば、まずもってそのことの「異常性」に気付くべきなのであって、伝七郎は大男であった、などと間の抜けたことを言っているようでは、マトモな武術家・武術研究家とは言えないのである。

 結局のところ、吉岡伝七郎の身長・体格については、「不明」とするしかない。上記の「小倉碑文」の記述だけでは、明確な結論を出すことは不可能だからだ。

 ただ、後述するように、伝七郎は寧ろ小柄であった可能性の方が高い、とは判断出来るものである。

 * スポーツでも、手に持って使う各種の道具は結構この「三尺~四尺程度」の長さに収まるものが多い。

 ゴルフのクラブでも、野球のバットでも、大抵はこの位の大きさなのであって、そして正確さの点でも使いやすいのである。

 ** “(適度な重さを持った)三尺~四尺前後の武器が、最も操作性や正確さの点で使いやすい”などと記すと、「では、琉球の古伝棒術はどうなのだ?琉球の時代には六尺弱の長さだったようだが、それでも、三尺~四尺前後の武器ではないのだが」などという意見を述べる者も出てこないとも限らないので、ここで反論しておこう。

 まず、結論から言うと、琉球の古伝棒術の「武器」としての長さは、決して六尺ではなく、約四尺なのだ。つまり、棒自体は確かに六尺の長さがあるのだが、これを「武器」として使う際には、あくまで約四尺の「武器」として使用するのである。

 上記のような意見を言う人は、ここの所を大いに誤解していることになる。

 つまり、六尺棒を使う琉球の古伝棒術では「棒を三等分に持つ」のが基本中の基本なのだ。

 ここで議論を簡略化するために手自体の幅を無視すると、「棒を三等分に持つ」とは、六尺棒を二尺ずつ三等分した位置に左右の手を置いて棒を掴むことになるわけだ。

 そして、例えば、右手を前、左手を後ろにして棒を構え、その状態から棒を振り上げて例えば袈裟打ちを行う際には、前手の右手を後手の左手の位置に近寄せて袈裟打ちを行うわけだが、そうすると、両手より前方の部分の棒の長さは約四尺ということになる。

 この四尺こそが、「武器」としての六尺棒の現実的な「間合」になるわけである。

 従って、六尺棒を使う琉球の古伝棒術の「武器」としての「間合」は、決して六尺ではなく、正しくは約四尺なのだ。

 (ところで、このように解説すると、沖縄に残る現代の山根流棒術では「伸縮自在の棒」と称して、例えば袈裟打ちの際には、六尺棒を目一杯前方に飛ばす様にして打ち込むのであり、「棒を三等分に持つ」という他流で採用している基本は無視しているのだが、それを一体どう説明するのか、という質問が寄せられそうなので、一言しておく。

 結論から言うと、現代の山根流棒術は変形・変質しているのだ。

 例えば、現代の山根流棒術の「周氏の棍」という型を見ると、型の開始地点と終了地点とが何歩もズレてしまっている。正しい型であればこの両地点は完全に一致しなければならず、よってこの一事を見ても、同流の型が変形してしまっていることは明白なのだが、上記の袈裟打ちにしても、武術的に見て全く異常な打ち方になってしまっている。

 まず、「袈裟打ち」の動作が、その用語どおりの「打ち技」であるならば、棒を打ち込んでいる最中に、両手の中で棒を滑らせていき、袈裟打ちの動作終了時に棒の一番手前の辺りを両手で掴む、などという打ち方では、敵の体にマトモなダメージを与えることなどおよそ不可能である。

 何故なら、敵の体に棒が当たるのは、袈裟打ちの動作終了時ではなく、その少し前なのであって、それから一定の「フォロー・スルー(貫通)」の後に袈裟打ちの動作は終了するわけである。とすると、上記のような打ち方では、棒が敵の体に当たった瞬間には、我の両手はしっかりと棒を掴んではいないわけで、これではマトモな打ち技にはならないからだ。

 次に、「袈裟打ち」の動作が、「打ち技」ではなく「取手技」を意味している場合には、「打ち技」のような瞬発力とは異なり、持続的な力の発揮が要求されるために、袈裟打ちの動作のほぼ全体にわたって、「打ち技」以上にしっかりと両手で棒を握りしめておかなければ、マトモな技など掛けることは出来ない。

 結局のところ、上記のいずれの場合でも、そのような「伸縮自在の袈裟打ち」などは、「見せる(魅せる)棒術」以外の何物でもなく、武術としての棒術が失伝してしまった後に生み出された技術であることは明白と言えよう。)

 *** ここで念のために言っておくが、“(適度な重さを持った)三尺~四尺前後の武器が、最も操作性や正確さの点で使いやすい”と述べたのは、あくまで「操作性」及び「正確さ」の観点からのみの評価なのであって、例えば、それよりももっと長い槍を使う槍術の流儀もあるだろうが、それは三尺~四尺程度の槍に比べれば「操作性」や「正確さ」の点では劣るものの、武術的な観点から判断してそのような非常に長い槍が必要となれば、そうした槍術も生まれ得る、ということに注意願いたい。

吉岡伝七郎との決闘

 さて、吉岡伝七郎との決闘に話を戻すが、伝七郎が「五尺余の木刀」を持参した、という事実から、様々なことが分かってくるのである。

 まず、持参したのが真剣ではなく「木刀」であった、という点に着目してみよう。

 このことから導かれるのは、その「木刀」は、「普段から自分で使っていた木刀」か、あるいは、「急遽作成して持参した木刀」か、のいずれかということになろう。

 ここで気になるのは、そもそも吉岡流の剣術とは如何なるものだったのか、という点だ。

 吉岡流剣術はとうに失伝しているために、詳細等は不明ではあるが、色々な観点から推測すると、使用していた刀は、江戸時代の常寸とされる刀よりも短めの刀を使用する流派だったと見て、まずは間違いないと思う。

 以前、「増補(9)- 型の状況設定」の中で述べたことからも分かるとおり、武術というものは、それが発生する場所的環境等からの影響をかなり受けるものである以上、京都という当時の大都会で育った剣術であってみれば、それは比較的短めの太刀を使用する剣術だったはずであり、間違っても、例えば長大な野太刀を振り回すような剣術にはなるはずもないのである(そういう剣術は広い野原があるような地方で誕生・発達するからだ)。

 以上を踏まえると、そしてまた、前述のとおり「五尺余」もある木刀では操作性・正確さの点でかなりの問題がある以上、伝七郎が持参した「五尺余の木刀」というのは、「普段から自分で使っていた木刀」では決してなく、決闘用に「急遽作成して持参した木刀」であることが分かるのである。

 ということは、伝七郎は、兄・清十郎と武蔵との試合を見て、急遽、この「五尺余の木刀」の作成を思い立ったことになるわけだ。

 この事からも、武蔵は、清十郎に対し長い木刀を使って勝ったことが分かるのである。

 だから、伝七郎も、その武蔵の「長木刀戦法」を逆手に取って、武蔵との対決では、武蔵の木刀を上回る長さの木刀を使うことにしたのだ。

 さて、ここまで分かると、後は、清十郎との決闘で武蔵が使った木刀の長さがどれ位であったのか、という武蔵の木刀のサイズの問題が残ることになるが、結論から言えば、それは、おそらく「四尺+数寸」程度だったはずだ。

 理由を述べよう。

 まず、清十郎の刀は、刃渡りが約二尺から二尺余りとして、柄(約八寸)を加えれば、長くても全長で約三尺程度であったろう。

 そして、武蔵の「長木刀戦法」では、敵の刀より(僅かに長い木刀ではなく)明らかに長い木刀を使うのが基本になるのである。(何故なら、敵の刀より僅かに長い程度の木刀で戦ってしまった場合には、本来のG方式の戦いに成りかねないからだ。)

 となると、武蔵が使うべき木刀の長さは、清十郎の刀の全長の約三尺よりも、約一尺程度は長い約四尺ということになる。

 しかし、武蔵は、実際にはそれよりもさらに長い木刀を使ったのだ。

 何故なら、そうでなければ、伝七郎が「五尺余の木刀」などという、かなり使いづらい木刀の作成を思い立つわけがないからだ。

 結局、武蔵は、清十郎との戦いでは、約四尺の長さの木刀で十分だったわけだが、次に伝七郎と対決する可能性を考慮に入れて、あえてさらに長い「四尺+数寸」の長さの木刀で戦ったわけだ。

 つまり、清十郎相手に、「四尺+数寸」という、使い勝手から言えばギリギリとも言える長さの木刀を使用したのも、それを見た伝七郎がそれ以上の長さの木刀を使わざるを得ないように仕向けることで、かえって伝七郎に不利になるように仕向けた、ということだ。

 以前、“武蔵は清十郎の刀よりも、(おそらくは格段に)長い「木刀」を使って勝ったのである”と述べたが、その理由は上記の如しなのである。

 そして、以上のように考えると、吉岡伝七郎という人物の身長・体格は、大男というよりも、むしろ小柄であった可能性の方が大きいと思う。

 伝七郎がもし大男であったなら、それでも「五尺余の木刀」というのは、かなり使いづらいものではあるが、特に小柄であったならば、「五尺余の木刀」などを使ってはマトモには戦えなかったはずだ。

 だから、武蔵もその点を狙って、小柄な伝七郎に「五尺余の木刀」を使わせたのではないか、と考えられるからである。

 長すぎて使いづらい木刀を一夜漬けで武器に仕立ててしまっても、ほとんど剣術らしい勝負などは出来ないのであって、おそらく武蔵は、「五尺余の木刀」を持て余し気味に大振りに振り回してくる伝七郎に対し、その懐に簡単に入り身をしてその木刀を奪い、伝七郎に「ぶちかまし(身のあたり)」(「増補(3)」を参照の事)などを喰らわして倒し、最後に、奪った木刀で撲殺したのではないか、と思われるのである。

 * 以上、「五尺余」などという長すぎる木刀では、マトモな「剣術」は困難になる旨論じたが、そのように記すと、読者の中には“「増補(2)」で登場した大石進は、五尺三寸の長竹刀を使った「突き」の一手で天下に名を馳せたではないか。だから、吉岡伝七郎も「突き技」を使えば問題が無かったのでは?”という意見をお持ちの方もいらっしゃると思う。

 しかし、結論から言うと、古伝剣術の世界では、「突き技」というのは、流派によっては忌避したのであり、そこまで排除はしない流派でも主たる技術にはならなかったのである。

 つまり、剣術とは、「斬る」ことが基本だったわけだ。

 この点が、現代人には良く分かっていないようである。

 ここで、ちょっと、自分が真剣勝負をする場合を想像してみてもらいたい。

 殺人の経験が無くても推理小説は執筆可能であるのと同様に、本物の真剣勝負などは生涯行わないのではあっても、真剣勝負についてリアルに想像することは可能であろう。

 さて、読者と敵との真剣勝負が開始されて程なく、読者が渾身の「突き技」を発し、読者の太刀が敵の胴体に深々と刺さったとしよう。

 この時点で勝負は読者の勝ちである。

 しかし、敵は依然として太刀を八双に構えており、読者の太刀が敵の胴体を貫いた次の瞬間、敵の太刀は袈裟に振り下ろされ読者の左首にバッサリと斬り込んだ、とする。

 これで、読者は、勝負には勝ったものの、命は失う結果となるわけだ。

 よろしいであろうか?

 竹刀や木刀では、「突き技」が成功しても敵の体に刺さることはなく、むしろ敵の体は遠ざかるように動くために、上記のような結果には決してならないが故に、大石進が活躍した幕末の撃剣試合や、現代剣道では、「突き技」というのも一定の有効性を持ち得るわけだが、真剣を使った勝負では全くそのようにはいかないのである。

 要するに、真剣で敵の体を刺した場合、文字通りに「即死」してくれない限りは、刺したこちらの命も極めて危険になるわけだ。

 この点で、時代劇などを見過ぎていると、つい、人間はちょっと突かれさえすればいともあっさりと「即死」するような錯覚を持ってしまうものだが、人間は、(攻撃された部位にもよるとは言え)そう簡単には「即死」はしないのである。

 だから、古伝剣術の世界では、「突き技」というのは、余り評価されていないわけだ。

 決闘に際しても、基本的に普段鍛えた稽古どおりに技が発せられるものである以上、吉岡伝七郎が「五尺余の木刀」を手にした場合でも、「打ち技」主体で攻撃したであろうことはまず間違いのない所であり、その時だけ突然に「突き技」を多用するなどはおよそ不可能なのである。

 (なお、上記を読んだ読者の中には、“真剣勝負において、敵を突くのではなく、敵の体に斬り付けた場合でも、やはり同様にその直後に敵の反撃を喰らう可能性はあるのだから、「突き技」のみならず、「斬り技」もまた真剣勝負では使えない事になりはしないか?”などという疑問を持つ者もいるかも知れない。

 もちろん、こうした疑問に対しては明確な反論があるのだが、今回はあえて公開しない事にする。)

(以下、増補(17)の「宮本武蔵の戦い方(武蔵は何故、木刀で戦ったのか?)- 後編: 決闘、巌流島(岩流島)」へ続く・・・)

武術空手研究帳・増補(16) - 完 (記:平成二十九年七月)

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プロフィール

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 長谷川光政

 昭和33年(1958年)、東京生まれ。

 中学生(12歳)の時に剛柔流の空手を習ったのが、空手との最初の出会い。

 それ以来、首里手系の空手や、フルコン系、防具系の各流派等でも空手を学ぶ。

 しかし、いくら修行をしても、どうしても既存の空手に納得がいかず、最終的には自分一人での研究・修行を続けることとなった。

 それから十五年以上が経過した四十歳台後半に至って、遂に、失伝していた古伝空手の核心的技術である「当破(アティファ)」を発見することに成功。

 それ以降は、その発見をきっかけに、古伝空手の型に関する様々な謎も解明出来るようになった。

 また同時に、糸洲安恒の創始した近代空手の代表型である平安(やナイファンチ初段~三段)についても、その謎を解き明かすことに成功した。

 現在では、琉球の古伝棒術等の研究も一通り終了しており、新たな発見等については、漸次、この「武術空手研究帳」の「増補」等を通じて公開発表していく予定である。

 東京大学教育学部体育学健康教育学科卒。